繋ぐ瓊枝:02 辞書──承りぬ
「はー本当に難解だこりゃ」
翌日の午後、汽車に揺られながらヒードゥルの言語の手引書をめくり、シャラが感嘆の声を上げる。
「動詞の活用とか時制とか……いやそれ以前に、そもそも品詞の概念から違うとは。よく数日でそこまで訳せましたね」
そもそもその手引書自体も、古典語で書かれた古文書だ。古典語の辞書を引きながら異言語の解説を読む、という知性の曲芸のような作業になる。
「いくつか系統の異なる言語を学んだ経験があれば、ある程度は勘所が分かるものですが…… やはり古代の言葉というのは、生きた用例が限られるのがツラい所です」
ナヴェットは相変わらず、詩の翻訳の精度を上げようと辞書をめくっている。
しかし昨夜は普段よりも寝る時間がだいぶ遅くなったので、既にかなり眠たそうな顔である。
「しかし手引書や辞書が古書であれ残っているのは、この地で話者たちが一定の基盤を築いたことの表れでしょうか」
シュロは二人の作業を眺めながら、革細工の内職に勤しんでいる。
一見「我関せず」を決め込んでいるかのようにも見えるが、シュロは手元を動かしている方が思考が開けることをシャラは知っている。
「クロツバキ様も仰っていましたね、環樹の周辺にも多く住んでいたのだと。技術者集団として役割を担っていた可能性も高いと思います」
託された枝をナヴェットは改めて見つめた。
篝火の側では金属質に見えたが、陽光の下ではうっすら透き通ったような質感に感じる。
「その枝、前に仰っていた『新たな目的として埋め込む』ためのものでしょうか」
まだ首座たちが方針検討の途中だと言っていたのに、そこまで進めて良いのかシャラは判断しかねた。
「最終的にそう使うこともできるでしょうが、単なる交信にも媒介として使えるかもしれません」
「交信ですか」
ナヴェットの言葉に、シャラは憂鬱そうな顔をする。
「あの溢れかえった流体水晶をどうしたものか、まだ何も考えられていないのですよねえ」
「それについてなのですが」
ナヴェットは視線を宙に上げて少し考え込む様子を見せた。
「少し考えていることがありまして」
「えっそうなんですか」
シャラが、そして隣のシュロも驚いてナヴェットを見つめる。
「あ、でも具体的な手段が思いついているわけではないんです。考え方の方向性というか……」
二人に凝視されたナヴェットが、慌てたように言い繕う。
「現地で色々試してみたいなと思っているだけです」
まだ話せるほどまとまってはいないようだ。しかしナヴェットがそう言うなら、流体水晶について悩むのは今はやめようとシャラは思った。
「ともあれ遺跡との交信以前に、まずはミズナギとの対話ですよね」
シャラは再び、ヒードゥル言語の手引書に目を落とす。
「これ彼女の母語なんですかね?」
台座の文字がヒードゥルの文字だっただけで、ミズナギ自身の喋る言葉とは限らない。
「私は聞いていませんが、ナヴェット様とシュロは、彼女と会話をしたのですよね?」
「少しだけだけど」
シャラの問いに、シュロが針を動かし続けながら答える。蝋引きされた糸が革とこすれる、シュッシュッと言う微かな音が規則正しくリズムを刻んでいる。
「あれはヒードゥルの言葉ではなく、基本的にはこの地域の古典語でした。しかし、所々に文法的な誤りや違和感のある単語選びがありました」
ナヴェットが思い出しながら分析する。
「別地域で独自に発達した姉妹言語かと思っていたのですが、今思うと『後から学習した言語』であった可能性もあるかと」
「なるほど」
このヒードゥル言語が彼女の母語だとしたら、この地域の言語を習得したとは大したものだ。別の思考体型を脳内に構築するのに近いだろう。シャラは内心で感心する。
「しかしそうだとしても、さすがに我々がこれを数日で覚えて対話するのは、現実的ではありませんね。発音もよく分かりませんし」
「はい。念のため、挨拶など基本的なフレーズくらいは、覚えておこうかと思っていますが」
「となると役立ちそうなのはやっぱりこっちかあ」
シャラは出発前に(経費で)買い求めた、古典語の辞書をパラパラとめくる。
「譜を読み書きするのに必須ですから、文書なら私もシュロもそれなりですけど……古典語で日常会話なんて、もちろんしたことありませんし」
「辞書をミズナギに使ってもらう方が将来的にも良いのでしょうが……」
シュロはシャラの手元に目をやりながら、浮かない顔をする。
この古典語の辞書は主に、彼女に贈る目的で買っていた。
ヒードゥル言語の辞書の方は、さすがに稀少性が高すぎて譲るのが難しい。ナヴェットが今携えているものも、クロツバキの特権で借りられたようなものだ。
「しかし迷いがあります。彼女が本当に古代の人間だとして……その自覚があるようには見えませんでした」
シュロが手元でプツッと糸を切る。
「これを渡したら、彼女は自分の言葉が『遙か過去のもの』と記されていることを、どう受け止めるでしょうか」
「少なくとも、いきなり見せるのは良くないでしょうね」
ナヴェットが軽く目を伏せる。
「まずは我々が彼女に合わせる形でコミュニケーションをとって、彼女がどのような状況認識をしているか、慎重に把握しましょう」
「やるしかないか、『古典語で世間話』」
シャラは膝に頬杖をついて、窓の向こうの流れる風景を見つめた。
今乗っているのはもちろん豪華特急ではなく、一般的な都市間急行だ。汽車の中で過ごす時間は夜間を含めて丸1日近くある。
「とりあえず汽車に乗ってる間、我々の会話は古典語で交わしてみましょう」
シャラの提案に、シュロは顔を引きつらせた。
「シュロ。黙ってやり過ごすのはナシだからね」
シャラが釘を刺すと、シュロはしばらく逡巡する様子を見せたあと、か細い声で答えた。
「承りぬ」




