揺らがぬ身体:01 失踪
「どういうこと? 用を足しているんじゃなくて?」
跳ね起きたシャラはブランケットを羽織って小屋の外へ出る。
「そう思って辺りを確認したけど姿がない。うっすらとユラの残滓が遠くに向かっている」
振り返って小屋の中を確認すると、ナヴェットの荷物自体は残されているようだ。
「気づいたときにはもうナヴェットの毛布は冷たかったんだ。出て行った時点ではまだ日が昇っていなかったはずだ。なんでそんな早くに」
シュロは相当にうろたえている。
無理もない。夜明け前の山の中なんて、危険な獣が活発な時間帯だ。小さい子どもなぞ簡単にどこかへ持っていかれてしまう。
「落ち着こうシュロ。ナヴェットのことだから、朝ごはんの食材を探しているとか、そういうことだよきっと」
しかし出会ってから今まで、ナヴェットが無断で単独行動をしたことは一度もなかった。
聡明な子だから、そういうことをするとシャラとシュロが「お仕事」上困ると理解している様子だった。
なのに何故、なんで今。何があった?
くそ、いくら何でも気を緩ませすぎた。
ぐるぐる回る思考を押しとどめようと努めながら、周囲を注意深く見まわす。シュロの言うとおり、まだナヴェットのものと思われるユラの残りが視える。
「ともあれ、ウチはユラの跡を追ってみる。ナヴェットが戻ってきたときに備えて、シュロは小屋に残ってて」
「イヤだウチも探しに行く」
「駄目だ。お前は今冷静じゃない」
普段は使わない、強い口調で言い聞かせる。
「湯を沸かして部屋を暖めて待っていろ。何かあっても無くても、それが一番ナヴェットのためになる」
シュロは何か反論しかけたが、結局言葉を飲み込んでうなずいた。
大丈夫、きっと「なあんだ」と笑える結果になる。「心配をかけないでください」と叱れば済む話になる。
だけど、万が一、万万が一……のことがあったとしたら。
シャラはその光景を妹に見せたくなかった。
生命の豊かな山の中での気配探知は、荒野の街道のように簡単にはいかない。しかし山全体の揺らぎが尋常でなく安定しているおかげで、普段よりも個別のユラの跡がハッキリ見えるのがありがたかった。その道筋を辿るシャラの胸中には次第に疑念が生まれ、やがて確信に変わる。
これは、昨夜の浴場遺跡に続く道だ。
まさか、やはり自分も入りたくなったということか? それだけでこんな暗い時間に人騒がせなことを? だとしたらやはり、キツく叱るしかない。
幸いなことに、ユラ痕は途中で途切れたり獣のものと交錯したりはしていなかった。次第にシャラも安堵し始める。
浴場跡の入口に着く頃には、思考は「何て言って説教しようか」で占められていた。
きっとシュロも激怒することだろう。ナヴェットにあの粗暴な素顔がバレるのも時間の問題だ。
目の前が開け、まだ明けきらない空を背景に佇む柱と岩の一群が目に映った。
縁石の近く、ちょうど昨日とまったく同じ場所に松明が立てかけられ、ナヴェットが座っているのを見つけたシャラは、安堵のあまり膝の力が抜けそうになった。
「ナヴ……ッ!」
呼びかけようとした自分の声の、息が上がっていることに驚く。
こんなに自分も慌てていたのか、と半笑いで近づこうとし……そこに存在するのがナヴェットではなく、ナヴェットの服だけであることに気づいた。
――え?
何故自分は、そこにナヴェットが座っていると錯覚した?
そこに、ナヴェットのユラがあったからだ。
脱いだ服に残るような残滓ではない、身体そのものが発するユラが。
何故だ?
しかし周囲に他に、人間のユラの気配なんてない。服を着ずにいったいどこに……
そう思いながら辺りを見回して。
浴槽の中に、生命の揺らぎを全く感じさせない子どもの身体が浮いていることに気づき、今度こそシャラは膝の力を失い、地面にドッと倒れこんだ。
「…………っ……!」
声が出ない。
目に映っているものの意味が分からない。
皮膚が痛く感じるほどに身体中の血管が拡張しているのを感じるのに、すべての感覚が冷たい。
それでも這うように浴槽に近づいた。縁石の上に何とか身を持ち上げて前に乗り出す。
震える手を水面に伸ばすと、
生命の気配を持たぬ身体が、水音を立てて振り返った。
「あら? もう起きてしまいました?」
シャラの絶叫が、明け方の山にこだました。
「すいません、もっと早く戻ろうと思っていたんですけれど……」
濡れた身体を拭き、衣服を着ながらナヴェットが申し訳なさそうに笑う。
「そういう! そういう問題では」
シャラはまだ混乱して言葉が上手く出ない。
ナヴェットの身体は、シャラから見ると「虚無」だった。
それは死体や岩ですらない、この世の全てから断絶された、見たことのない何かだ。
「……ごめんなさい、嘘です」
ふっと顔を逸らし、か細い声でナヴェットが呟く。
「自分のことを隠したたまお二人に優しくしていただくのが、あまりに辛く堪えられなくなって……賭けをしたんです。二人が寝ている間に戻れたら今までどおり過ごそう、そうじゃなかったら……って」
「そ……!」
それがどれほどの逡巡の末の選択なのか、そしてそれだけ考えても「賭け」でしか結論を決められない程の苦悩だったことがナヴェットの表情から推し測られ、シャラは混乱しつつもいったん言葉を呑み込む。
「それにしても……あまりに危ないではないですか。暗い山の中には人でも襲う獣が多いというのに」
詳しい事情は理解できなくても、それだけは言いたかった。しかしナヴェットは、自嘲気味に笑う。
「シャラには分かるでしょう? 獣は素の私を、獲物だと認識はしないでしょう」
シャラは再び言葉を失う。
「わ、分かりました、詳しいことは後ほどにしましょう。シュロが心配しております、まずは山小屋へ」
かろうじて、それだけの言葉を振り絞り、ナヴェットの身体を自分が羽織っていたブランケットで包み込んだ。




