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第19話

 シェアハウスに帰ってきた荻野。当初の予定よりも1時間半遅い帰宅だった。


靴が1足しか並んでいない玄関。そして、あるのは百井の厚底靴のみ。金子が普段履いている靴、槙野の仕事用の靴、そして類以の靴、そのどれもが置かれていなかった。


日和に連絡していないのだから、類以の靴がないのは当然のこと。でも、既に帰宅したと連絡があった金子と槙野の靴はない。下駄箱を見ても、どこにもなかった。どこかに行くなら、大概連絡が入るのに・・・。


「ただいま戻りました」


リビングに繋がるドアを開けながら、そう声を発する。中にいたのは、やはり百井だけ。ソファに腰かけ、だらしない姿勢でスマートフォンを触っている。


「なんだ、荻野か」

「類以じゃなくてすいません」

「そうね。早く類以に会いたいな」


天井を仰ぎ見る百井。美容室に行くと言っていたが、髪を切ったようには見えなかった。それに、爪先も綺麗になっていない。外出しなかったのか、と荻野は想像する。


「あの、お聞きしてもいいですか」

「なに?」

「猛、帰ってきてませんか?」

「仕事がしたいから、近所のカフェに行くって言って、出て行ったけど」

「そうなんですね」

「ちなみに、ミサちゃんも出てる。買い出しにって」

「そうですか。教えていただいてありがとうございます」


荻野は気まずくなって、軽く咳払いをする。


「ねぇ、あのさ」


真顔で尋ねる百井。荻野は律儀に「はい」と言って百井のほうを見る。


「これ、もらいものなんだけど、私の口に合わなくて」

「何ですか?」

「麦茶。よかったら飲んでくれない?」

「・・・・・・」

「あ、飲んでって言ってるの、私の飲みかけじゃないから」

「あ、そうなんですね・・・。はい、少しだけなら」

「よかったぁ。じゃあ、新しいの準備しよっと」

「お願いします。私、着替えてきます」


荻野がリビングを出たタイミングで、百井は随分前から沸かしていた麦茶を、荻野が使っているガラスコップへと注ぐ。最後に、レモンの輪切りを乗せて。


 数分後、グレーのワンピース姿に着替えた荻野は、百井が準備した麦茶を、何の疑いもなく飲む。レモンは取り出してグラスに刺した状態で。


「はい、美味しいです」

「そう。良かったら飲んで。私、もういらないから」

「ありがとうございます。少量ずつ飲ませてもらいます」


そう荻野が言うと、百井が「はぁい」と、若干皮肉を含めた感じで返事をする。そして、気付かれぬよう、口元を覆ってニヤリと笑った。


 新たな生命がこの世界で呼吸をすることはなかった。



 午後2時50分を迎えようとしていた頃、日和に連れられて帰宅してきた類以。小さなスニーカーとズボンの裾には、無数の泥汚れが付着していた。


「おかえり~、フフフッ」

「あ、あの―」

「いつも類以の、ううん、息子の世話を見ていただいて、ありがとうございます~」

「えっと・・・」

「初めまして~。私、住人の百井夢花って言います。よろしくです」

「あっ、えっと・・・、柄本日和です。あの、すいません、荻野さんはいら―」

「荻野なら、帰ってきたところなんですけど~、今は手が離せないみたいで~」

「あ、じゃあまたあとで来―」

「そんな、わざわざ来てもらったのに。あ、もしかして荻野から何か言われてます?」

「い、いえ」

「家にいるのは私だけじゃないですよ。槙野もミサちゃんもいますから」


足元に目を遣る百井。そこには、槙野と荻野、そして金子の靴が、少しだけ不格好な感じで並べられている。


 日和は類以の手を強く握ったまま、玄関先で立ち止まる。


 空からぽつぽつと、小さな雨粒が落ちてきた。


「あ、あめだ」


律が曇天の空を見上げながら指を差す。


「そう言えば、このあと激しく降るみたいなこと、ニュースで言ってましたよ。傘持ってないでしょ? 早く帰らないとお子さんたちもずぶ濡れになっちゃいますよ」

「そう、ですけど」

「だから、ね、類以、早くおうちに入って。類以も濡れちゃうよ。嫌でしょ?」


荻野の顔も、そして中にいると言っていた槙野と金子の姿も見ていないが、日和は類以の手を放し、背中をぽんと優しく押す。


「類以君、今日はありがとう。また遊ぼうね」

「うん!」

「ばいばい、類以!」

「ばいばい、律! 琴ちゃん!」

「じゃあ、失礼します」

「はーい。気を付けてね~、ウフフ」


 玄関の扉を閉める。百井は類以の手を引いて、洗面所へと足早に向かう。


「ねぇ、ももいさん」

「なに?」

「ママは?」

「帰ってない」

「どこ、行ったの?」

「知らないよ、そんなの」


そう言った途端、歩くのをやめた類以。百井のことを見上げるように、こう言った。


「じゃあ、だめ」

「何が駄目なの」

「かえってきたら、だめ」

「誰がそんなこと言ったの?」

「ママ」

「チッ。余計なこと言いやがって」


百井が目を細める。類以はその顔が怖くて、思わず下を向いた。そして、そのまま百井に話かける。


「パパは?」

「帰ってない。ミサちゃんもね」

「なんで?」

「知るわけないでしょ」

「かねちゃんは?」

「だから、帰ってないって言ってるでしょ!」


 少しの沈黙があったのち、大粒の涙を零して泣き出した類以。服が、床が、濡れていく。


「うるさいよ、類以。黙れ」

「やあだあ!」


百井のスカートを握りしめる類以。百井はその手を引きはがし、「そんな汚い手で触るなよ。さっさと手洗えよ」と、洗面所の前に突き出す。しかし、そこでも棒立ちを続ける類以。言うことを聞いてくれないから、嫌になる。


「あらわない!」

「何でそういうこと言うわけ? 信じられない」

「なんで」

「なんで、なんでって、さっきからうるさいなぁ。静かにしろよ」


叫び声に近い泣き声を上げる類以。百井は強引に、暴れる類以を抱き上げて手を洗わせる。その間も、一切泣き止むことはなく、慟哭どうこくの状態を貫く。


 そして、3歳の類以は想像以上に重たかったが、変なところに行かれるよりはマシだと思い、手は濡れたままで階段を駆け上がる。


「着替えて、出かけるよ」

「どこ、いくの?」

「さぁ、知らない」

「なんで?」

「知らないものは知らないの。どこだっていいでしょ。あんたが知ってるところなんて少ないんだから」


部屋に入ってから類以のことを降ろし、小さなタンスに手を伸ばして、適当に服を掴んで、お菓子が入っていた紙袋に詰めていく。その間、類以は窓の辺りをぼんやりと眺めて、そして指を差し、「パパ」と呟いた。百井は内心ドキドキしたが、さきほどと何も変わらない窓が、そこにあるだけだった。


「あと少ししたら迎えが来るから、それまではリビングで待つよ」

「ほかのおへや、いっちゃだめなの?」

「駄目。リビングからは出さないからね」


類以は、なんで、と言いかけて、小さな声で「はい」と呟いた。今、また言ってしまえば、百井のことを怒らせる。怒られる。そう思うだけで怖くて、何も言えなくなってしまっていた。


 電気を消して寝室を出る。類以が違う所へ行かないように、面倒だったが手を引きながら階段を1段ずつ降りていく。


「いつ、かえってくる?」

「さぁね。夕方までには、帰って来るんじゃない?」

「るいも、おでかけしたら、かえってこれる?」

「類以は、もうここには帰ってこないよ」


類以は首を傾げながら、最後の1段を降りる。そして、誰もいないリビングに向かって、パタパタと軽い音を奏でながら走る。百井は、吹き抜けになっている天井を仰ぎ見て、そして薄ら笑いを浮かべた。



 ある1人の男の子を巡って繰り広げられた百井による復讐劇は、今日をもって幕を下ろした。予定よりも長い上演期間を終えた今回の公演。百井史上、最高傑作だ。

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