王女が頭を下げた日
医院へ到着した瞬間。
ミレイユは、思わず息を止めた。
鼻を突く、濃い臭い。
血。
膿。
薬草。
汗。
腐敗。
言葉では言い表せない空気が、
建物全体に淀んでいた。
「……っ」
反射的に鼻を覆いそうになる。
だが、
ミレイユはぐっと堪えた。
逃げるな。
これは、
この国の現実だ。
薄暗い医院の中を見渡す。
そこには――地獄があった。
痩せ細り、
骨が浮き出た人々。
咳き込みながら、
血を吐く老人。
片目を失い、
虚ろな視線で天井を見つめる女。
腕のない男。
脚を失った子供。
包帯から滲む、
赤黒い液体。
呻き声。
泣き声。
絶望。
それは、
子供も大人も関係なかった。
ミレイユの指先が、
小さく震える。
……知らなかった。
王城では、
毎日豪華な料理が並び。
花が飾られ。
音楽が流れていた。
なのに。
同じ国で。
こんな光景が存在していたなんて。
騎士が静かに歩みを止める。
「……こちらです」
その奥。
簡易ベッドに、
三人の人間が横たわっていた。
全身が包帯だらけだった。
その隙間から、
爛れた皮膚が覗いている。
焼け爛れ、
赤黒く変色した肉。
ミレイユは、息を呑んだ。
……焼かれたのだ。
暴動で。
報復で。
どれほど痛かっただろう。
どれほど苦しかっただろう。
胸の奥が、
ぎり、と痛む。
「……話せますか?」
騎士が首を横に振る。
「いいえ。意識はありますが、声を出せる状態では……」
「そうですか」
ミレイユはゆっくり歩み寄る。
騎士たちがざわついた。
「姫様、お触れになるのは――」
ミレイユは答えない。
そのまま、
そっと一人の手を握った。
熱い。
火傷の熱が、
まだ皮膚に残っていた。
ミレイユは、
その場へしゃがみ込む。
そして。
静かに頭を下げた。
「……初めまして」
医院の空気が止まる。
「私の名前は、ミレイユ・ヴェルディアと申します」
騎士たちが目を見開く。
王女が。
第一王位継承者が。
焼け爛れた庶民の前で、
膝をついている。
ミレイユは続けた。
「貴方の家族の行動は、決して許されることではありません」
静かな声だった。
「世間も、許さないでしょう」
包帯の奥で、
微かに指先が動く。
ミレイユは、
その手を強く握った。
「……でも」
喉が震える。
「私は、許します」
その場にいた全員が、
息を呑んだ。
「そこまでしなければならない理由が、あったから」
脳裏に蘇る。
飢えた目。
崩れた村。
乾いた畑。
そして。
床に落ちたパンを、
見つめていたあの瞳。
ミレイユは、
焼け爛れた手を握りしめる。
「私は、この目で見ました」
声が、震えていた。
「そして理解しました」
王城では、
誰も教えてくれなかった。
この国が、
どれほど歪んでいたのかを。
ミレイユは、
ゆっくり立ち上がる。
金色の髪が、
薄暗い医院の中で揺れた。
「……簡単ではないでしょう」
静かな声が、
医院へ落ちる。
「きっと、多くの反発もあります」
貴族。
騎士。
王族。
変わることを恐れる者たちが、
必ず現れる。
それでも。
ミレイユは、
真っ直ぐ前を向いた。
「……この国を、変えます」
その瞬間。
医院が静まり返った。
呻き声すら、
止まったようだった。
「変えてみせます」
その瞳には、
もう以前の傲慢さはない。
「この王位継承権第一位――ミレイユ・ヴェルディアが、必ず」
拳を握る。
「貴方たちに、このような思いをさせてしまい――」
唇が震える。
「申し訳、ございませんでした」
深く。
深く。
王女は、頭を下げた。
それは。
その場にいた全員を、
驚愕させる光景だった。
そして。
医院の隅で。
年老いた看護師が、
静かに涙を拭っていた。




