第5話
「――い、おーい、類以、起きて」
聞きなれた声が、すぐ近くで聞こえた。その呼びかけで目を覚ます。眩しい光が瞳の奥に突き刺さった。
「類以、おはよう」
「ん・・・、うぅん」
「まだ眠たい?」
「ん、ねむたい」
「そうだよね。朝早いもんね」
ふふふと、太陽のように微笑むパパ。僕は「パパ、なに~?」と眠たい目を擦って訊く。
「類以、パパと一緒に、こっち来て」
「どこいくの?」
「フフッ、内緒。下向いて、パパに付いて来てくれる?」
「うん」
背もたれのない椅子から降りて、ちゃんと俯いたままで、パパに手を引かれて、内緒の場所に向かう。今、自分がどこにいるのか分かっていない。でも、なんとなく初めての場所というより、馴染みの深いところに居る気がして、ちょっとだけ安心できていた。
パパに言われた通り、ずっと下を向いて歩いた僕。立ち止まったパパに、「顔をあげていいよ」と言われてから、前を向いた。その先には、可愛い顔のママと、ママの細くて色白な腕に抱かれた何かがいた。それは、真っ白でふわふわとしたタオルに包まれている。
ニコニコと笑うパパとママ。僕はよく分からなくて、「ママ、それなぁに?」と訊いた。そしたら、顔を見合わせて、また微笑んで、こう言ってきた。
「類以の弟だよ」
ママが抱いていたのは、小さな男の子だった。
「ぼくの、おとうと?」
「そうだよ」優しく頷いて、頬を緩ましたパパ。
「類以、こっち来て」ママに手招きをされて、僕は眠たい目をしたままで近づく。ママに抱かれているその子は、ママの腕の中で目を閉じて、穏やかに眠っていた。
「きみの、おなまえは?」
僕は単純な気持ちで尋ねる。だけど、その子は眠ったまんまで、何も言葉は返ってこない。でも、僕は何か返事をしてくれるだろうと思っていて、小さすぎる顔をじっと見つめ続けてた。
「以都だよ」男の子じゃなくて、パパが答えた。「いとくん、こんにちは」僕は教えてもらった通り、元気いっぱいに挨拶をする。いとくんは少し微笑んだような気がした。
でも、どうして僕みたいに話せないのかが分からなくて、僕は口を尖らせた。そしたらママがクスクスと笑いながら、「以都はね、産まれたばかりだからね、類以みたいにまだおしゃべりできないんだよ~」って言った。
そうやって言われても、やっぱり、どうしておしゃべりができないのか、僕には分からなくて、首を右に傾けた。
「いつ、おしゃべりできる?」
「類以みたいにお喋りさんになるのは、うーん、まだまだ先のことかな」
「ん~?」
「フフッ、今は分からないよね。でもね、少しだけ時間が経てば、以都とお喋りができるからね。だから、類以がいっぱい話しかけてあげてね」
「いっぱいって、どれぐらい?」
「そうだなぁ、ママとパパとお話するときみたいに、かな。以都がお喋りできるまで、ゆっくり待っててあげてね」
「いいよ! ぼく、おにいちゃんだもん!」
僕は大きく頷いた。そしたらパパが、「いい子だね」って頭を何回も撫でてくれた。
「おしゃべりできるの、たのしみ」
「そうだね。楽しみにしていようね」
「うん!」
楽しみすぎて、大きくジャンプする。おとうと、という響きも心地よくて、初めて、幸せっていう感情について知れた気がした。この日のことは、たぶん忘れられない。
それからしばらく、僕は以都のことを眺め続けてた。そのとき、ママがパパに「猛も以都のこと抱きたいでしょ?」とニマニマしながら聞いた。
「あぁ、うん。もちろん抱きたい。それに、ずっと抱いてるのも大変でしょ。かわるよ」
「ふふっ、ありがとう」
と言いつつも、緊張で表情が強張っているパパのことを、ママは「大丈夫?」「ちょっと、へへ、不安」などと心配しつつも面白がっているような声色で話す。
「意外と小さいんだな」
「だね」
「可愛いなぁ」
「可愛いね」
パパとママは見つめ合って、幸せそうにフフッと笑う。パパの大きくて筋肉質の腕の中で、絶えず眠り続ける弟、以都。そんな弟のことが可愛いけれど、でも僕じゃない人に可愛いって言っているのが、何だかむず痒くて、僕は心がザワザワした。
「以都の成長も、あっという間なんだろうな」
「そうだよ」
「類以も大きくなったもんな」
「うん。出会った頃はこれぐらい小さかったもんね」
「懐かしいなぁ。もう3年か、ハハハ」
僕にはよく分からない会話をするパパとママ。でも、目を細めて、見つめ合って笑って、嬉しそうにしていることだけは分かった。
「類以、これからは家族4人で、新しいお家で暮らすんだよ」
ママが僕の両手を優しく握りしめた。
「かねこちゃんも、いっしょ?」
「ううん。金子ちゃんとはね、一緒には暮らせないんだ」
「どうして? ずっといっしょがいい」
「そうだよね。でもね、金子ちゃんにも新しい家族が増えるの。だからね、今までみたいに、シェアハウスで一緒に暮らすことはできないんだよ」
パパとママにそう言われても、なんで一緒に暮らせないのかが、理解できなかった。まだ脳が寝ているのかなって思ったけれど、そんなこともなかった。
「・・・っ」
涙が溢れ出しちゃって、止まらなくなった。
「もっと、あそびたかった」
「そうだよね。でも、金子ちゃんのことだから、きっとまた類以と遊んでくれるよ」
「ほんと?」
「うん。新しいお家に、金子ちゃんのこと呼んであげるから、遊んでもらおう」
「ほんとに!?」
「本当だよ。約束」
ママが僕に小指を立てて近づける。僕も真似をして、少し不格好だけど小さな指を絡ませて、約束を交わす。パパは眠る以都を起こさないように、声を出さないようにして笑っていた。
「類以、以都と仲良くしてくれる?」
「いいよ!」
「以都にお話し聞かせてあげてね」
「うん! ぼく、いとのこと、だいすきだもん!」
「以都とたくさん遊んであげてね」
「ぼくにまかせて! だって、ぼくはいとの、おにいちゃんだもん!」
僕が腕を上げて飛び跳ねると、ママがふふっと優しく笑ってくれた。この表情を見るだけで、僕の心はホッと温かくなる。とっても不思議だ。
「類以は、今日からお兄ちゃんになったんだよ。おめでとう」
僕はその言葉が嬉しくて、何度も何度も、自分の口で呟いた。パパとママに笑われちゃうぐらい。でもね、それぐらい最高に幸せな気分で、嬉しい気持ちだったんだ。誰にも分かってもらえない、僕だけの感情が動いた瞬間だった。




