読めることの意味
部屋の中へ、
木を削る音が響いていた。
シャッ。
シャッ。
細かな木屑が、
机の上へ落ちていく。
ミレイユ。
ジーク。
レオン。
そしてエリアス。
全員が、
黙々と木板を削っていた。
最初は興味津々だったエリアスも、
流石に疲れてきたらしい。
「……大変ですね」
小さく息を吐く。
指先には、
慣れない傷までできていた。
ミレイユは、
木板へ文字を彫りながら頷く。
「えぇ」
「教材は大量に必要です」
この国には文字の読めない民がたくさんいる。
子供だけじゃない、大人もだ。
だから。
何枚あっても足りない。
エリアスは、
彫りかけの文字を見る。
歪な線。
簡単な文字。
そして。
ぽつりと呟いた。
「……こんなにしないと、
覚えられないものなんですか?」
悪意はなかった。
本当に。
ただ純粋な疑問だった。
エリアスは、
少し困ったように笑う。
「僕、
普通に読めましたし」
「何度も触って、
なぞってって」
「そこまでしなくても、
覚えられるのでは――」
その瞬間。
シャッ――
木を削る音が、
止まった。
空気が変わる。
エリアスが、
はっと顔を上げた。
ミレイユが、
ゆっくり手を止めていた。
金色の瞳が、
静かにエリアスを見る。
怒鳴っていない。
けれど。
今までで一番、
怖かった。
「エリアス」
静かな声。
「貴方は今」
「民を侮辱しましたか?」
エリアスの顔から、
血の気が引く。
「え……」
ミレイユは、
真っ直ぐ弟を見据える。
「文字へ触れたくても、
触れられない人がいます」
「学びたくても、
学べない人がいます」
「毎日生きるだけで精一杯で」
「字を覚える余裕すら、
ない人がいます」
静かな声だった。
だからこそ、
重かった。
エリアスが、
小さく息を呑む。
ミレイユは、
続ける。
「貴方は、
王族として生まれました」
「教師がいて」
「本があって」
「当たり前のように、
学べる環境があった」
金色の瞳が、
静かに細められる。
「ですが」
「それは、
当たり前ではありません」
部屋が、
静まり返る。
「覚える速度も違う」
「得意不得意も違う」
「何度触っても、
覚えられない人もいます」
「逆に、
一度で覚える人もいます」
「それでいいのです」
ミレイユは、
木板をそっと撫でる。
「大切なのは」
「“できない”と切り捨てることではなく」
「その人へ合った方法を、
探し続けることです」
エリアスの喉が、
小さく動く。
ミレイユは、
静かに言った。
「民が愚かなのではありません」
「教育制度を、
整えられなかった」
「我々、
王族と貴族の責任です」
空気が、
張り詰める。
「言葉を慎みなさい」
その一言は。
王女としてではなく。
本気で民を守ろうとしている人間の声だった。
エリアスは、
完全に言葉を失っていた。
悪気は、
なかった。
本当に。
ただ。
知らなかったのだ。
学べない人がいることを。
文字を読むことが、
命を守る力になることを。
その時だった。
「……殿下」
低い声。
ジークだった。
銀髪の男は、
静かに木を削りながら口を開く。
「エリアス殿下は、
まだ王城しか知りません」
ミレイユの瞳が、
僅かに揺れる。
ジークは、
続けた。
「知らなかっただけです」
「ですが」
灰色の瞳が、
静かにエリアスを見る。
「今、
学ぼうとしている」
「それだけで、
十分立派だと思います」
エリアスが、
目を見開く。
責められると思った。
失望されたと。
そう思った。
けれど。
ジークは、
責めなかった。
その時。
エリアスは、
初めて理解する。
自分は知った気でいた。
本当は何も知らなかったのだと。
王城の外を。
民の生活を。
“読めること”の意味すら。
知らなかった。
エリアスは、
ゆっくり木板を見る。
そこへ刻まれていた、
たった一文字。
けれど。
それはきっと。
誰かにとっては。
人生で初めて、
掴んだ希望だった。




