走る宮殿:01 泡酒
次の日の朝、目覚めたナヴェットは自分がどこにいるか全く分からず、しばらくの間固まっていた。
馬車を乗り換えているかもしれない、とは確かに昨日のうちに聞いていた。
しかしここは、明らかに馬車ではない。馬車と同じようにガタガタと揺れ、カーテンの隙間から景色が後ろへ流れていくが、馬車より圧倒的に広く、さらには内装が豪華すぎる。自分が寝ているのは硬い座席などではなく、ふかふかの寝台だ。
混乱しながら周囲を見回すと、同じ空間の別の寝台で、シャラとシュロが寝ていた。もうだいぶ日も高いが、昨日の計画からすると夜中起きていたのだろう。起こすには忍びない。
そういえば、こんなに明るい中で二人の並んだ寝顔を見るのは初めてかもしれない。
素顔のまま眠る二人はあまりにも儚げで、触れたらそのまま消えてしまうのではないかと恐れを感じるほどだ。
コンコン
突然、壁の一画からノック音がしてナヴェットは小さく飛び上がった。
「おはようございます、お目覚めのお茶をお持ちいたしました」
控えめに、しかしよく通る声が入室許可を求めている気がする。
ここがどこで相手が誰なのか分からないが、こんな無防備な二人を人に見せるなんてとんでもない、道を狂わせる、とナヴェットは慌てた。
何か答えるべきか迷っている間に、シュロが「ん……」と小さく呻きながら顔を上げた。
「……ありがとう、そこに置いておいてくださる?」
寝ぼけた声で外に返事をしてから、目をこすりながら上半身を起こす。
「あ……」
そこで驚愕の顔で固まっているナヴェットと目が合った。
「今の……シュロが喋りました?」
「…………っ!」
シュロは声にならない声を上げて再び布団の中に頭をうずめた。
「ん……おはようございます……」
ナヴェットの困惑が頂点に達している中、シャラも目を覚ましたらしく焦点の定まらない目で起き上がった。
「あー……久々に柔らかい布団で、寝すぎましたね……」
「しゅ! シュロが!」
「え……? あ……あーーー……」
言葉が上手く出ないナヴェットと頭まで布団で覆っているシュロを順番に見つめ、シャラは眠そうな顔のまま笑った。
「そんな日もありますよ」
寝ぼけているのか。
「とりあえず、顔を洗ってお茶をいただきましょう。そのうちシュロも出てきますよ」
「顔を洗うって…… そもそもここ、どこなんですか?」
「え? 今どの辺りだろう」
窓の外を見るシャラに、「そうじゃなくて」とナヴェットはもどかしい気持ちで訴える。
「あ、そうか。ナヴェット様、汽車は初めてですよね」
「汽車!?」
話には聞いたことがあった。しかし乗るのはもちろん、見るのも初めてだ。汽車とは、こんなに豪奢なものだったのか。
「これが……汽車」
「間に合うならいくら金をかけても構わないと言われたので、特等車両に乗ってやりました」
「特等車両!!」
良く知らないが、きっと普通でなく凄くて、普通でなく高いものである、と言うことだけはナヴェットも分かる。
「これくらいの腹いせは許されるでしょう」
シャラの顔にまた一瞬、影が差した。
「ほらシュロ、せっかく請求は全部『招待主』に回していいって言われたんだから。今日は移動日でオフ扱いでいいよ、好きなだけ泡酒飲んじゃえ」
シャラの呼びかけに、シュロが布団を蹴上げる勢いで起き上がる。
「請求書を見るのが楽しみですね」
暗い薄笑いをシャラが浮かべている。
“ディオニュソス”と冠されていたのはむしろこっちが理由なのか? ナヴェットはようやく気づき始めた。
お茶を飲んで身支度を整えてから、三人は食堂車で朝食をとった。
これだけ大きい車両が高速で地を走り、その中に食堂やバーカウンターがある。そしてスタッフは自分たちや他の客に対し、恭しくかしづく態度をとる。あまりに理解を超える事態に、ナヴェットは口が開きっぱなしだった。
さらに驚いたのは、朝食後に個室へ戻るといつの間にかそこが「寝室」から「居間」に様変わりしていたことだ。寝台がソファと品の良い調度品に変わっている。いったいどんなイリュージョンなのか。
「えー……まず、今我々が目指している場所についてですが」
高価そうなソファに臆することもなく腰を掛け、シャラが沈んだ顔をしつつもようやく口を開いた。
その片手にはシュロと同じく細長いグラスが握られ、泡が沸き立つ葡萄酒を時々口にする。
とても素面ではやってられない、という様子だ。なおシュロは朝食時から数えて既に2本は開けたように見えた。
「首都から少し離れた郊外にある、保養地です。そこも温泉が湧くため、観光客が多いのはもちろん、有力者や富裕層の別荘も多いです」
そういえば昨日、屋根付き温泉がどうこうと言っていた。この旅はよくよく温泉に縁があるようだ。
「その中のひとつに、ステュムパロス一族の当主が有する別邸があります。そこにナヴェット様をお連れせよ、とのことです」
「ステュムパロス……古くから続く武門の家では」
ナヴェットにとっては、「歴史書で何度も見かける名前」という印象だ。
「ご存じでしたか。はい、この国の軍事力の象徴のような一族です」
「その方が、私のお会いするべき相手なのですか?」
軍部の重鎮に呼ばれると言うのはナヴェットにとってピンとこないが、それが二人が荒れている理由なのだろうか。
「いえ、それは場を用意してもらうだけの役割です。その別邸にあさって、次期首座の筆頭候補とされる方が『私的に』訪れる予定だそうで」
シャラは深いため息をついて、グビッと音を立ててグラスを呷った。
隣のシュロは黙って杯を空け続けるのみで、説明は全てシャラに委ねている様子だ。
「私的に、ですか?」
「はい、広く知られたことなのですが、ステュムパロスの現当主と、その筆頭候補は幼馴染と言える関係です。そうした交流は昔から頻繁にあり、非公式の場を設けるのに不自然がないと考えたのでしょう」
「なるほど、私との接触を首座の公的な記録に残さぬように、その家に協力していただくのですね」
会うべき相手が首座の一族だと言うなら理解ができる。むしろ環樹の話をするのに、これ以上の相手はいない。
シャラたちが属する「鎮樹庁」の役割は調揺を通した国土の安定であり、二人が憎んで止まない「長官」はその行政面のトップである。
しかし調揺を行う者の頂点は首座だ。かつては国の統治者であり、鎮樹庁の前身は首座一族に仕える者たちでもあった。
歴史の流れで首座は国政から独立した存在になったが、鎮樹庁は今もその頃の側面を残している。長官はその「筆頭候補」の意思を代行していただけであっても不思議はない。
「別邸で当主およびご家族と共に筆頭候補をお迎えし、子女の『友人』としてナヴェット様をご紹介申し上げる。というのが筋書だそうです」
「ご家族も一緒にいらっしゃるのですね?」
接触する人物が増えるとリスクも増す気はするが。
「今回同席するのは、当主の子らのうち下の二人です。現当主には四人の子がいますが、上二人は既にそれぞれ軍の幹部として各地で任に当たっておりますので」
「と言うことは、同席なさるお二人はまだお若いのですか?」
確かにその方が、自分を「友人」と呼ぶのにちょうど良いのかもしれない。
「若いと言っても、とっくに公務に就いて然るべき年齢ではあります。しかし武人一族に似つかわしくない脆弱で、公の場にほとんど顔を出すこともなく、普段はさらに遠い静かな土地で静養をしながら暮らしている、という話です」
ナヴェットは、なんとなくシャラの語り様に違和感を抱いた。
「そのお家について……お詳しいのですね?」
そして、何かわだかまりを抱いているようにナヴェットには見えた。
「公に明かされている範疇の事柄です。が、私が詳しいのも事実です」
そこでシャラはいったん言葉を切った。
シュロも思うところがあるのか、シャラのグラスに泡酒を注ぎ足してあげている。
カタタン カタタン と規則的な音が、しばし部屋を満たす。
「……私たち二人の後見人は、今から向かう別邸で雇われている庭師なのです」
グラスを半分ほど飲んでから、シャラが一層沈鬱な面持ちで語った。




