[34]
…僕は、生きている間に、こんな光景を目にすることになるとは思いもしなかった。
三神さんの言った通りだ。
何百年も前に死んだはずの大神鹿目があの世から戻って来たのだ。
発光をやめた鹿目の肉体は、今や僕たちと何ら変わらない実像を持って宙に浮かんでいる。
長年即身仏として井戸の上に鎮座していた体だ。ただ真っすぐに手足を伸ばすだけでも骨がきしみ、皮膚が裂けた。肉なのか血なのか分からない黒ずんだ汚物が細い糸となって何本も畳へと垂れ下がる。ブルブルと体を震わせる辺見先輩は、抑えきれない恐怖から小鳥のように喉を鳴らした。
くすんだ灰色の作務衣にこびりつく汚れ。
埃と油脂が混じりあったような、すえた匂いが漂って来る。
小柄ながら均整のとれた体つき。
短い頭髪。
病的なまでに色白の肌。
整った顔の美男子だ。
だがその表情には、さきほど見た朗らかさの一欠けらも残されてはいなかった。
落ち窪んだ目は隈に縁どられ、虚ろな黒目が正面眼下に立つ秋月さんを見下ろしていた。
ギギギギ、ギリギリギリギリギリ。
醜く捻り上げた唇から、奥歯を軋ませる音が漏れ出た。
再び一陣の突風が吹き、「ガッ」秋月さんが顔面を仰け反らせた。
めいちゃんが絶叫する。
秋月さんの顔の表皮が、ベロリとめくれ上がった。
「めい、私の後ろへ来い!」
融解した皮膚と粘液化した血を滴らせて秋月さんが叫ぶと、めいちゃんは泣きながら転げるように避難した。
パアアァン!
三神さんが柏手を打つと、呼応するように鹿目の身体がゆっくりと畳へと降りた。自発的でというよりは、三神さんの力で引きずりおろしたように見えた。ただでさえもろい鹿目の体は、三神さんの霊力に引っ張られて四方に悪臭をともなった血を飛び散らせる。その匂いがまた、僕に地獄を思い出させた。
小振りな白い数珠を握った左腕を突き出し、三神さんが鹿目へ語りかける。
「御大、お前さんの居場所はここにはないのだ。…戻られよ」
鹿目は僅かに右を向いたが、振り返ろうとはしなかった。しかしただそれだけだったにも関わらず、じわじわと、三神さんの腕の先が黒ずんでいく。
「おっさん」
坂東さんがその様子を凝視しながら、声をかける。
鹿目は背後に意識を向けた風ではあったが、三神さんに何かを仕掛けたようには見えなかった。
薄目を開けて自分の腕を冷静に見据えながら、三神さんは言う。
「新開の、辺見嬢、もう良い。行きなさい」
だけど!
「潮時だ。お前さんたちには事後のことを任せよう」
「どうするおつもりなんですか!」
辺見先輩の必死の問い掛けに、
「考えがある」
とだけ三神さんは答えた。
辺見先輩は首を横に振る。三神さんの考えというものが、平和的な結末を迎えないであろうことは僕にも予想出来た。彼は潮時だと言ったのだ。このままここで、腐り果てて終わりを迎えるということではないのか?
「三神さん!」
僕の叫びを、奇跡がかき消した。
皆が見ている目の前で、腐り始めた三神さんの腕が綺麗に修復されていくのである。それはまるで、フィルムの逆再生を見ているかのようだった。
秋月さんが、左手を前方にかざしていた。
「事物を腐らせるということは時を推し進めるということ。片や治すということは事物の時を元に戻すこと。彼女が同じ世代に生まれてくれたことを幸運に思うよ。秋月六花はまさしく、神に愛されたお人だ」
失われつつあった手の先の感覚が戻って来る…。我が身におきた奇跡を体感しながら、三神さんはそう褒めたたえて秋月さんを見据えた。
「普通その距離で届くかねえ。先輩、やっぱりあんたぁ…」
呪いの元凶とも言える鹿目を前にして、坂東さんまでもが感嘆の声をあげながら頭を振った。
その思いは、僕も同じだった。かつて三神幻子は、傷ついた文乃さんの身体に手かざしで治療を施した。それは一般的に『手当』と呼ばれるもので、対象となる体に触れる、あるいは触れるか触れないかの距離で治癒を試みるものだ。だが秋月さんは違う。目の前に立ちはだかる大神鹿目を隔て、更に離れた三神さんへと手の平を『かざす』だけで治癒が可能なのだ。しかも、すでに彼女自身のはがれた顔の皮膚までもが、元通りに治りつつあった。




