第2話:夫が押した『破滅』へのスイッチ
一度緩んでしまった財布の紐を、他人である私が締め直すのは至難の業だ。
義母と義姉の「たかり」は、私の予想を遥かに超える勢いで加速していった。
最初は数千円のランチだった。
それがやがて、タクシー代になり、デパ地下での買い物代になり、ついには――。
「ねえ美晴さん、今度ね、お母さんと一緒にエステに行こうって話してるのよ」
ある日のランチ(当然、支払いは私だ)の席で、義姉の由香里さんが目を輝かせて言った。
「駅前に新しくできたサロン、知ってる? そこの『ロイヤル・アンチエイジングコース』が凄くいいらしくて。3人で予約入れちゃっていいかしら?」
私は持っていたフォークを落としそうになった。
そのコース、確か1人2万円以上するはずだ。3人なら6万円を超える。
「え、あ、あの……それはさすがに高額ですし、私は遠慮します。お義母さんとお義姉さんで行ってきてください」
「あら、何言ってるの美晴さん。3人で行くから楽しいんじゃない! それに、予約はもう『3人』で仮押さえしちゃったのよ?」
悪びれもせず言う義姉に、義母もニコニコと頷く。
「そうよ美晴さん。日頃の感謝ってことで、ね? お父様の遺産もあって余裕があるんだから、ケチケチすると福が逃げるわよ?」
……ダメだ、話が通じない。
この人たちの頭の中では、私の財布は『打ち出の小槌』になっている。
その場は「帰って夫に相談します」となんとか逃げたものの、私の我慢も限界だった。
◇
その夜。
私は帰宅した夫・和樹をリビングで待ち構えた。
和樹はビールを片手に、撮り溜めたバラエティ番組を見ようとリモコンを操作している。
「ねえ、和樹。ちょっとテレビ消して聞いて。大事な話があるの」
「あー? なんだよ、また不妊治療の話か? 疲れてるんだから勘弁してくれよ」
面倒くさそうに顔をしかめる夫に、私は深呼吸をして切り出した。
「違うわ。お義母さんとお義姉さんのことよ。最近、お二人の金銭感覚がおかしくなってるの」
「はあ? 金銭感覚?」
「そう。毎回ランチ代を私が払わされるのは百歩譲っていいとして、今度はエステ代まで出せって言われてるのよ。1回6万円以上もするの。さすがに断りたいから、和樹からもガツンと言ってくれない?」
私の必死の訴えに、和樹はようやく私の方を見た。
けれど、その瞳に宿っていたのは、私への共感ではなく呆れの色だった。
「なんだよ、そんなことかよ」
「そんなことって……6万円よ? それに、一度OKしたら次はもっと高いものを要求されるわ」
和樹は鼻で笑うと、プシュッと音を立ててビールの2缶目を開けた。
「お前さあ、自分の立場わかってる? おふくろも姉貴も、お前の遺産をよこせって言ってるわけじゃないんだろ? たまの贅沢につきあってくれって、可愛げのあるおねだりじゃないか」
「可愛げって……金額が可愛くないって言ってるの」
「いちいち細かいなあ! お前、親父さんの遺産が入って懐が温かいんだろ? 数万円くらいでガタガタ言うなよ。みっともない」
みっともない。
その言葉が、私の心臓を冷たく突き刺した。
私は家族のために、家計を守ろうとして相談しているのに。
「……じゃあ、和樹はこのまま私が出せばいいって言ってるの?」
「ああ、そうだよ。家族なんだから、金を持ってる奴が出すのが筋だろ。それで円満になるなら安いもんだ」
和樹はテレビに視線を戻し、「あー、面白い」と笑っている。
私と会話する気など、もう欠片もないのだ。
――ああ、そうか。
この人にとって、私は妻ではなく『都合のいい金ヅル』でしかないんだ。
私の悩みも、私の資産も、私の人生も、どうでもいいんだ。
その瞬間、私の中で何かが「プツン」と音を立てて切れた。
怒りや悲しみが一周回って、頭の中が急速に冷えていくのを感じる。
私は静かに立ち上がると、自分のバッグからICレコーダーを取り出し、録音ボタンを押した。
そして、ポケットに忍ばせて再び夫に向き直る。
「……ねえ和樹。最後にもう一度だけ確認させて」
「ああ? なんだよ、しつこいな」
テレビを見たままで生返事をする夫に、私は努めて冷静な声で問いかけた。
「お義母さんとお義姉さんの要求するお金、たとえそれがエステ代でも旅行代でも、私が文句を言わずに出せってことね? それがあなたの命令なのね?」
「ああ、そうだよ。お前が出してやれ。俺の顔を立てると思って、気持ちよく払えよ。二度と同じことで文句言ってくるな。わかったな?」
「……わかったわ。あなたがそう言うなら、私は従うわね」
私の声のトーンが変わったことに、和樹は気づかなかった。
彼は満足そうに「やっとわかったか。最初からそうすりゃいいんだよ」と言って、ビールを煽った。
ポケットの中で、私は録音を停止する。
確かな証拠は取った。
夫は「お前が出せ」と言った。
でも、「私の遺産(特有財産)から出せ」とは一言も言っていない。
「金を持ってる奴」とは、私個人ではなく、「我が家」のこととも解釈できる。
私の頭の中に、ある一つの口座のことが浮かんでいた。
それは、結婚してから私が節約に節約を重ねて貯めてきた、将来の子供のための貯金。
名義は夫だが、管理しているのは私だ。
いわゆる夫婦の『共有財産』。
――いいわよ、和樹。
あなたが望むなら、あなたの指示通り、「私たちのお金」で最高のおもてなしをしてあげる。
その代わり、後で泣いても知らないから。
「ふふっ」
自然と笑みがこぼれた。
さっきまでの胸のつかえが嘘のように消えていた。
私はスマホを取り出すと、義姉の由香里さんにメッセージを送った。
『お義姉さん、先ほどのエステの件ですが、喜んでご一緒させてください。3人で楽しみましょう!』
さあ、復讐の宴の始まりだ。




