第二話 ルカーノという男
ルイスとアルフォンソは同時に振り向いた。彼らの目に映ったのは背の高い、堂々たる体躯の男。海の男だとルイスは直感する。その磨き上げられた赤銅色の肌と、膝下を守る茶色の長革靴は確かに彼らの共通点。ルイスは気付かなかったが、堂々と腰に差された拳銃もまたそのひとつであった。
「お前たちだよな? 今アルゲントゥムの話をしていたのは」
潮風が刻み込まれたその容貌とは裏腹に、男の声は昼を告げる鐘の音のようであった。彼は二人に歩み寄る。
「そうだけど、何さ」
「お前たちがアルゲントゥムについて知っていることを私に教えてくれないか?」
おそらく二月は剃っていないのだろう、男の口元から頬にかけては無精ひげが乱舞し、それにルイスがひどく子供っぽい憧憬を持つ一方でアルフォンソは近づきがたい感覚を覚えた。しかし同時に、その目鼻立ちは二人が今まで見たどんな者のそれよりも整っていた。とりわけ彼らをしっかと見据える大きい双眸は黒真珠のような深い光をたたえている。それは意志のある瞳だった。
「ルー、どうしよう?」
「どうしようったって……それより、大体あんたは誰なんだ? 何だってそんなことをいきなり聞くんだよ」
「ああ、確かにそうだな。私はルカーノ。見てわかるだろうが、船乗りをやっている。アルゲントゥムについて聞いたのは──」
「ちょっと待った。かぶと虫? そりゃ本当にあんたの名前か?」
「そうだ。どうかしたのか? 自分では結構気に入っているんだがな」
あっさりと言ってのけたルカーノの態度に、ルイスとアルフォンソは互いの顔を見合わせた。こんな変な名前が世の中にはあるのかと、彼らは純粋に驚いていたのだ。もしルルの町に一月も居たならば、彼らは今頃ルカーノのことを大いに指差し笑ったことだろう。だが今の二人はまだ何につけても疑うことのない、驚かぬことのない泥まみれの子供なのだった。ルカーノはそんな二人の反応を見て取ると、ふっと笑って言った。
「変な名前だと思ったか?」
「ああ、そりゃあもう。俺だったら絶対そんな名前はやだね。なあアル?」
「ちょ、ちょっとルー、言い過ぎだよ。本当にごめんなさい、ルカーノさん。僕はアルフォンソ・オリオールで、こっちの彼はルイス・アロンソです。えっと……あの、怒らないでくれますか?」
「何、構わないさ。それより、この名前を憐れんでくれるよりかは、何でもいいんだ、アルゲントゥムのことを教えてほしいのだが」
「あの、それは、でも……」
アルフォンソはそこで言いよどんでしまう。その様子を見たルイスは彼の代わりに口を開く。ルイスの方はこの奇妙な名前の男と少しくらい話をしてもいいかなと思っていたが、しかし船に乗り遅れるわけにもいかない。
「ごめんよ、ルカーノさん。アルゲントゥムの話はしたいんだけど話してる暇がないんだ。俺たちは新大陸に行かなきゃならないのさ。タダで乗れる船があるみたいだから、急いで行って乗らなくっちゃ」
「タダで乗れる船?」
「こいつが見つけたんだ。ほら、あそこに見えるだろ? 二本マストの黒い船」
ルイスが指差した先を、背伸びしたルカーノは額に手を水平に当てて見やった。彼は目を瞠った直後、その眉根にしわを寄せる。
「あれは……」
「どうした? あっただろ?」
「ああ。だが……なあ、ルイス、アルフォンソ、お前たちは今幾つだ?」
「どっちも十六だけど?」
なぜそんなことを聞くのだろう、と思いつつルイスは答えた。数秒の後、ルカーノは彼らに向き直る。
「二人とも、うちの船に乗らないか? 新大陸までちゃんと連れて行くと約束しよう」
「え? 何で急に?」
「そうすれば話をする時間もあるだろう?」
「うーん……そう言ってくれるのは嬉しいけど、お金がないんだ。七レペウしかなくってさ」
「アルゲントゥムの話を聞かせてくれたら、それでいい」
「ほんとに?」
「ああ、食べ物もちゃんとある。どうだ? 悪い話ではないと思うが」
その思いがけない申し出にルイスとアルフォンソは再び顔を見合わせた。今度は驚きだけでなく、喜びをも口の端に浮かべながら。なにせ彼らはアマルゴの町を離れてからこの方、満腹になったことはなかったのだから。
ある朝児らはどよめきし
水際を囲い果てを指す
示す先には山が在り
水面に浮かぶ山が在り
遥けき雲を頂きて
万の鳥をはべらせし
吹きそよぐ風絡み合い
震える木々は凄まじき
運河が町じゅうに張り巡らされている関係上、当然ながらルルの町のあらゆる所に橋を見つけることができる。美しいアーチを描く石造りの橋は、その下を通る船を邪魔しないようにと配慮されたものだ。運河に十倍する数の橋が人と人とを結びつけ、橋に十倍する数の船がその結びつきを更に密にする。
ひっきりなしに人や物を運び続ける屋根のない小舟に混じって、幌で全体を覆った船を操る者が居る。迷路のような運河を抜けルルの町を東西に分かつトゥルバ川の本流に船を進めた彼は、船を桟橋に固定すると幌の中に向けて大声で呼ばわる。するとそこから五人ばかりの屈強な男どもが姿を現した。積荷の運搬と酒の消費に従事する彼らの住まいは、他でもないこの幌船なのだ。彼らは一日のほとんどを水の上で過ごす。都市というものの望ましからざる、しかし避けがたいひずみは、このような形で人の営みの中に組み込まれていた。
やがて我らは気付きたり
それは島なり山でなし
初めて見るや根なし島
波を砕きて海を行く
白銀の塔咲き乱れ
朝日の下に輝けり
誰言うとなく皆知れり
彼の島の名はアルゲントゥム
許可証を持たない違法な商人が、幌船に品物を積んで商売を行うこともあった。ルルの町では政庁に届け出を出し、所定の商売税を納めることを誓約しなければ店を出すことは認められていない。だが船を出すことは自由であると主張して幌船で利を追い求める人々が、主に繁華街のある右岸において躍動していた。
もちろん法を執行する官吏からだけでなく、こっちはまじめに税金を払っているのにと憤慨する商人ギルドからも目の敵にされていた彼らが厳重な取り締まりの対象となっていたことは言うまでもない。だがしかし、彼らの存在なくしては自由闊達なルルの繁栄がありえないこともまた、事実だった。それを理解していたのかどうかは分からないが、この頃はまだ違反者に対する罰則も商品の没収のみという非常に緩やかなものだった。
月が沈みて陽が昇り
彼の島煙となりにけり
波の便りに導かれ
いずこなりへと消えにけり
されど我らはその名を伝う
ゆえに我らはその名を告げる
彼の島の名はアルゲントゥム
波渡る島アルゲントゥム
そして夜になれば、積極的に道行く人に声をかける幌船の船頭も現れる。そのような船の幌の中には大抵二、三人ほどの若い娘が粗末な亜麻の敷き布と共に押し込められている。個々の仕切りさえないその空間だが、陸の店で買うよりも半額以上安く済ませられることは多くの男たちをそこに惹き寄せていた。
月の光を決して浴びることのない彼女たちは、皆一様に同じ願いを抱いていた。それはいつの日か一夜を共にしたあのみすぼらしい男が金持ちになってルルに戻ってきて、私のことを伯爵夫人として迎えに来てくれるのだというもの。それは所詮幻想に過ぎないわけだが、その幻想を生み出すだけの素地がルルという場所にはあった。
そんなあまりにも多くの思いが行き交う運河を進む小舟の上で、アルフォンソは朗々と歌い終えた。
「ありがとう、アルフォンソ。いい歌だった」
麦わら帽子を被り、櫂を操る船頭の前には席が四人分ある。舳先側にはルイスとアルフォンソが並んで座り、それと向かい合う形でルカーノが腰を下ろしている。彼はアルゲントゥムの歌を聴いている時はずっとその目を閉じて沈黙したままだったが、拍手も終えた今その瞳は爛々と光ってアルフォンソのことを見つめていた。
「そんな、褒められたもんじゃないです」
「謙遜することはない。しかし、興味深かったな」
「何がです?」
「それはな、そうだな、どこから話したものか」
ルカーノはその顎ひげに手をやり、言うべき言葉を捜し出した。すると、今まで歌をそっちのけに白いパンを嬉しそうにかじっていたルイスが口を挟む。
「なあアル、お前どこでそれ覚えたんだっけ? 何でお前だけ知ってるんだ?」
「牧師のペドロさん、覚えてる?」
その白パンはつい先ほど、船に着くまで食べていろとルカーノが彼らに買ってあげたものだ。一個あたり三レペウ。普段食べる泥団子のような、安物の黒パンとは比べものにならないその柔らかさにルイスは感動しきりでアルフォンソの歌声もほとんど耳に入っていなかった。彼はパンにまたひとつ歯形を増やしつつ首を縦に振る。
「あの人がご主人様のお家に来られたときいつも歌っててさ、横でこっそり聞いてたら覚えちゃったんだ」
「ちぇっ、何だよそれ。道理で俺はお前からしか聞いたことなかったわけだ。いいよなあ、アルは」
「まあ、そうかもね」
頬を膨らませたルイスにアルフォンソは微笑で応えた。もちろんアルフォンソは自分の境遇が恵まれたものだったとは考えていない。両親の顔も知らず、気付けば自分は奴隷になっていて、眠る時さえも鞭におびえる毎日。今だってこんなおいしいものを自分なんかが食べていいのかと思ってしまい、手元の真っ白いパンにはかえって食指が動かないほどなのだ。
それでもアルフォンソがそう応えたのは、ひとえにルイスとの間に同情という仕切りを設けてしまいたくなかったからだった。故郷のアマルゴで、奴隷のアルフォンソと赤心から話していたのはルイスだけだった。当然だがこの場合はルイスの方がおかしいと言わざるを得ない。奴隷は人間ではないのだから、まともに会話などできるはずがない、果たして家畜が言葉を話すだろうか、というのが一般的なものの見方なのだ。
鞭打たれた彼が町の外れで傷の痛みに泣いていた時、ほとんどの人は彼を視界にも留めなかった。牧師のペドロなど一部の大人は彼に手を差し伸べたが、アルフォンソの手が節くれ立っていたならば彼らはそうしなかっただろう。ただ一人ルイスだけが、背を丸めるアルフォンソを見つけるとふらふらと歩み寄って、横に座って出し抜けにこう言うのだ。なんだ、また皿でも割ったのか。相変わらずお前はすぐ泣くよなあ。
それはのけ者二人が寄り合っただけに過ぎないのかもしれない。だが、アルフォンソにとってはそれがどれだけ嬉しかったことか。ひとりの奴隷ではなく、ひとりのアルフォンソ・オリオールを求めてくれる人が居たことがどれだけ救いになったことか。だからこそ、ルイスがルルの港へ行こうと彼に言ったあの時、彼は死をも覚悟してアマルゴの町から逃げ出そうと決意したのだった。
そして彼は同時にもうひとつのことを決心していた。もし事が成就したなら、ルイス・アロンソに感謝しながら一度死んだつもりで生きなおそうと。彼はそう自分自身に誓いを立てたのだ。ただもっとも、ルイスは自分の行動がアルフォンソにそんな影響を与えていたことにはまったく気付いていないのだが。
「旦那、そろそろ川に出ますぜ。船は下流の方ですかい? それとも上流ですかい?」
「おっと、もうか。下流の方へ頼む。今日は増水しているようだが、横付けできるか?」
「当たり前でさ。任せて下せえ」
停泊している幌船の間を巧みにかいくぐり、彼らの小舟は小波を立て走る。ルイスが上半身をひねって進む先を見やれば、もはやそこには町はなかった。ただ水と、船と、光があるだけだった。
「アル、なあ、アル」
思わずルイスはアルフォンソの名を呼ぶ。アルフォンソも彼の指差す先を見て図らずも息を呑んだ。今まで彼らの左右を覆い尽くし、薄暗い陰を作っていた建物は彼らの後ろへ消え去った。もう彼らの視界を遮るものは何もない。茫漠たるトゥルバの流れの中で、彼らは今太陽にさえも手が届く気がしていた。
「どうだ? 水の上も悪くないだろう?」
「悪くないどころか、こんなの初めてだよ!」
「すごいや。ほんとに、すごいや……」
水面は茶色く濁っていたものの、燦々と降り注ぐ白い光が、寄せては引く波と共に織りなす模様はあまりにも美しい。好奇心に駆られたアルフォンソは船から半身を乗り出して水の中に手を伸ばす。自らの手に沿って広がりゆく波紋に、彼はいつになく興奮していた。
「だがな、ルイス、アルフォンソ。海はもっとすごいぞ」
「これより広いの?」
「ああ、もちろん。辺り一面どこを見ても水しかない。その水はこんな茶色じゃない。青いんだ。あの空みたいに、うらやましくなるくらいに青いんだ」
「旦那は海の船乗りなんですかい?」
「そうだが?」
「いや、余計なお世話かもしれませんけどね、最近はどうも海賊連中が幅をきかせてるようでして。気をつけろと言っても気をつけようがありませんが、海に出るんならとにかく無事で居てほしいと思ったんでさあ」
「親切にどうもありがとう。だけど、心配無用だ」
「そう願ってますよ。あっしが運んだ客が奴隷になって売り飛ばされてたんじゃあ寝覚めが悪いってもんです」
「何、海賊の中にも色々ある。もしかしたらビスケットくらいは分けてくれるかもしれないぞ?」
「ははは、そりゃあ面白いこって。さて旦那、旦那の船はどれですかい? もう見えてますかね?」
「ああ。右岸の方だ。四隻が真っすぐ縦に並んで泊まっているのが見えるだろう?」
「ええ、ええ。あれのどれですかい?」
「全部だ」
全部。信じがたいその言葉に、全員の目が同時にルカーノへと向けられた。
「だ、旦那? 全部ですって?」
「そうだ。四隻全て私の船だ。先頭の船の横に付けてくれ。さあルイス、アルフォンソ、そろそろパンを食べ終えてくれないか? お前たちにだけそんなものをやったと知られたら、他の連中が私に文句を言ってくるかもしれないのでな。ああ、それから」
ルカーノはくるりと振り向くと、まだ口を開けたままの船頭の手に一レペウ銅貨を二枚握らせる。
「あなたのおかげで無事に波を越せそうだ。感謝する」
そのひとつは彼の櫂捌きに、もうひとつは心遣いに与えられたものだった。通常の二倍の報酬に仰天する船頭をよそに、再び互いの目線を合わせて頷きあったルイスたちは残っていたパンを一息に口の中へと押し込んだ。




