王女は何も知らなかった
医院を出ようとした、その時だった。
「……聖女様気取りかよ」
低い声が、背後から響いた。
空気が凍る。
騎士たちが、一斉に振り返る。
そこにいたのは、
壁にもたれ掛かる痩せ細った男だった。
虚ろな目。
痩けた頬。
包帯だらけの身体。
男は、
ミレイユを睨みつける。
「お前ら貴族のせいで、こうなってんだよ」
騎士の顔色が変わった。
「貴様――!!」
剣に手がかかる。
だが。
「やめてください」
ミレイユが静かにそれを止めた。
騎士たちが驚いたように振り返る。
ミレイユは、
怒鳴られたことに怒ってはいなかった。
ただ。
その言葉が、
胸に深く刺さっていた。
肩が、
小さく震える。
……わかっている。
そんなこと。
わかっている。
ミレイユは、
ゆっくり男を見た。
怖かった。
怒鳴られることも。
拒絶されることも。
でも。
逃げてはいけないと思った。
「私は、聖女様になりたいわけではありません」
声は震えていた。
「でも――」
拳を握る。
「私は、本日この現実を知りました」
脳裏に焼き付いている。
崩れた村。
干上がった畑。
骨の浮き出た子供。
焼け爛れた身体。
「知らなかったんです」
喉が震える。
「私は……何も」
沈黙が落ちる。
ミレイユは、
涙を堪えるように息を吸った。
「だから、変えます」
騎士たちが目を見開く。
「変えていきます」
金色の髪が揺れる。
「時間がかかるかもしれません」
貴族も。
王族も。
騎士も。
きっと簡単には変わらない。
それでも。
「必ず」
ミレイユは、
真っ直ぐ男を見つめた。
「貴方たちや、その家族が」
声が掠れる。
「未来で笑える国にします」
その瞬間。
ミレイユは、
深く頭を下げた。
王女が。
第一王位継承者が。
庶民へ向けて、
頭を下げている。
誰も動けなかった。
呻き声すら止まったような静寂。
騎士たちでさえ、
言葉を失っていた。
やがて。
ミレイユはゆっくり顔を上げ、
その場を後にした。
馬車へ乗り込む。
扉が閉まる。
その瞬間だった。
震えが、止まらなかった。
「……っ」
手が震える。
呼吸が乱れる。
悔しい。
悔しい。
私は、
何も知らなかった。
何も救えていない。
変えると言ったくせに。
今の私は。
焼かれた身体を見て、
泣くことしかできない。
飢えた子供を見て、
苦しくなることしかできない。
「う……ぁ……っ」
涙が溢れた。
声を殺せなかった。
ミレイユは顔を覆い、
子供みたいに泣いた。
自分の無力さが、
悔しくてたまらなかった。
馬車の中は静まり返っていた。
騎士たちは、
誰一人言葉を発さない。
ただ。
若い騎士が一人、
膝の上で拳を強く握り締めていた。
皆、
暗い顔をしている。
きっと彼らも。
今日初めて、
この国の現実を見たのだ。




