渡る鳥:01 温泉割
「これは……硫黄?」
馬車を降りた宿場町は、独特の匂いが微かに漂っていた。
「分かりますか」
いわゆる卵の腐敗匂。爽快とは言い難い匂いが鼻腔をくすぐる。
幸いなことにその日のその後は、多少の天候の荒れはあれど大きな事件が起こることなく、一行は無事に目指す宿場町にたどり着けた。
祭壇が発見された山の麓ではあるが、現場は山の反対側なので、明日からは徒歩で山を回り込むことになっている。
「この宿場町には温泉が湧いています。観光地と言うほどの規模ではありませんが、街道を通る旅人には人気があります」
「小さな公共浴場がいくつかあるはずですよ。私たちが使うのは難しいですが」
素の顔を晒したくない二人と、装身具を外したくないナヴェットでは、公共浴場を使うのは難がありすぎる。
「残念ですねえ、お二人が別荘でもお持ちだったら良かったのに」
「王侯貴族でないと無理ですよ、個人宅に温泉だなんて」
無茶を言いながら笑うナヴェットに、シャラは苦笑いを返す。
「お嬢様も温泉はお好きですか?」
「はい、近い……と言うほどではありませんが、里の方にも湧いていましたよ」
「温泉の周りはだいたい心地よいユラが漂っているので、私たちも好きですね」
「歩く人も楽しそうなことが多いですしね」
観光地と呼ぶほどではない、とは言うものの、やはり他の宿場町よりも屋台などが多い。
平時であれば、かなり活気があることが伺われる。
源泉をいくつかの宿で共有して囲っている一画があったので、そのうちの一つを今日の宿泊地に決めた。入浴は無理でも、足湯くらいは楽しめそうだ。
「今日はもう暗くなりそうですし、祭壇を詣でるのは明日にして足を温めましょうか。馬車に座りっぱなしで、足がむくんだでしょう」
宿のスタッフに声をかけ、足洗用の桶を共有浴場の脇で使わせてもらう。
三人並んで靴を脱いで裾をたくし上げ、浴場から汲み上げた温かいお湯に足を浸した。得も言われぬ幸福感が、三人を満たす。
「せっかくですから飲泉も楽しみましょうか」
シャラが浴場を練り歩く売り子を呼び止め、冷ました温泉水のカップを三人分と、ナヴェット用に飴玉も買い求めた。
「おお、これが飲泉杯…… そうでしたね、この辺りでは飲泉での治癒効果を非常に重視していると聞きました」
「はい、活性化しているユラを直接体内に入れるようなものですからね。心身に良いですよ」
シュロは解説しながらまったく自然な手つきで、自分の杯に蒸留酒を注ぎ足し混ぜる。
懐から取り出されたそれは、いつも飲んでいるものより高価な果実系の蒸留酒の小瓶であることをシャラは見逃さなかった。
——ガラス瓶だと!? 節約しろって言ったのに臨時報酬をさっそく使いやがったな
馬車護衛の件では苦労を押し付けた自覚があるので咎めるのが難しい所だ。
「お嬢様の方ではあまり飲まないのですか?」
「そうですね、入浴の方が重視されていましたね」
「初めてだと癖が強く感じるかもしれませんね。飴玉を舐めながらどうぞ」
恐る恐る、という体で杯から一口飲みこんだナヴェットの顔が、何とも言えないものに歪んだ。
予想通りの反応にシャラとシュロは笑い声を上げる。
「これはその……何と言いますか……」
「慣れれば悪くないものですよ」
笑いながらナヴェットの口に飴玉を入れてやり、シャラも自分の杯からチビチビと温泉水を舐める。
「あ。でもここのは本当に癖が強いですね。私も甘いものをいただきましょう」
周囲を見回し、近くの売り子を呼び止める。
「果物の砂糖漬けをいただけますか? できればスモモの」
「サト……ヅ……?」
売り子の戸惑う様子に、シャラとシュロも首を傾げた。
「なければ他のものでも良いのですが」
「アー…… ソノ……」
「申し訳ございませんお客様!」
突如後ろから、別の女性から声をかけられた。
振り返ると、先ほど飲泉杯を売っていた売り子だった。
「申し訳ございません、何か失礼ございましたでしょうか。あの、その子は新入りなもので」
「いえ何も問題は。砂糖漬けの果物をいただければと思いまして」
「承知いたしました、すぐお持ちいたします」
慌てるように先輩売り子が去り、その場には途方に暮れた顔の新米が残った。非常に気まずい。
「その、カップを、ひとつ、ください」
シャラとシュロが怪訝な顔をしていると、ナヴェットが売り子の手元を指さしながら、異様にゆっくりと注文をした。
二人は何事かと驚いたが、それを聞いた売り子はホッとしたように表情を緩め、丁寧な手つきで売り台から飲泉杯をナヴェットに差し出す。
「アリグァト ゴジャマス」
ナヴェットにせがまれシャラが代金を支払うと、また売り子は大切そうにそれを受け取り、深々と頭を下げて無言のまま控えめに笑った。
「今の子は……」
戻ってきた先輩売り子から砂糖漬けを受け取ったあと、シャラがナヴェットを振り返る。
「遠くから来た方なのではないでしょうか。たぶん、言葉が違うのです」
ナヴェットは浴場の別の端で自信なさげに飲泉杯を掲げる売り子の姿を、見守るように見つめている。
「知っている単語がまだ少なくて、『砂糖漬け』が分からなかったのだと思います」
「それは何だか、気の毒なことをした気持ちになります」
言われてみれば、この辺りではあまり見ない容姿だった。何か事情があるのかもしれない。
「だからお嬢様は、簡単な言葉で分かる注文をしてあげたのですね」
理由は分かった。しかし。
「二杯、飲めそうですか……?」
尋ねるシャラに、今度はナヴェットが泣きそうな顔になった。




