[36]
終わった。
もう、手立てはない
諦めきった僕の目の端で、何かが動いた。
秋月さんが右手で顔面を撫で、髪の毛をさらりと掻き上げた。そして、たったそれだけの女性らしい優雅な仕草ひとつで、彼女は全ての傷を治してみせたのだ。
「あんまり気持ちの悪いもん見せたくはないけど、そうも言ってられないね」
秋月さんは僕を見て薄く微笑んだ後、正面に立つ鹿目を睨みつけた。
「あき…」
僕が声をかけようとした瞬間、ブジュリと音をたてて腐敗ガスのようなものが飛び出し、秋月さんの顔、首、胸、腹が赤茶色に溶けた。それはまるで小さな爆弾が体の表面で炸裂したようも見える。だが実際は体の各部位が内側から腐敗し、水疱化した皮膚が破れて体液が噴出しているのだ。
秋月さんはその勢いに一瞬は仰け反ったものの、手で触れることさえせずに自分の体を修復していく。しかし鹿目の放つ断続的な腐食の力に、何度も何度も秋月さんの体は破壊された。
身体の表面が淡青藍色から暗赤褐色へと変色し、衣服が裂け、乳房が露わになり、皮膚が裂けて体液を吹き、骨が露呈して液状化を起こすほどに腐り果てようと、秋月さんは瞬く間に破壊された部位をよみがえらせていった。
黒色化した左腕を押えたまま、三神さんですら身じろぎもせず二人の戦いに魅入っている。
破れた衣服や下着は復元できない。本当なら僕は、そんなあられもない秋月さんの姿を見るべきではなかった。だが、血煙をあげて眼前で繰り広げられる万華鏡のような攻防に、僕の目は釘付けにされてしまっていた。下卑た欲情など、これっぽっちも湧かなかった。
血と、肉と、骨が狂い踊る凄惨な決戦の場であるはずが、僕の胸は全く別の興奮で高鳴っていたのだ。
秋月さんの持つ霊能力が治癒である以上、鹿目に対して直接的な攻撃をしかけているわけではない。だが放たれる腐食の力をことごとく無効化、あるいは上書きしていく彼女の圧倒的な霊力は、鹿目にとっては排除すべき邪魔者であるに違いなかった。
『こんなに凄い人がいたのか…』
単純すぎるほど純粋な、それは尊敬だった。
一歩間違えば即死するほどの呪力を幾度となく正面から受けてなお、秋月六花はどこまでも美しかった。
不自然に、そして小刻みに振動する鹿目の右腕が千切れて肘から下がボトリと落ちた。
その瞬間、グジャグジャに溶けた腕の切断面から、ボルシチのような色の液体がドロリと畳に流れた。
ユラユラと回転する照明が消えてはつき、消えてはつきを繰り返す。
秋月さんの眉間に、不安が浮かんだ。
エエエエエーー…
感情のないそんな声が、突如鹿目の口から発せられた。
ドバ!
それまで鹿目の体から飛んだ飛沫によってじわじわと部屋を侵食していた腐食の力が、世界を反転させたように部屋中を一瞬にして侵し尽くした。それはまるで、秋月六花によって無力化されて行き場を失った鹿目の呪いが、軌道を変えて部屋全体へ飛散したかのようだった。
畳の上でひっくり返っている坂東さんや、うつ伏せに倒れ込んでいる玉宮さんの身体が、畳との接地面からどんどんと腐敗していく。
「ンンンン…」
負けじと霊力を練り上げる三神さんの片膝が崩れ、右手に握っていた数珠がバラバラとほどけ落ちた。数珠の珠は畳にテテンと転がるそばから色を変え、やがて霊力を失った。
秋月さんの背後でしゃがみ込んでいためいちゃんの足が膝下まで赤黒く染まり、かくいう僕の下半身は激痛を通り越して感覚を失いつつあった。母の気配はない。立っていられるのも、あとわずかだろう。
「この野郎」
秋月さんが呟いた。
「めいぐらい見逃してくれよ、まだ中学生なんだぞぉ」
秋月さんは涙を流しながら、天使が翼を広げるように両腕を持ち上げた。その間も鹿目の攻撃は止まず、秋月さんの身体は破壊と再生を繰り返し続けている。一体彼女にどれほどの負荷がかかっているのだろう。あまりにも激しく肉体が損傷するため、幾度か垣間見た高負荷の兆候である一瞬の老いも見分けがつかなかった。
やがて、秋月さんは両腕を広げたまま大きく息を吸い込んだ。
「小夜さん、ごめんよ。これで最後。押し勝てなきゃ、私の負けってことだ」
彼女がそう言って悲しい微笑みを浮かべた、その時だった。
「…聞こえる」
秋月さんの足元でへたり込んでいためいちゃんが、突如としてそう告げた。
両目を閉じ、痛みとともに足元から這い寄る呪力にこらえながら、めいちゃんは全神経を集中してその音の出所を辿っていた。
「来るよ。…来る」
「めい、どうした。…何が来るって? お前、その足」
「来るよお姉ちゃん!」
めいちゃんの両瞼が見開き、白濁した眼球が隣室を睨みつけた。
閉ざされたままだった襖が勢いよく解き放たれ、真っ暗な隣室から突風が吹き込んで来る。
僕の心臓が、まるで民族舞踊のような不可思議で不規則な早鐘を打つ。
めいちゃんはこう言った。
「井戸から何かが上がってくる」
ふううう、うう。
うめき声を上げて玉宮さんが身体を起こした。
身体の下敷きとなって顎に貼りついていた何かが、パララと畳に落下した。目を落とした玉宮さんが見たものは、辺見先輩があげた金平糖が、三粒。玉宮さんは蛇のように素早く舌を伸ばして金平糖をすくい取ると、口の中に含んでカリコリと噛んだ。
「ふううううぅぅぅ」
暗黒に呑まれたような隣室の暗がりを睨み付け、玉宮さんは獣のような唸りを響かせた。
ガリガリガリ、ドタン、ズスー。
…ガリガリガリ、ドタン、ズスー。
…ガリガリガリ、ドタン、ズスー。
…ガリガリガリ、ドタン、ズスー。
坂東さんも、秋月さんも、めいちゃんも、玉宮さんも、そして僕も。
誰も、何も言葉を発する事が出来なかった。
何かを引っ掻く音。何かを叩く音。何かを引き摺る音。
連続して繰り返されるその音とともに、その者は少しずつ僕たちのいる部屋へと近付いて来る。
かつてない恐怖に時間は停止し、大神鹿目の呪いすらもその速度を弱めたように感じられた。
ヨイ、ヨーイ…。
僕の目がスーっと、玉宮さんへと吸い寄せられた。
「カァァァッ!!」
気を吐くような声をあげ、暗闇から飛び出して来たソレが鹿目の背中にしがみついた!
突如現れたのは、紅おことさんだった。
見開かれた目に生命の輝きはない。
半纏に埋もれて見えなかった彼女の小さな体は枯れ木のように細かった。
だが、おことさんは両手両足を使って鹿目の背中におぶさり、そして、
「おおおおおお」
声を上げて泣いたのだ。
「待ってたよ、おこと姉さん」
玉宮さんはそう言ってさらに体を起こした。膝をついて四つん這いになり、鹿目の背中にしがみつくおことさんへと右手を伸ばした。
「私ら姉妹はそうだよねえ。離れちゃいけない。二人一緒でなきゃあ、意味ないんだよねえ」
玉宮さんは膝を立て、グッと力を込めて上体を起こすと、側に立つ秋月さんをゆっくりと見上げた。
「いいかい。お前たちはなにも気にすることなんてない」
「小夜さん…」
「もう、何も引き摺る必要なんてない。水中さんにも、姉さんの代わりに謝っといておくれ」
「小夜さん、何? 何するの?」
急な事態を呑み込めない秋月さんは瞳を震わせて何度も聞いた。
しかし玉宮さんは答えずに、視線を鹿目へと戻した。
「許してください鹿目様。初めからこうするべきでした」
ポタタタ、タタ。
鹿目の顔面から呪いが滴る。
いや、それは呪いではなかった。
変形し、変色し、もとの原型を留めぬほどに腐った畳に落ちてすぐに消えたそれは、確かに透明だったのだ。
声が、聞こえた。
「…テン、ヨリ……テンヨリ……ヨリマイ…」
…グフゥ。
喉を詰まらせ、嗚咽を迸らせ、三神さんが咽び泣いた。
その声は、確かに大神鹿目の身体から聞こえてきたのだった。
鹿目が、言葉を発したのである。
僕には何一つ、発せられた言葉を意味あるものとして聞き取ることはできなかった。
しかし少なくとも三神さんには、そしておそらく秋月さんにも、鹿目の言葉が理解出来たようだった。
三神さんは作務衣の前を握って泣き、秋月さんは広げた腕を降ろして俯いた。
後日聞いた話では、大神鹿目はこう、言葉を残したそうである。
『天より舞い降りたもうかなしみの子ら 正しくあるべき姿へと導け』
確かにその時、三神さんと秋月さんは最後にこう声を揃えたのだ。
「我ら、天正堂」
と。
玉宮さんが飛び上がり、鹿目の正面からぶつかって、そのまま三人の身体が空中へ跳ねあがった。
あっ。
息を呑み、制止の声を上げる暇もない僕たちの目の前で、鹿目と、鹿目の身体を前後から抱きしめる姉妹の身体が裏庭へ向かって飛んだ。
「お母さんッ!」
秋月さんがそう呼んで手を伸ばす。
しかし無情にも、三人の身体は吸い込まれるようにして井戸の底へと落ちて行った。
ユラユラと回転していた電灯の傘がピタリと止まり、部屋全体を赤黒く染め上げた腐敗の浸食は跡形もなく消えた。
主を失ったこの家に残されたのは僕たちと、…蜘蛛だ。
一匹の小さな黒い蜘蛛が電灯から伸びた紐にぶら下がり、風もないのにゆらゆらと揺れていた。




