微睡む太古:05 視界──『本質』なんて言葉遊びですけどね
「シャラ頼む…… 早くそっちの仕事終わらせてくれ」
蒸留も三回目を終えようかという頃には、シュロがぐったりした声でシャラに懇願する。
「そうだねー今ノッてるから一晩あれば終わらせられるかもー。さっき偽装経歴が届いたから冒頭部とあちこち書き直しだわー」
シャラの目は血走っているが、瞳は確かに輝いている。
「徹夜はダメですよ、徹夜は……」
そういうナヴェットも、さすがに声に疲れが混じっていた。
「ていうか三回分も葡萄酒持ってきてたっけ?」
本の山から逃避するように蒸留器を片づけ始めたシュロに、シャラが疑問をぶつける。
「昨日食堂で、中身が痛んでそうな樽見かけたから、格安で譲ってもらった」
「え~っ、宿舎の食堂でそれやったの?」
シャラが顔をしかめる。
「やめてよぉ、使いづらくなるじゃない」
「食堂の担当者も喜んでいたけど」
シュロは何が問題か分からないと言う顔だ。そんなだから不名誉な呼び名がつけられてしまうのだ。
「もぉ。じゃあ今日の夕飯は散歩がてら、広場の露店ででも済ませるかなあ」
「露店ですか!」
本の山からナヴェットが勢いよく顔を上げた。
「楽しそうだなって思っていたんです!」
「そうだったんですか? 早く言ってくだされば良かったのに」
洞の祭壇を案内したとき、確かに興奮の目で周囲を見ていたが、その対象に露店が含まれていたのは気づけなかった。
「それなら暗くならないうちに行きますか。どうせキリが良くなりはしませんしね」
シャラとナヴェットが片づけ始めたのを見て、シュロがほぼ無表情に見える嬉しそうな顔をした。
夕暮れ時の空を背景に聳える環樹は、昼間の光の下で見る光景とはまた違う厳かさがあった。
「この時間でも人が多いのですね」
広場の隅の縁石に腰掛け、露店で注いでもらった肉団子シチューにパンを浸して頬張りながら、ナヴェットが周囲を見回す。
「この辺りは夜になっても明かりがありますからね」
同じく魚の塩漬けを載せたパンを手に、シャラが並ぶ街灯を見上げた。
これだけの規模になると、照明として流体水晶を使うことにコストよりもメリットが勝り始める。まとめて効率よく制御すれば、燃料費・人件費や治安維持費用を上回るパフォーマンスが得られる。
「仕事帰りに寄っていく職員も多いはずです」
シュロの言うとおり、二人がたまに着ている制服とよく似た服装の買い物客や奉納者もかなり目に入る。
「で、出来はどうよ。味見させて?」
いつもの薄型水筒からチビチビ飲んでいたシュロに、シャラがニヤニヤ笑いながらマグを差し出す。
「火の番してあげたじゃない」
シュロは渋る素振りをしたが、シャラにそう言われて仕方なさそうに中身を軽く注いだ。
「期待するようなものじゃない」
「うわ、つっよ。本当に消毒でも使えるなこりゃ」
一口飲んでシャラは喉を抑える。
「でも想像より悪くないわ。香草や香辛料の組み合わせ、工夫してるね」
「悪くしたらもったいないだろ」
シュロはまんざらでもない顔でオリーブのオイル漬けをかじる。
「本職には遠く及ばんけどな」
「そうだねえ、プロは偉大だねえ」
「ふふ、夜風に当たりながら空の下で一杯、というのも風流なものですね」
自分は飲まないはずなのに、酒飲みに対する理解がやけに深い一言を発するナヴェット。
「しかも環樹を見ながらですからね。贅沢極まりないことです」
酒に蜂蜜をほんの少し垂らして飲みやすくしながら、シャラが同意する。
「ええ、昼間は分りづらかったですが、うっすら発光して、本当に幻想的ですね」
空を覆うような梢を見上げながらナヴェットが言うと、シャラとシュロは何故か一瞬驚いたように黙った。
「……ええ、本当にそうですね」
「何か変な間がありましたね」
ナヴェットが遠慮なく問いただす。
「あ……いえ……」
二人が互いを見つめながら口ごもっている。
「その……そうかあれはナヴェット様にも見える光なんだな、とか」
「でも『うっすら』なのか、と」
言いづらそうに交互に口を開く。
「なるほど?」
ナヴェットもその返答に驚いた顔をする。
「いや、別に区別がついていないわけじゃないですよ? 純粋に目で見ているものとそうでないもの、同じというわけではなく」
「でも環樹はさすがに映るものが膨大すぎて」
「うっすらどころではないものが、見えているのですね」
改めて環樹を見上げ、ナヴェットが不思議そうに呟いた。
そう言えば二人とも、景色の感想等を自分から口にすることがほぼないような気がする。シュロはそもそも口数が少ないが、シャラも相手の言葉を受けてから発することが多い。
自分の見ているものを相手が見ているとは限らないのだから、無闇に話さぬよう身に染み着いているのだろう。
「お二人が見ている世界を、見てみたいものですが」
「でも逆に、ナヴェット様の方が見えているものもたくさんある気はします」
シュロが少し意外なことを言う。
「情報が絞られている方が、微細な変化によく気づけると言うか」
「現に私たちは、環樹がほんのり光っていることも意識できていませんでしたしね」
「そういう側面もありますか」
ナヴェットは感慨深げな顔をする。
「確かに、聞いたことがあります。先天的に赤色を視覚で識別できない体質の方が一定割合でいるのですが。そうした方々は緑色の濃淡をとても鋭敏に感じ取り、森の中等でよく物事に気づくのだとか」
「不利もあれば有利もあるのですねえ」
シャラがマグから酒をペロッと舐めて、塩漬け魚を咥える。
「だから私も時々思うんです。ナヴェット様の見ている景色を見てみたいなと」
シュロはグビリと水筒から呷りながら、環樹を見上げた。
「それはとても整然として本質的な、美しい世界なんじゃないか、と」
「……そんな風に考えたことは、ありませんでした」
ナヴェットはマグを両手で握りしめるように抱えたまま、目を丸くして固まってしまった。
「大変に斬新で衝撃的な意見です。世界がひっくり返ったようです」
「大げさすぎますよ、ナヴェット様」
シャラが可笑しそうに笑うが、ナヴェットは真剣そのものだ。
「私から見ても世界は全く整然となんてしていませんし、雑多で賑やかさに満ちたものですし……だからこそ楽しいのですけれど……シュロたちが見ているものが『本質』なのだ、と私はそう思っていました」
だからなんとか垣間見ようと、焦がれ足掻き、知識と技術を磨いてきた。
「お互い、自分が持たぬものに憧れるものですね」
シュロが目を細めてナヴェットを見つめる。
「『本質』なんて言葉遊びですけどね。鳥には鳥の、蛇には蛇の、虫には虫の。それぞれ認知している世界があってどれも本物だと言うのに」
珍しく饒舌なのは、先ほどまでの作業の反動か、蒸留した酒が濃すぎたのか。はたまたナヴェットには見えない、環樹の波動に当てられたのだろうか。
「私は何か……何か見落としていたかもしれません」
頭上の月を掴もうかとするように、ナヴェットが手を空に伸ばした。




