営む暮らし:B03 報恩
「伝わりましたか?」
一さらい歌い終わって振り返ると、若者は目と口を開いたまま空中を見つめていた。
「独学なもので、参考になるか分からないのですが」
シャラが近くの席に腰掛けると、やっと我に返ったような顔をする。
「い、今の一人で歌ってましたよね? 不思議だ、色々な音が聞こえたような気がして」
やはり、ユラを聴覚で感じる素質があるのだろう。シャラが混声の代わりに作っていた波を、ぼんやり感じたに違いない。
「すごい、こんなものを聞けただなんて。歌を生業にしている方ですか? あぁ、すいません男の方だったのですね、勘違いしておりました。独学って本当ですか?」
我に返ったとたん、興奮してしゃべり続ける。シャラはその様子を微笑ましく眺めた。
念のためにいつもと発声を変えて分かりやすくしたのが功を奏し、好感度の方向性も上手く微調整できたようだ。
「歌そのものを生業にはしていませんが、調揺で食べつないでおります。歌はその一環で」
「調揺士様でしたか。そういう道もあるんですね」
音楽院で学ぶ学生なら、調揺のためではなく、人が聞き歌うことを第一目的にした音楽を志しているはずだ。
「なので本当に、あなたのような方の参考になるかは分からないのですが」
「とんでもない、すごく刺激的です!」
シャラが返した譜面を凝視し、所々に印を書き入れている。シャラが手を加えてみせた意図を、的確に捉えているようだ。
「僭越ながら、あなたは良い耳をお持ちのようです。気のせいに思える音を、素直に追ってみると違う世界が開けるかもしれませんよ」
「気のせいに思える音……」
心当たりがあるような顔で、若者は考え込む。
「院で学ぶ理論を軽んじよと言うわけではありません。あなたならきっと、良い融合方を見つけられるでしょう」
誰かからの援助を得て首都まで学びに来るような学生なのだ。今はまだ磨いている最中だが、人が期待を抱くような煌めきが確かにある。
「あの、近くに住んでる方ですか? 曲を直したらまた……」
「私もそうできたら嬉しいのですが、仕事柄旅が多くて、いつにと言うお約束は難しく」
シャラの返事に若者は露骨にがっかりする。
シャラとてこれは社交辞令ではなく、完成形を聞いてみたいのは本心だが、こればかりは仕方ない。
「ですが、旅の合間にまた立ち寄りますよ。そのとき合唱隊があなたの曲を歌っているのを、楽しみにしています」
「そうなれるように、頑張ります!」
楽譜に書かれていた名前はしっかり記憶に留めた。
彼が順当に経験を積んでいけば、この聖堂以外でも名を聞くことがあるかもしれない。
「用事を思い出したので、もう行きますね。祭司様にどうぞよろしくお伝えください」
「お知り合いですか?」
席を立ったシャラに、若者が尋ねる。
「ええ。私も駆け出しの頃、色々とここで練習させてもらいました」
ニッとシャラが口を横に引く。
「私もあなたと同じです。先程のは、ちょっとした恩返しになればと思って」
「伝えます! 伝えるのでお名前を」
「たぶん祭司様なら、あなたが見たままを伝えれば分かりますよ」
わざわざ昔の通名を教えるのも面倒で、シャラははぐらかして聖堂を去った。
***
「その歌詞がちょうど、その叙事詩に触れた内容だったんですよね。それでその写本のことを思い出したんです」
結局その後シャラは、家と宿をもう一往復したのだ。
「そんな楽しそうなことしてたんか、一人で」
シュロが羨ましそうな顔をしている。
「活揺具を見るのも楽しかったですが、そっちも見たかった!!」
ナヴェットに至っては悔しそうですらある。
「芸事の世界は厳しいですからね、彼がこの後どこまで頑張れるかは分かりませんが……」
食後の甘味として椰子の実の菓子を食べながら、シャラは今日の曲を反芻した。
「同じ聖堂で世話になった身として、ちょっと応援したい気持ちではありますね」
「恩を直接恩人に返すのではなく、次の世代に施して繋ぐ。素晴らしい循環です」
ナヴェットはまた何か高尚なことを見いだしているらしい。
「そう言えばお二人は、音楽や舞台の世界で生きようとは思わなかったのですか?」
ナヴェットがふと思いついた様子で尋ねた。険しい道とは言え成功さえすれば、(少なくとも行政府の職員よりは)「目標」のための富も手に入るだろう。
しかし二人は渋い顔で首を横に振る。
「イヤですよそんな不安定な。よしんば上手くいったとして、それって滅茶苦茶目立つってことじゃないですか。本末転倒です」
「職にすると、決まった演目を繰り返しやることになりそうです」
芸事の観点から見た場合、二人の真価はその場のユラに合わせた即興の中にある。他人の期待に合わせて安定した成果を出すには、あまり向かないだろう。
「なるほど、どこまで行っても調揺士が天職なんですねえ」
シャラと同じ菓子を食べながら、ナヴェットが納得顔でうなずいている。
「そうなんです、だからなんとしても免職は避けたいのですが」
シャラは菓子の最後の一口を食べきって、憂鬱そうな顔をする。
「明日、長官と面と向かって会話して、ブチ切れないでいられるか自分が心配です」
「ウチ自信ないから、シャラ一人で行ってくれん?」
何本目かの麦酒を口にしながら、しれっとシュロが言う。
「ええぇズルくない? あーでも……うん、いっそその方がいいかなあ」
額に手を当てて考えているシャラを見ながら、この社会で生きていくのも大変そうだなとナヴェットは改めて思った。




