覗く深淵:02 不可逆変化
「すいませんナヴェット様、私たちにも分かるように話していただいても良いですか?」
何とか絞り出したシャラの質問に、ようやくナヴェットが我に返ったようだ。「しまった」とい言う顔でしばし固まる。
「すいません……没頭しすぎましたね、失礼しました」
焦った顔のまま考え込んでいる。話すべき範囲を整理しているのだろう。
「そう……現象だけの話をすると、この樹は祭壇と同じ結果を生み出す能力があるはずですが、調揺目的にその能力を使っておらず、『祭壇』と呼べる状態ではない……と、思われます」
「では何のために存在するのですか?」
「それは調べないと分かりませんし、調べても分からない場合もあります。ただ、そういうものが在るのだ、としか」
常識の範疇を超えている話のようだ。神話の世界に近く感じる。
これは、一介の職員が知って良いようなものではないのではないか。
シャラの背筋にうっすらと冷たい感触が走る。
「つまるところ、祭儀で周辺を鎮めることはできない、と言うことでしょうか」
湧いた悪寒を押さえ込みながら、ともあれシャラは一番重要なことを訊いた。
ナヴェットは沈痛な表情でうなずく。
「残念ながら……今は祭儀を受け付ける状態ではないので、難しいかと」
その答えを聞きシュロの拳に力が入る。
「私たちの里に支援依頼が来た時点で、一般的な方法で解決する事態ではない……少なくとも、招いた方はそう捉えているのだ、と予想はしていました。しかしこの状況は、その予想のさらに上を行くものです。正直、解決方法が私にも今は思いつきません」
シャラとシュロには、それは絶望的な宣言に聞こえた。
確かに今この山の周囲は異常なほど安定している。しかし理屈が分からぬ「安定」など、薄氷のようなものだ。いつ足元が崩れて飲み込まれるか分からない。
しかも山を取り巻くように発生している異常現象は、日に日に報告が増えている。場合によっては、集団移住を検討せざるを得ないかもしれない。故郷を思い出ごと失い、自活の術も断たれることが、人の心をどれだけ壊すことか。
そもそも簡単にできることではなく時間もかかる、移住先との摩擦も起こる。その間にユナイフのような事態に発展しない可能性はどこにもない。
「ですが」
途方に暮れている二人に向かって、ナヴェットは力強く言葉を続ける。
「今すぐには無理でも、方法は必ずあります。そのために私が来ました」
そこでナヴェットはいったん言葉を切った。先を続けるのをためらっているように見えたが、すぐに再びまっすぐ二人を見つめる。
「とは言え恐らく、私だけの力では難しい。どうか私が己の役目を果たせるよう、お二人の力を貸してください」
ナヴェットの呼びかけに対し、一切躊躇を感じなかったと言えば嘘になる。
何かを知ると言うことは、基本的に一方通行の状態変化だ。一度知ってしまったら、知る前の自分には戻れない。何かを得ると同時に、失われるものもあるのだ。
この先に進んでしまったら、今と同じ自分たちではいられないのではないか。内面の意味でも、外部環境の意味でも。
その恐怖は確実にシャラの中にあった。今目の前に鎮座している光景は、そう思わせるに充分なものだ。
しかし。二人に呼びかけるナヴェットの瞳が宿すのは、自信ではなく決意だった。
世界にとって自分は不具合なのではないか。きっとその疑念は出会った初日から変わらず、ずっと抱えたままだろう。
解決への道筋は今は何も見えず、自力で見出す必要がある。自分を信じられぬ者にとって、その状況で率先して手を挙げ、あまつさえ他者を引き入れることはどれほど勇気がいることか。
そんな彼女を、そうあれと鼓舞したのは、外ならぬ自分たちではないか。
「お願いするのは私たちの方です、ナヴェット様」
シャラが何かを発するより早く、シュロがナヴェットの目線に合わせて膝をついた。
「もしこの場に私とシャラだけで辿り着いていたら、足が竦んでいたことでしょう。しかしナヴェット様が進むと仰るなら、一緒に進んでみようと思えます」
「シュロの申す通りにございます、ナヴェット様」
シュロに並んで膝をつき、シャラもナヴェットの目を見つめた。
「正直に申し上げれば、私はシュロと共にこの先を見るのが恐ろしい。ですがここで引き返せばきっと、また己を信じられないままこの後を生きていくことになりましょう」
不可逆変化の予感は恐ろしい。
しかし自分が耳目を塞いで変化を拒絶するなら、別の誰かがその重責を背負い続けることになるのだろう。
今も充分すぎるほど何かを背負っているらしいこの小さい肩に、それ以上のものを押し付けたまま安穏と暮らし続ける?
そんな勇気も胆力もまた、自分は持ち合わせていないのだ。
「そんな人生はまっぴらです。どうか私たちに、道の辿り方をお示しください」
「ありがとうございます。お二人の勇気に、心より敬意と感謝を表します」
ナヴェットはいつかと同じ眩しそうな表情で、穏やかに、しかし少し辛そうに微笑む。
「お二人の人生を狂わせかねないことを、申し訳なく思いますが……」
「はは、『ここから狂った』なんて言えるほど、今までも大して立派な人生ではありませんでしたし」
己を責めているかのようなナヴェットに、シャラは少し強がって見せる。
「まあでも、万が一後悔するようなことがあれば、その時は己の全てを以て長官を呪います」
割と真剣な目で言うシャラに、同じく真剣な顔でシュロがうなずいた。




