渡る鳥:03 水薙鳥
女性の回答に驚きつつ、なるほど、これか。とシュロは合点がいった。
昨夜隣の宿で、彼女を住まわせ世話をしているという女主人と話をすることができたのだが、彼女の言葉や名前のことを聞くとどうも気まずそうに濁され、詳しく聞けなかったのだ。
オリガ、という響きは恐らく通名ではなく本名だ。
この辺りの人間が、日常会話で本名を呼ぶことなどまずない。まして本人以外が他人に教えるなどもってのほかだ。
しかし本人が通名を教えない以上何と呼んで良いか分からず、みんな遠巻きにしていたのだと推察された。
そして言うまでもない、なんとも古めかしい言い回し。
「悪い子じゃない」と言いつつみんなが少し困った顔をしていた理由もよく分かる。
そんな驚きが、二人の顔にも表れてしまったのだろう。オリガはまた辛そうに顔を伏せてしまった。
彼女は今まで、名乗るたびにこのような顔をされてきたに違いない。
「オリガ。ありがとう、教えてくれて」
しかしナヴェットは、彼女の名を呼んで礼を言った。シュロからすると、どうしてもギョッとする行為だ。
しかし呼ばれたオリガは、目を丸くしナヴェットを見つめ、やがてその瞳から涙がこぼれた。
そうか。彼女はこの数か月、きっと誰からも名を呼ばれないで過ごしてきたのだ。見知らぬ土地でそれはとても心細かったに違いない。シュロは彼女の境遇を想像し、胸が締め付けられる思いがした。
「汝らは我が言を解したもうか?」
涙で濡れた顔と言葉のギャップに思わず言葉に詰まりそうになるが、ナヴェットはしっかりとうなずいている。
「分かります。遠い場所から来たのですね」
「我いずこより来たるや我も知らず。この地がいずこやも知らず」
記憶を失うほどの衝撃を受けたか、意識のない間に何かに巻き込まれたか。
とめどなく涙を流すオリガの背を、シュロもそっと撫でた。
何とかしてやりたいが、恐らくその時間も当ても自分たちにはない。せめて、彼女の日常が多少なりとも過ごしやすくなるようなことはできないか。
「オリガ。この地では皆、相手の本名を呼びません。通名で呼びます」
シュロと同じことを思ったらしい。ナヴェットがオリガに説明している。
「とーりな?」
「愛称。通名。渾名。仮名。わかりますか?」
類似概念の単語をナヴェットが並べていく。
「渾名?」
「そう。オリガは渾名を持っていますか?」
困惑している。
シュロには想像しづらいが、そういう習慣のない土地がきっとあるのだろう。
「ではシュロ、彼女に何か通名をつけてあげてください」
「私ですか!?」
唐突に振られてシュロがたじろぐ。
「一緒に馬の世話をした仲ではありませんか。みんなが彼女に呼びかけやすい名前を、選んであげてください」
「え、あの、ちょ、ちょっと時間をください」
沙羅と棕梠という名を決めたときもシャラ主導だった。急な重責に冷や汗が出る。
「シュロの好きなものでもいいと思いますよ」
「いやそういうわけには……」
困って空を見上げたとき、ふと飛ぶ鳥が目に入った。
「水薙鳥…… ミズナギ、でどうでしょう……か」
「良い名前じゃないですか!」
ナヴェットの顔がパッと明るくなり、シュロは安堵の息を吐く。
「あなたの渾名は、ミズナギです」
断定の形でナヴェットがオリガに伝える。
こういうときは強引なくらいでちょうどよいのかもしれない。
「ミズナギ?」
「はい、鳥の一種です」
「ミズナギ」
あまり腑に落ちてはいなさそうだが、強い拒否もなさそうだ。
「街の皆に、あなたは『ミズナギ』だと伝えます。みんなはあなたを、『ミズナギ』と呼びます」
「我はミズナギ?」
「そうです」
本当は、オリガと呼んでほしいのだと思う。
しかしそれができない理由を、今の彼女の言語力で伝えることは難しい。時間をかけて慣れてもらうしかない。
「ミズナギ。あなたに会えて良かったです。私たちはこの街を去ります。どうか、お元気で」
ナヴェットたちがこの地に留まらない旅人であることは、彼女も理解しているだろう。
寂しそうな顔はしたが、引き留めることはなく、深々と頭を下げて二人を見送った。
「得難き幸せ。汝らの行く道に、天の加護があらんことを」
「ナヴェット様はやはりすごいですね」
急いで宿に戻り女主人へ概要を手短に話し、シャラとの待ち合わせに向かう途中でシュロが漏らした。
「いえ、すごいのはシュロですよ。最初はなぜ急に名乗ったのかと驚きましたが、彼女が躓いているものに気づいていたのですね」
「まさか、気づいていたなんてことはありませんよ」
ただ宿の女主人たちが言いづらそうにしていた内容を確かめようとしただけだったのだ。
「そしてミズナギ……良い名前です。とても長い距離の渡りをする鳥の名ですね」
「はい。渡り鳥は、長い月日をかけても、生まれた場所に戻ります」
いつか彼女が、遠い故郷に戻れるように。そんな希望を込めた名だった。




