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秋月さんは左手の平を三神さんへかざしたまま、正面の鹿目を睨み付けている。
鹿目は僕らになど興味を示さず、ただ真っすぐに秋月さんを睨み返していた。今や、背後に立つ自分の後継者である三神三歳ですら、鹿目の意識の外へと追い出されているように見えた。
三神さんと坂東さんはそのことに気が付き、お互い小さく頷きあって数歩後退した。
鹿目はほんの少し膝を曲げ、両腕は体に添わせてだらりと下げている。
つい先程まで丸くうずくまった、大きな石同様の即身仏だったのだ。自力で立っていることすら信じがたい奇跡である。あまつさえ、わずかに顔を動かし右を向いただけにも関わらず、微かな挙動で呪力を飛ばしてみせた。動くだけで、この男の霊力は発動するということである。
体のどこかの部位が裂けているらしく、鹿目の右手の指先から、黒い血筋が畳へと垂れ流れた。僕の視線がそちらへ注がれた、その時だ。
「器用だねえ、辺見さん。ちょっと、やめてもらっていいかな」
と、秋月さんが言った。
見れば辺見先輩は、玉宮さんが前のめりに倒れ伏せてからずっと、自身の右手を突き出していたのだ。
「やりたい事は分かるんだけどね、私のと相殺しちゃうかもしれないから、ちょっとやめてね」
秋月さんの言葉に、辺見先輩が慌てて右手を降ろした。
突然秋月さんが、ドスツ!、右足の踵で強く畳を蹴った。途端、
「ぷはあっ!」
玉宮さんが顔を上げて息を吹き返した。
僕は驚きのあまり身動き一つ出来ず、辺見先輩は感動のあまり両手で口鼻を覆った。
玉宮さんは畳に腕を突いて上体を持ち上げ、「恩にきる」としゃがれた声で礼を述べた。
だが僕は見た。苦笑を浮かべた秋月さんの顔が一瞬老け、そしてまたもとの若さに戻ったのだ。もし秋月さんの持つ能力に水瓶の底のような限界があるとすれば、今のがその兆候じゃないのか?
「ヨイ…ヨイ」
突っ伏したままの玉宮さんが右手を上げ、ドンと畳に平手を叩きつけた。
ズズズズン。
重さに耐えかねたように鹿目の身体がくの字に折れ曲がる。
「もういいよ小夜さん!」
涙ながらに辺見先輩が叫ぶ。
そうだ、そんな体で、無理をしたら…。
「いいわけあるか。ご先祖様の過ちに、お前らを巻き込んでたまるもんか」
「死んじゃうよ!」
「望むところさ。鹿目さまとともに生き、ともに死ぬんだ私らは。それでいいんだ。それで」
「駄目だよ!」
「…あんたが分けてくれた金平糖の分くらいは働くよ」
「小夜さんッ!」
パタタ、ポタタタ…。
身体を前かがみに折り曲げた鹿目の顔面から、大粒の滴がいくつも滴り落ちた。涙のようなそれらは畳にシミを広げるや、じわじわと浸食を拡大して周囲を腐らせ始めた。
「しまった…」
と三神さん喉を詰まらせた。「これじゃあ、悲劇を繰り返すばかりじゃないか」
鹿目の復活を阻止せんと封印を打ち続ける玉宮さんの力と、肉体をもった鹿目の呪力がぶつかりあっているのだ。気が付けば、部屋全体のいたるところに鹿目の巻き散らした黒い沁みが点在している。
腐食する呪いであるという。
もちろん、真菌や細菌に浸食される一般的な生物学的腐敗とは別物かもしれない。だが本来ならありえない程の猛スピードとは言え、人の肌を変色させて融解するそれらの現象を目の当たりにし、『腐敗』の他に言い表す言葉を僕は知らない。
古いこの家の和室は全て土壁で出来ている。その壁の四隅から、まるで蠢く虫のようにワラワラと浸食が始まった。坂東さんは周囲の壁を見やりながら叫ぶ。
「鹿目は自ら攻撃してこない。身に降りかかる火の粉を呪力でもって打ち返してる、これはそういうことなんだろ!? ならどうすりゃいいってんだ!おっさん!」
封印を試みれば、鹿目は霊力を打ち返してくる。
だがただ放っておいては、腐食は広がっていくばかりだ。
村全体に呪いをかけたという鹿目の力は、比喩でもなんでもなかったのだ。
「じゃあ、こいつはどうかな」
秋月さんがそう呟き、鹿目に顔を近づけた。
俯き加減に下を向いていた鹿目の顔から、黒い血糸が滴り落ちるのが止んだ。
「そうか」
三神さんは言う。
「封印ではなく、治癒で鹿目の霊力に対抗しようというのか?」
鹿目の醜悪な面相が持ち上がり、背の高い秋月さんを見上げて睨み合うような姿勢をとった。
秋月さんの綺麗な顔が、爆破されたように弾けとんだ。
見守っていた坂東さんの顔面に血飛沫が飛び、眼鏡でドロリと垂れた。
辺見先輩が失神し、両膝から崩れ落ちる。
三神さんが叫び声をあげ、坂東さんが無言で幽眼を開いた。
だが開いた瞬間ギョロリと動いた幽眼の瞳は真っ黒に塗りつぶされ、坂東さんは口から灰色の泡を吹いて倒れた。
坂東さんに手を伸ばした三神さんの左手が一瞬にして消し炭のように変色し、わなわなと震えて鹿目を睨みつける彼の横顔は顎の先から猛烈な速度で腐り始めた。
終わった。
もう、手立てはない。




