張り詰める山:03 野湯
「この辺りは古い都市国家の遺跡が多いはずなので、もしかしたらとちょっと気にしていたのですが。思った通り、古代の浴場遺跡に今も温泉が湧いているのを見つけたのです」
暗がりの中、松明で先を照らす二人を先導しながらナヴェットが説明する。
「ここなら人が来ることもないでしょうし、お二人も気兼ねせず入浴できるのではありませんか? ユラ酔いも中和されるのではないでしょうか」
人里離れた山の中は既に真っ暗で、普通ならこんな時間に外を歩いたりしない。
しかしシャラとシュロは暗闇だろうと、ユラを通して昼間と大差ないほどに周囲の状態が分かっている。松明で周囲の獣へ警告しながら歩けば、充分に対応できるだろう。
「温泉なんて、二度と入れないものだと思っていました」
ある程度成長して素顔を隠すことを覚えてからは、二人とも公共浴場は避けてきた。
そしてもちろん、野湯に入ろうという発想をしたこともない。
旅の途中で見かけても、せいぜい野生の動物が入っている湯だまり程度の認識だった。ナヴェットと共に山歩きをしている間にシャラだって同じものを見かけたのだが、入浴するという発想がなかったので全く記憶に留めていなかった。
しかし言われてみれば、そこが穢れているかどうかは二人は見れば分かるのだから、入りたいなら入ってしまえばいのだ。浴場の遺跡であれば泥で汚れることも少ないだろう。
「確かこの辺り…… あっ、ここです!」
木立が周囲よりまばらになり、星空が見える空間が目の前に開けた。
かつては荘厳な建築だったのかもしれない柱や岩が、月明かりを受けて静かに佇んでいる。サワサワとした流水音と立ち上る湯気が、既に心をほぐしてくれるようだった。
「素晴らしいです……衛生状態もまったく問題ありません」
全体が張りつめたような山のユラの中、ここは麓の街と同じような穏やかなユラがあった。
「どうぞ二人で入ってきてください。私はここで火の番をしています」
「「え?」」
ここまで来て、ナヴェットが入らないと言い出すとは思わなかった。
二人は思わず驚いた声を上げ、ナヴェットはナヴェットでそれに驚いたように縮こまる。
「あ、いや……あの、お二人を信頼していないとかではないんですけど、やっぱりその、人前でこれを外すのは怖くて……」
服装の着脱に関する禁忌は、精神の根深い場所に影響する。
寂しい気持ちはあったが、強要してはいけないものだろう。
「分かりました、ではお言葉に甘えまして。でも離れないでくださいね、夜の山は危ないのですから」
獣が嫌う波をそっとナヴェットの周りに置きながら、シャラとシュロは上着を脱いで薄着になり、髪の毛を括り上げた。
湯に身を浸した途端緩んだ心身に、今まで自分も山と同様張りつめていたのだと自覚する。
「明日はいよいよ祭壇の分析をしなくてはいけないというのに、こんなに安らいでしまって良いのでしょうか」
「大仕事の前だからこそです!」
ナヴェットが力説する。
「力みは良い仕事の大敵です。張りつめた糸は、揺らぎを受け止めることができませんからね」
「なるほど」
シャラは抗うのをやめて、湯の温もりに身をゆだねる。
「みんながやっているのを見て、本当は憧れていたんですよね私。温泉に浸りながらの葡萄酒」
え、とシャラが横を見ると、いつの間に持ち込んだのかシュロが半身浴をしながら葡萄酒、恐らく温泉水で割ったものを飲んでいる。
先ほど上着を脱いだ時にはそんなものを見た気はしなかったのに、どんなイリュージョンなのか。
「こんな形で叶うなんて思ってもみませんでした。ナヴェット様のおかげです、ありがとうございます」
しかし珍しくシュロが素直に幸せそうな顔を見せているので、シャラは何かを言うのをやめた。
ナヴェットは気を使ってかこちらに背を向けているが、シュロの言葉を受け止める背中が嬉しそうに見える。
「そういえばナヴェット様、私の上着を繕ってくださったのですね。緩みがなくなっていて驚きました」
それなら自分も、と思いタイミングをずっと見計らっていた事柄をシャラも切り出した。
「まあ。思ったより気づくのが早かったですね」
ナヴェットは背を向けたまま意味ありげに笑う。お見通しのようだ。
「どうもありがとうございました。お礼をしたいのですが、何か欲しいものはございませんか?」
「いえ、シュロにもういただきましたから」
「それでは私の気が済みません! 私にも何か仰ってください」
「欲しいものですか……」
ナヴェットが考え込む。考え込む。考え込む。
「意外に思い浮かびませんね……」
ナヴェットは自分で驚いている様子だ。シャラとシュロが吹き出す。
「ナヴェット様は欲がなくていらっしゃる」
「物でなくても、して欲しいこととかでも良いのですよ」
「うーん、すでにシャラにはとても良くしてもらっていますし……」
可愛らしいことを言う。
「今は思いつかないので、考えておきますね。とびきりのおねだりを」
ナヴェットが半分ほど身体をひねり笑顔を見せた。松明に照らされたいたずらな表情は、いつになく子どもらしい。
「いいでしょう、受けて立ちましょうとも」
「ナヴェット様の本気をシャラにぶつけてやってください。シャラの目が飛び出るようなやつをお願いします」
シュロは完全に面白がって煽っている。
「こら。まったくシュロは憎まれ口ばかり叩くようになって。昔はナヴェット様に劣らず慎ましくて可愛らしい子だったんですよ。それがいつの間にやら」
「昔の話を持ち出すのはルール違反では」
「そんなことありませんよ、シュロは今も可愛らしくて頑張り屋さんの良い子です」
「だから何なんですかその急な親目線」
「えぇそれはもうナヴェット様の仰る通りなんですけれど」
「二人して私をからかうのをやめてください」
顔を赤くして憮然とするシュロを見て、シャラとナヴェットが大笑いをする。
「あはは、すいませんつい。でも二人がどんな子どもだったのか、興味がありますね」
「むむ。」
笑いすぎて滲んだ涙を拭うナヴェットに、シャラはあえて考え込む仕草をして見せた。
「うーん私、仕事とプライヴェートは切り分けたい方なのですよね」「え? じゃ今の唐突な暴露は何?」
「あ……すいま……」
「ですので」
肩をすぼませ謝りかけたナヴェットの口に、シャラが湯から身を乗り出してシッと人差し指を立てる。
「このお仕事をしっかり終わらせて、それから沢山おしゃべりしましょう」
ナヴェットが目を見開いて息を呑んだ。
分かっている。「仕事後」に自分たちとナヴェットが関わることが許されるのか、きっと明言できないのだということは。でも、だからこそ。そういう気持ちであるということだけは。
「はい、私も……いっぱいおしゃべりしたいです」
目を潤ませて答えるナヴェットは、やはり「しましょう」とは言わなかった。
だけど、「したい」と伝えてくれただけでも充分だった。
「きっとですよ」
それが呪いになっても構わないと思いながら、シャラは願いを掛け微笑んだ。
***
「シャラ! 起きろシャラ!!」
シュロに揺り動かされてシャラはぼんやりと目を覚ます。
辺りはうっすら明るくなり始めた様子だった。昨夜は野湯から山小屋に戻り、早々に三人並んで寝てしまったのだったか。
「目を覚ませ! ナヴェットがいない!!」
一瞬で目が覚めた。




