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第1話

 芸術作品のように美しく折り重なる荷物を背に、庭に植わるネーブルオレンジの木を眺めながら、1人優雅にティータイムを楽しんだ百井。鳩時計が午後4時を告げる。時間だ――


「♪♪♪」


スマートフォンに着信が入る。相手は、百井が協力を依頼した人物だった。


  *


 シェアハウスから車で約3時間。家の周りには森林しかない、完全なる田舎町に立つ、立派な一軒家。最寄り駅に行くにも、スーパーに行くにも、車がないと行けないような、そんな場所に帰るのは、正直嫌だった。いくら生まれ育った地元とは言え、都会での生活に慣れてしまった今、不便としか思えない。帰らずに済むのなら、都会の土地で暮らしていたい。しかし、家族以外では、もう誰にも頼ることができない。


 類以が産まれてからは、初めての里帰りだった。あたりを山に囲まれた場所にある、百井の実家。昔ながらの風情を残しつつ、新しめな風を吹かせる古民家の扉を、百井はゆっくりと開ける。


「ただいま」玄関先で声をかける。廊下奥にある扉を開けて出てきた母親。52歳の割にはメイクも濃く、派手な花柄のエプロンを身に着けている。若作りに関心があるようにしか思えなかった。


「おかえり。随分と早かったのね」

「うん。道路が空いてたから、スムーズに来れたんだよね」

「そう」


 類以は人見知りをした。百井の足元に隠れ、ちょっと動いてはすぐに隠れる。その行為を繰り返す。ここにいても何も始まらない。手に持っていた荷物を下駄箱の上に置き、隠れる類以を横に連れ出す。


「ほら、おばあちゃんに挨拶して」


それでも俯き、黙りこくっている類以。痺れを切らした百井は、「初めまして。類以です。年齢は3歳です」と代わりに話す。すると、母親は「類以君、初めまして。百井春江ももいはるえと申します。年齢は52歳です。よろしくね」と微笑んだが、類以はモジモジと、軟体動物のように動くだけで、全く笑わなかった。


「あれ、お父さんは?」

「夢ちゃんたちが帰って来るからって、いま買い物に行ってる。張り切っちゃって、はぁ、困った人よねぇ」


呆れたように言う春江だったが、目じりは垂れていた。


「そうなんだ。でも晴ちゃん、旦那さんとの用事があるからって、帰ったよ」

「あら、そうだったの? なんだ、夕方ごろ車で来るって言ってたから、てっきり2人とも泊まっていくものだと思ってた」

「明日も仕事だからって言ってたけど、多分旦那さんとの営みでもあるんでしょ。だから帰ったんだよ」

「そうね。夢ちゃんには類以君がいるけど、まだ晴ちゃんには子供がいないからね。早く孫の顔が見て見たいものよ」


何気ない春江の発言に、百井は「うん」と頷くことしかできなかった。


「あっ、でも私は泊まるよ。って言うか、しばらく実家のほうでお世話になるつもりだから。よろしくね」

「帰らないの?」

「帰っても居場所がないの」

「え? おうちはどうしたの?」


心配そうに言う春江に、百井はあっけらかんとした様子で答える。


大志まさしと離婚してきちゃった。だから、向こうに帰っても住める家がないの」

「・・・そう、だったの。そっか。でも、演技の仕事はどうするつもりなの?」

「仕事があるときだけ、ここから通う」

「それで大丈夫なの?」

「うん。しばらく実家に帰るって伝えてあるから」

「ならいいけど」

「その分、類以との時間を大切にしようと思ってる。今までは息子として向き合ってこれなかったから」

「それってどうい―」

「ううん。何でもない。類以、ほら、靴脱いで上がって」

「・・・・・・」

「そこに突っ立てても駄目だよ」


 渋々首を縦に振り、履いていた靴を脱ぎ始める。思っていたよりもどんくさい類以。いつまで続くのかと思うだけで嫌気がさす。類以の親権はまだ槙野と荻野のまま。一刻も早く、その親権をはく奪するつもりでいる。


子育てが嫌になれば、最悪この家から逃げ出せばいい。ここなら子供3人を育て上げた母と父がいる。お金だって何倍も多く持っている。仕事を言い訳にすれば、簡単に出ていけるはずだ。


 5年振りに入る自分の部屋。家具も、服も、家を出た当時のまま残されている。そこに類以を連れて入るのは、何だか気恥ずかしいものがあった。類以は、辺りを見渡すように黒目をキョロキョロと動かし、そして興味があるものにはとりあえず手を伸ばして触れていく。


「ももいさん、ここどこ?」百井の目を見て訊く。そんな類以に視線を合わせるようにしてしゃがみ、細い両腕を掴む。


「類以、今から私のことを百井さんって呼ぶのは禁止。これからはママって呼びなさい」

「るいのママ、ももいさんじゃない」

「違う。類以のママは私なの。荻野じゃない」

「じゃあ、だぁれ~?」

「だから、私だって言ってるでしょ。それに、類以のパパは槙野じゃないからね」

「っっ、パパはだれ?」

「若狭大志って人。訳があって会えないけど、ちゃんといるから。だから、パパの名前を訊かれたら、絶対に大志って答えて。槙野猛って言ったらママ怒るからね」

「なんで、おこるの?」

「チッ。しつこいなぁ。いい加減分かってよ。あんたのパパは若狭大志で、ママは百井夢花なの。いい?」


唇を震わせ始めた類以。そして「やぁ~だぁ~。わからない~」と激しく泣き出した類以。「静かにして」「泣かないで」「うるさい」「だまれ」と言っても、聞く耳すら持とうとしない。手に負えないと思った百井は、思わず大きな声を出す。


泣き止むどころか、その声に驚き、さらに大きな泣き声をあげて、大粒の涙を零していく類以。音が無い空間なだけに、類以の泣き声と百井の荒い息遣いだけが響く。


「類以、静かにして!」

「あぁ~あああ! いやだ!」


 異変に気付いたのか、1階から春江が「何かあったの?」と声をかける。


「大丈夫。類以が転んじゃって、それで泣いてるだけだから」


平然と嘘をつく。


「そう」

「ごめんね、もう少ししたら降りるから」


百井は大きな声で春江にそう伝え、立ち上がる。床には埃1つ見当たらない。


「ママは、どこいったの?」

「・・・・・・」

「るいのパパは、どこ?」


涙を頬に伝わせながら、必死に尋ねる類以。しかし、百井は沈黙したままで、問いかけには答えなかった。


 類以の洟をすする音だけが、寂れた部屋に響き渡る。カーテンの隙間から夕日の激しいオレンジ色が差し込む。薄暗い部屋に、明かりを灯した。

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