帰らないもの
玄関のドアを閉めた瞬間、蒼星はその場に崩れ落ちそうになった。呼吸がうまくできない。心臓が早く、強く鳴り続けている。手が震えて、鍵を落としそうになる。
「蒼星!?」
リビングから母の声がして、すぐに駆け寄ってくる。顔を見た瞬間、表情が変わった。
「どうしたの、その顔……って、なにそれ!」
頬についた血に気づき、母は息を呑む。次の瞬間には蒼星の肩を掴んでいた。
「怪我してない!?どこ!?噛まれてない!?」
「ち、違う……私のじゃない……」
声が震える。うまく言葉が出ない。
「外で……犬なのかな。変な怪物が……人を……」
それ以上、続けられなかった。
父もすぐに玄関まで来て、蒼星の様子を確認する。腕、首、足元。怪我がないかを一つ一つ確かめる。
「……傷はないな」
その一言に、母が大きく息を吐いた。
「よかった……本当に……よかった……」
そのまま、強く抱きしめられる。さっきまで感じていた恐怖が、少しだけほどけた。
「外は危険だ。しばらく出るな」
父はそう言って、すぐにテレビをつける。
画面にはすでにニュースが流れていた。
『現在、各地で動物による襲撃が確認されており——』
映像には、逃げる人々と、混乱する街。警察の声、誰かの悲鳴。
蒼星はソファに座ったまま、ぼんやりと画面を見ていた。でも、頭の中にあるのは別のことだった。
「……ミオ」
小さく名前を呼ぶ。
「まだ帰ってないの」
母が不安そうに言う。
いつもなら、もう帰ってきている時間だった。窓を軽く叩いて、何事もなかったみたいに入ってくるはずなのに。
今日は、静かすぎる。
「大丈夫よ……きっと、どこかに隠れてるだけ」
そう言いながらも、母の声には少しだけ揺れがあった。
テレビの映像が切り替わる。
『上空の発光現象は現在も続いており——』
映し出される空は、まだ明るい。昼なのに、どこかおかしい光。
父が小さく呟く。
「……外、静かすぎるな」
その言葉通りだった。さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、外は不気味なくらい静かだ。
まるで、何かが息を潜めているみたいに。
そのとき、ぐにゃりと視界が揺れた。
蒼星は顔を上げる。テーブルの上のコップが、ほんの一瞬だけズレた気がした。
いや——違う。
「……今の……」
時間が、ずれた。
ゆっくりと手を伸ばす。何もないはずの空間に触れると、水面のように揺れた。
そこに“何か”がある。
昨日見た、あの広がる空間の感覚。
「……やっぱり」
無意識に呟く。
「蒼星?どうかした?」
母の声に、はっとして手を引っ込める。
「……なんでもない」
そう答えながら、胸の奥がざわついていた。
世界が変わった。
でもそれ以上に——自分も変わってしまった。
夜になってもニュースは止まらなかった。
『能力に目覚めた可能性——』『火を出したという証言も——』
母は苦笑いを浮かべる。
「映画みたいな話ね……」
誰も否定できなかった。
窓の外を見ると、空はまだ淡く光っている。その光は優しいのに、確実に何かを壊していた。
「……ミオ」
もう一度、名前を呼ぶ。
返事はない。
静かな夜だった。
でもその静けさは、もう以前のものとは違っていた。




