嫌な予感
数日後。
王城・第一王女私室。
昼下がりだというのに、
部屋の空気は妙に重かった。
机の上へ広げられているのは、
数枚の視察書類。
目的地。
日程。
護衛編成。
そして。
大きく記された、
伯爵家の名。
ミレイユは、
それを見つめたまま固まっていた。
窓辺では、
風に揺れた植物達が静かに葉を鳴らしている。
だが。
その穏やかな空気とは裏腹に。
ミレイユの顔は、
完全に曇っていた。
「……嫌な予感しかしないわ」
ぽつり。
魂のこもった声だった。
後方で控えていたレオンが、
静かに視線を向ける。
ミレイユは、
書類を睨みながら続けた。
「なんで急に視察なの?」
「しかも伯爵邸でしょう?」
「絶対何かあるじゃない」
本気で嫌そうだった。
レオンが、
淡々と答える。
「ですが、正式な王命です」
「断ることはできません」
「それが嫌なのよ」
即答だった。
ミレイユは、
ぐしゃりと前髪を掻き上げる。
珍しく余裕がない。
レオンの眉が、
僅かに寄った。
ミレイユは、
深く椅子へ沈み込みながら呟く。
「この伯爵……」
金色の瞳が、
ゆっくり細められる。
「わたくしが辺境にいた頃、
何度もラヴゼン側へ物資を流そうとしていたのよ」
レオンの表情が、
僅かに険しくなる。
ミレイユは続けた。
「直接ではなく、
賊を使ってね」
「盗賊被害を装って、
物資を消していたの」
「塩も」
「保存肉も」
「冬越え用の小麦まで」
静かな声。
「裏で利益を得ていたわ」
部屋の空気が、
僅かに冷える。
ミレイユは、
小さくため息を吐いた。
「数年前から何度も、
伯爵邸へ賊が入ったでしょう?」
「その度に“盗まれた”って、
随分騒いでいたけれど……」
「調べた結果限りなく黒だった」
「証拠不十分で潰せなかったけれど」
「わたくしのこと、
相当邪魔だったと思うのよね」
ミレイユは、
机へ突っ伏した。
「……恨まれた?」
ぽつり。
「でも名前とか、
出してないはずなのよね」
数秒考え込む。
そして。
ミレイユは、
ものすごく嫌そうな顔をした。
「敵を作りすぎて、
何が原因かわからないわ」
レオンが、
静かに目を閉じる。
否定できなかった。
この王女。
辺境時代から、
平気で貴族の利権へ踏み込む。
密輸を潰し。
中抜きを暴き。
保存食を奪い返し。
挙げ句の果てには、
笑顔で市場改革まで始めた。
恨みを買わない方が難しい。
その時だった。
ミレイユが、
ぼそっと呟く。
「断りたい」
心の底から本音だった。
レオンは、
いつものように淡々と返す。
「断れません」
「ですよねぇ……」
力なく返事をする。
だが。
次の瞬間。
ミレイユの表情が、
ふっと消えた。
静かな顔。
先程までの愚痴が、
嘘みたいに。
「……ねぇ、
レオン様」
「はい」
ミレイユは、
ゆっくり顔を上げる。
その金色の瞳には、
珍しく明確な警戒が宿っていた。
「今回、
かなり危険だと思うの」
レオンが、
僅かに目を細める。
ミレイユがここまで直接、
“危険”と言うのは珍しかった。
「身の危険を感じますか」
静かな問い。
ミレイユは、
数秒黙った。
そして。
小さく頷く。
「……えぇ」
「嫌な感じがするのよ」
「まるで、
最初から罠が用意されているみたいな」
部屋が、
静まり返る。
レオンは、
ミレイユを見つめた。
この王女は、
滅多に弱音を吐かない。
どれだけ追い詰められても、
笑っていた。
そんな人間が。
今、
はっきり警戒している。
レオンは、
静かに口を開く。
「護衛騎士を増員させますか」
その瞬間。
ミレイユの瞳が、
僅かに揺れた。
だが。
返ってきた言葉は、
予想外だった。
「……死者は、
絶対に出したくないのよ」
レオンが、
目を瞬く。
「騎士が死ぬと?」
ミレイユは、
ゆっくり頷いた。
「えぇ」
静かな声。
「多分ね」
空気が、
凍りつく。
レオンの目が、
鋭く細められる。
ミレイユは、
視線を落としたまま続けた。
「わたくしを狙うなら、
正面からは来ないわ」
「事故」
「暴漢」
「混乱」
「誰かを巻き込む形で来る」
淡々と並べられる言葉。
まるで。
既に覚悟しているみたいに。
「だから嫌なの」
ぽつりと零れた声。
「わたくし一人なら、
まだいい」
「でも」
そこで。
ミレイユの指先が、
小さく震えた。
「わたくしのせいで、
誰かが死ぬのは嫌よ」
沈黙。
レオンは、
静かにミレイユを見る。
そして。
初めて理解した。
この王女は今。
“自分が狙われる側”になったことを、
ちゃんと理解しているのだと。




