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第2話:夫が押した『破滅』へのスイッチ


一度緩んでしまった財布の紐を、他人である私が締め直すのは至難の業だ。


義母と義姉の「たかり」は、私の予想を遥かに超える勢いで加速していった。

 最初は数千円のランチだった。


それがやがて、タクシー代になり、デパ地下での買い物代になり、ついには――。


「ねえ美晴さん、今度ね、お母さんと一緒にエステに行こうって話してるのよ」


ある日のランチ(当然、支払いは私だ)の席で、義姉の由香里さんが目を輝かせて言った。


「駅前に新しくできたサロン、知ってる? そこの『ロイヤル・アンチエイジングコース』が凄くいいらしくて。3人で予約入れちゃっていいかしら?」


私は持っていたフォークを落としそうになった。

 そのコース、確か1人2万円以上するはずだ。3人なら6万円を超える。


「え、あ、あの……それはさすがに高額ですし、私は遠慮します。お義母さんとお義姉さんで行ってきてください」


「あら、何言ってるの美晴さん。3人で行くから楽しいんじゃない! それに、予約はもう『3人』で仮押さえしちゃったのよ?」


悪びれもせず言う義姉に、義母もニコニコと頷く。


「そうよ美晴さん。日頃の感謝ってことで、ね? お父様の遺産もあって余裕があるんだから、ケチケチすると福が逃げるわよ?」


……ダメだ、話が通じない。


この人たちの頭の中では、私の財布は『打ち出の小槌』になっている。

 その場は「帰って夫に相談します」となんとか逃げたものの、私の我慢も限界だった。



その夜。

 私は帰宅した夫・和樹をリビングで待ち構えた。


和樹はビールを片手に、撮り溜めたバラエティ番組を見ようとリモコンを操作している。


「ねえ、和樹。ちょっとテレビ消して聞いて。大事な話があるの」


「あー? なんだよ、また不妊治療の話か? 疲れてるんだから勘弁してくれよ」


面倒くさそうに顔をしかめる夫に、私は深呼吸をして切り出した。


「違うわ。お義母さんとお義姉さんのことよ。最近、お二人の金銭感覚がおかしくなってるの」


「はあ? 金銭感覚?」


「そう。毎回ランチ代を私が払わされるのは百歩譲っていいとして、今度はエステ代まで出せって言われてるのよ。1回6万円以上もするの。さすがに断りたいから、和樹からもガツンと言ってくれない?」


私の必死の訴えに、和樹はようやく私の方を見た。

 けれど、その瞳に宿っていたのは、私への共感ではなく呆れの色だった。


「なんだよ、そんなことかよ」


「そんなことって……6万円よ? それに、一度OKしたら次はもっと高いものを要求されるわ」


和樹は鼻で笑うと、プシュッと音を立ててビールの2缶目を開けた。


「お前さあ、自分の立場わかってる? おふくろも姉貴も、お前の遺産をよこせって言ってるわけじゃないんだろ? たまの贅沢につきあってくれって、可愛げのあるおねだりじゃないか」


「可愛げって……金額が可愛くないって言ってるの」


「いちいち細かいなあ! お前、親父さんの遺産が入って懐が温かいんだろ? 数万円くらいでガタガタ言うなよ。みっともない」


みっともない。


その言葉が、私の心臓を冷たく突き刺した。

 私は家族のために、家計を守ろうとして相談しているのに。


「……じゃあ、和樹はこのまま私が出せばいいって言ってるの?」


「ああ、そうだよ。家族なんだから、金を持ってる奴が出すのが筋だろ。それで円満になるなら安いもんだ」


和樹はテレビに視線を戻し、「あー、面白い」と笑っている。

 私と会話する気など、もう欠片もないのだ。


――ああ、そうか。


この人にとって、私は妻ではなく『都合のいい金ヅル』でしかないんだ。

 私の悩みも、私の資産も、私の人生も、どうでもいいんだ。


その瞬間、私の中で何かが「プツン」と音を立てて切れた。

 怒りや悲しみが一周回って、頭の中が急速に冷えていくのを感じる。


私は静かに立ち上がると、自分のバッグからICレコーダーを取り出し、録音ボタンを押した。

 そして、ポケットに忍ばせて再び夫に向き直る。


「……ねえ和樹。最後にもう一度だけ確認させて」


「ああ? なんだよ、しつこいな」


テレビを見たままで生返事をする夫に、私は努めて冷静な声で問いかけた。


「お義母さんとお義姉さんの要求するお金、たとえそれがエステ代でも旅行代でも、私が文句を言わずに出せってことね? それがあなたの命令なのね?」


「ああ、そうだよ。お前が出してやれ。俺の顔を立てると思って、気持ちよく払えよ。二度と同じことで文句言ってくるな。わかったな?」


「……わかったわ。あなたがそう言うなら、私は従うわね」


私の声のトーンが変わったことに、和樹は気づかなかった。

 彼は満足そうに「やっとわかったか。最初からそうすりゃいいんだよ」と言って、ビールを煽った。


ポケットの中で、私は録音を停止する。

 確かな証拠ことばは取った。


夫は「お前が出せ」と言った。

 でも、「私の遺産(特有財産)から出せ」とは一言も言っていない。


「金を持ってる奴」とは、私個人ではなく、「我が家」のこととも解釈できる。


私の頭の中に、ある一つの口座のことが浮かんでいた。

 それは、結婚してから私が節約に節約を重ねて貯めてきた、将来の子供のための貯金。


名義は夫だが、管理しているのは私だ。

 いわゆる夫婦の『共有財産』。


――いいわよ、和樹。


あなたが望むなら、あなたの指示通り、「私たちのお金」で最高のおもてなしをしてあげる。

 その代わり、後で泣いても知らないから。


「ふふっ」


自然と笑みがこぼれた。

 さっきまでの胸のつかえが嘘のように消えていた。


私はスマホを取り出すと、義姉の由香里さんにメッセージを送った。


『お義姉さん、先ほどのエステの件ですが、喜んでご一緒させてください。3人で楽しみましょう!』


さあ、復讐のパーティーの始まりだ。

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