空が割れた日
帰り道は、いつもと同じだった。
東京の夕方。
ビルの隙間から見える空は、少しだけ不思議な色をしていた。
青と、緑と、白と、黄色。
まるで絵の具を混ぜたみたいに、じわじわと滲んでいる。
「……なに、あれ」
蒼星は足を止める。
周りの人も、何人か空を見上げていた。
そのとき。
空が、光った。
強く、でも静かに。
音はない。
ただ、世界が一瞬だけ“明るくなった”。
次の瞬間。
光が、降ってきた。
雪みたいに。
雨みたいに。
ゆっくりと、街に触れていく。
「うわ、すご……」
誰かの声。
そのすぐ前を、ひとりの女性が歩いていた。
リードの先には、小さな犬。
よくある光景。
——だったはずなのに。
犬が、止まった。
ぴたりと。
「どうしたの?」
女性がしゃがみ込む。
その瞬間。
ぐしゃ、と音がした。
「え……?」
犬の体が、内側から膨らむ。
骨が軋む音。
皮膚が裂ける音。
目が、増える。
牙が、伸びる。
「……っ、いや……」
女性の声が震える。
次の瞬間。
——噛みついた。
「きゃあああああああああああああああ!!」
悲鳴。
血が、飛び散る。
温かい赤が、アスファルトに広がる。
蒼星の頬に、何かが当たる。
遅れて理解する。
「……血……?」
足が、動かない。
周りからも悲鳴が上がる。
「逃げろ!!」
「なんだこれ!?」
「やめて、やめて!!」
遠くから、別の叫び声。
低く、濁った“うめき声”。
振り返る。
別の通りでも、何かが暴れている。
犬じゃない。
猫でもない。
“元は何だったか分からない何か”。
それが、人を追っていた。
世界が、崩れていく。
音もなく、でも確実に。
「……っ」
そのとき。
蒼星の体に、異変が走った。
重い。
全身が、急に鉛みたいに重くなる。
「なに……これ……」
膝が揺れる。
視界が歪む。
ぐにゃり、と。
世界が曲がる。
その瞬間。
“広がった”。
目の前に。
どこまでも、どこまでも続く空間。
果てがない。
音もない。
ただ、“在る”。
「……なに、これ……」
理解が追いつかない。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
蒼星は、“別の場所”に立っていた。
でもすぐに。
現実に引き戻される。
「……はっ……!」
呼吸が荒れる。
心臓が痛い。
目の前には、まだあの光景。
血。
悲鳴。
壊れた日常。
「……逃げないと」
やっと、体が動く。
走る。
とにかく、家へ。
背後から、何かの咆哮。
振り返らない。
走る。
曲がり角を抜ける。
住宅街に入る。
そのとき。
目の前の家の窓が、内側から弾け飛んだ。
「っ!?」
中から、何かが飛び出す。
人の背丈ほどある影。
歪な体。
地面に叩きつけられた瞬間——
コンクリートが、割れる。
「……嘘でしょ」
バキ、と音を立てて。
地面が裂ける。
その“何か”は、そのまま——
地中へ潜った。
まるで逃げるように。
いや。
“光を避けるように”。
「……なんなの、これ……」
息が切れる。
足が震える。
でも止まれない。
また別の家から、音。
何かが動く気配。
もう、どこも安全じゃない。
「……帰らないと……!」
蒼星は走る。
何も分からないまま。
ただ、“帰る”ためだけに。
そのときはまだ——
誰も知らなかった。
この日を境に、
世界が“元に戻り始めた”ことを。




