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「しもつげむら」   作者: 新開水留
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[29]


「自分からは入ってこれないのか?」


 ああ?

 僕の声が聞き取れなかったのか、坂東さんが眉間に皺を寄せて睨んだ。

 めいちゃんの話を聞いた時、思ったことがある。

 何故『よくない人』は海辺の喫茶店を訪れた際、玄関扉の前に立ったまま店の中へ入ろうとしなかったのか。店内にいるのが秋月さんだと分かっていたから、入らなかったのか。そして何故、その者が繰り返していたという言葉は、「出て来い」だったのか。状況だけを見れば、ただひたすらに気味が悪いだけだ。そこにあえて、意味があるのだと仮定すれば…。

 だがいくら考えたところで、あくまでも推測の域を出なかった。

「僕が行った方が早いな」

 僕は無意識にそう呟き、質問に答えない僕の態度に苛立った坂東さんが、僕の右肩を掴もうとした。しかし僕は一瞬早くそれをすり抜け、たたきに降りた。

「新開くん!やめて!」

 辺見先輩が立ちあがって、玄関の方へと出て来る。

 しかし僕は振り返らずに靴を履くと、そのまま外へと歩き出した。

 ガキがッ。

 慌てた坂東さんが後を追って来ようとする気配に、僕は左手を背後に向けて彼を拒んだ。

 …と、玄関のたたきで歯ぎしりしながら仁王立ちする坂東さんと僕の間に、やがて音もなく『よくない人』は降り立った。

 やはりそうだ、と僕は思う。どういう理由があるのかは知らないが、その何者かは自分の意志で他人の家に入ることができないのだろう。

 しかし相手にとっても、意外だったことは間違いない。一人で家から出て来た僕に直接襲い掛かることをせず、『よくない人』はわざわざ僕の三メートル程後方に下り立ったのだ。

 家の中からは当然僕たち二人の後ろ姿が見えていたようで、

「新開!後ろにいるぞ!」

 と坂東さんが叫んだ。本来であれば隙をついて熱線を撃つ場面だったのだろうが、僕が何も告げずに歩き去ったがために、坂東さんも我を忘れていたのだと思う。

 だが僕はあえて背を向けたまま、動かなかった。

 なぜならそれが、僕の作戦通りだったからだ。

 聞いた話では、辺見先輩がたたきに降りて坂東さんの横に立った。そして僕の背中に被さるようにして立つ、黒い帽子と衣服に身を包んだ女を見た瞬間、彼女は無言で走り出したそうだ。坂東さんが一瞬早くそれに気がつき、咄嗟に彼女の腕を取って引き留めてくれた。その時だった。

 目撃した辺見先輩の証言は、こうだ。

 僕の背後に迫ったその女の両肩からなんの前触れもなく、白い腕が生えた、という。

 女は当然僕の背中を見据えているため、家の中にいる辺見先輩たちには自分の背を見せる格好である。その女の両肩から、腕が生えたと表現したのである。

 僕は直接見ていない。だが想像するに、つまりはこういうことだ。

 迫りくるその女の正面から、白い腕をもつ何かが抱き着いたのだ。その何かの両腕が、肩から背中へと回される様が、腕が生えたように見えたのだろう。

「なんだよ…あれ」

 思わず坂東さんもそう独り言ちたそうだ。

 彼はてっきり、まるで落とし穴のように霊穴がぱっくりと口を開くのを想像していたのだ。

 だが現れたのは穴ではなく、もう一人の女だった。


 そう、僕の母だ。

 



 雑草と砂埃を巻き上げて、坂東さんの放った熱線が僕の背後を薙ぎ払った。

 彼いわく、もう一人厄介な敵が増えた、と思ったそうだ。

 だが坂東さんから放たれた幽眼の熱線が地面を焼くよりも早く、僕の母と黒衣の女は忽然と姿を消した。

 母・よりこの開けた霊穴に落ちたか、あるいは恐ろしい速度で逃げ去ったか、そのどちらかだろう。

 これまで僕の意図とは無関係に開いた霊穴に、生きた人間が落ちた事は一度もない。

 生身の身体で、三神幻子が「何もない」と断言した空間に落ち行く様は、想像するだけで震えがくるほど恐ろしい。出来ればそんな目には、誰にもあってほしくはない。

 だがそもそもが、僕は一つだけ疑問に思っていた。

 かつて幻子は、僕にこう説明しているのだ。

 この世に彷徨い出たあの世の者たちには、すべからく自分が死ぬ直前の思念しか残されていないのだと。

 彼女の言葉が真実だとすれば、例え僕が自らの意志で母を呼べたとして、そして都合よく霊穴を開いたとして、母は僕の身に迫った危険を取り払おうと誰かを、何かを、攻撃などするだろうか…?

 僕が坂東さんの計画に賛同しなかったのも、実を言えばこの疑問が脱ぐいきれなかったからでもある。

 幻子は言うのだ。悪霊などいない。人間を攻撃する、命を脅かす霊体などいない、と。

「…母さん」

 では、この時現れた母は、僕の背後に迫っていた黒衣の女をどこへ連れさったというのだろうか。

 何をしたのだろうか。

 坂東さんと辺見先輩がよろよろと家の外へと出て来た後も、黒衣の女が姿を見せることはなかった。

 確かに危機は去ったのかもしれない。と同時に、その女が果たして黒井七永であったのか、この時の僕たちが知り得る手立てまでもが、同じく失われてしまったのだ。










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