渡る鳥:02 迷い人
「あの子、数か月前にふらっとこの街に現れたんです。ボロボロの恰好で」
夕飯時、食堂でちょうど先ほどの先輩売り子が注文を運んでくれたので、シャラはチップを渡しがてら話を聞いてみた。
「悪い子ではなさそうなんですけど……何せ言葉がうまく通じなくて。何か怖い目にあったのかもしれないんですけど、だから事情もよく分からないんです、私たちには。でも根は悪い子ではなさそうで」
そう語るこの女性も、きっと悪い人ではないのだろう。困っている様子はあるが、邪険にするような雰囲気は見えない。
「行く当ても無い様子なんで、若い女がフラフラしてたら危ないってんで隣の宿の女将さんが住み込みで雇っているって聞きましたね」
「それは徳の篤い方ですね」
シャラは上品に笑顔を見せながら、追加のチップを渡した。
「ありがとうございまーす。……あの子が気になりますか?」
チップをしまい込んだ売り子が去り際に尋ねた。
「ええ、お嬢様も昔は遠い土地に住んでいたもので。自分も言葉を覚えるのに苦労したからと、共感しておられたものですから」
「そうでしたか。あの、悪い子じゃないんです。ご迷惑おかけしたらすいません、その時は私たちにお声かけいただければ。なので、また見かけたら声をかけてあげていただけると、私たちも嬉しいです」
シャラが呼吸するように嘘を交ぜるのに感心しつつ、ナヴェットはペコっと頭を下げておいた。
「この街は親切な方が多いのですね」
安心したようにナヴェットが呟き、みじん切り野菜のスープとパンを順番に口にする。
「宿場町ですからね、しかも温泉ありの。色々な事情の人が通り過ぎるのに慣れているのでしょう」
シャラは香草で蒸した白身魚を口に運びながら、この後のシュロの夜遊びもとい情報収集は隣の宿の酒場へ行ってもらおうと考えた。
「この一連の異変と関係があるのでしょうか。何かに巻き込まれたか……」
シュロはチーズを小さく一口かじってから、温泉水で割った白葡萄酒を呷る。その表情には、心を痛めている様子が現れていた。
「普段、人について『視えた』ものを明かすのは控えているのですが……」
シュロがためらうように口を開きながら、シャラのことを目で伺う。シャラも迷う様子を見せたが、うなずき返した。
「彼女の抱える……怯えや孤独……絶望は、少し異質です」
「そんなものを……」
彼女の常に畏縮しているような佇まいを思い出して、ナヴェットは顔を曇らせた。
「早く……鎮めなくてはなりませんね」
本当は、何か直接的な手助けする道を探したい。ナヴェットはその気持ちを口にするのを、いつかと同じように努力して抑えた。
***
「やはり温泉地の祭壇はミネルワ系譜なのですね」
翌朝、出発前に常駐の調揺士と話をしたいとのことで、シャラが先に宿を発った。
ナヴェットとシュロはやや遅れて宿を出て街の祭壇に向かい、その近辺でシャラを待っていた。
「はい、古くからある温泉地は特にその傾向が強いですね」
祭壇は、宿から見て共同浴場を挟んだそのすぐ向こう側にあった。街全体で見れば、むしろ祭壇が共同浴場の入口と言える。
出発前にもう一入浴という旅人が多いのだろう、朝まだ早いというのに、祭壇も浴場もそこそこの人出があった。
「おや、あれは」
少し離れた場所で、女性の笑い声が聞こえた。
そちらに目をやると、異国から来たとおぼしき昨日の売り子が、脇の窪地で馬たちと共にいる。
どうやら浴場から排水される温泉で馬を洗ってやっているらしい。
「昨日聞いたのですが、彼女は馬の世話が上手らしいです」
「……本当は、ああやって笑う女性だったのですね」
シュロの情報どおり馬にブラシをかけるその手つきは手慣れており、馬に何事か話しかけて笑っている様子は、昨日とは別人のようだった。
「おはようございます。精が出ますね」
昨日「見かけたら声をかけてあげて」と先輩売り子に言われたことを思い出し、ナヴェットは彼女に近づき挨拶を投げかけた。
「あ…… オハゥヨ ゴジャマス」
相手は笑顔から戸惑った顔に一瞬で変わってしまったが、それでも懸命に挨拶を返してくれる。
「いい馬ですね」
シュロも馬の首を撫でながら、ゆっくりと喋った。
言葉を正確に理解したかは分からないが、馬を愛でていることは伝わったらしく、彼女の表情が少しやわらいだ。
「良ければ、手伝っても良いですか?」
シュロは自分・ブラシ・馬を順に指差した後、ブラシをかける仕草をしながら話かける。
意図が通じたのか、彼女は小さくうなずいてシュロに別のブラシを手渡した。
「お嬢様は……馬に慣れていなさそうですね。それだと危ないかもしれないので、離れて見ていてください」
言われた通りにナヴェットは少し下がり、二人の様子を大人しく見守ることにする。
女性はやや緊張の面持ちだったが、黙々と作業をするうちに次第に顔がほぐれ始め、やがてまた笑顔も見せるようになった。
そしてシュロも、ナヴェットが見たことないほど穏やかに満ち足りた表情で馬に微笑んでいる。
「……本当は、ああやって笑うのですね」
先ほどと同じ言葉が別の対象に向かって、ひとりでに漏れた。
「お嬢様」
穏やかな光景に見惚れて軽くぼんやりしていたナヴェットを、シュロの声が引き戻す。
見ると、女性の方がナヴェットに向かってチョイチョイと手を振っていた。
「おやつをやってみないか、と言っているようです」
女性の手には、馬から隠すようにリンゴが握られている。馬は匂いで察しているようで、懸命に女性の体に長い鼻をこすりつけて甘えている。
「いいのですか?」
「はい、この馬なら大丈夫だと思います。怖がらないで、馬も怖がってしまいますから」
ナヴェットは女性からリンゴを受け取り、そっと馬に差し出した。待ってました、とばかりに馬がかぶりつく。
目の前で見る馬の口は大きく、ナヴェットは自分の指ごとかじられるのではと一瞬思った。しかしもちろんそんなことはなく、馬は器用にナヴェットの指を避けてリンゴをかじり、むしゃむしゃ咀嚼している。
「な、生あたたかくて、ぬちゃっとしました!」
かじられはしなかったが、舌で舐められた指先の感触に、ナヴェットはつい大きな声を上げる。
その様子を見て、女性も声を出して笑った。
そしてナヴェットに向かって上半身をかがめ、優しく、とても優しく頭を撫でた。きっと馬だけでなく、子どもも好きなのだなとナヴェットは思った。
「ありがとうございます。お嬢様もいい経験ができたことと思います」
細かい意味は伝わらなくて構わないと思ったのだろう、シュロが丁寧に礼を言う。
「私はシュロと申します。あなたのお名前を伺っても?」
わざわざシュロが自分から名乗るのは珍しいことに思えた。
「私は、ナヴェットです。こちらは、シュロです。あなたは?」
シュロには何か考えがあるのかもしれないと思い、ナヴェットも名乗った。
顔を見る限り、意図は伝わったように見える。しかし俯いて迷っている様子だった。
辛抱強くナヴェットとシュロが無言で待っていると、やがて意を決したようにナヴェットの目を見つめ、女性が口を開いた。
「我、オリガと申す者也」




