弟
トントン――。
静かなノックの音が、
夜の部屋へ響いた。
ミレイユは、
膝を抱えたまま顔を上げる。
泣いていたことを隠すように、
そっと目元を拭った。
「……はい」
小さく返事をする。
扉が、
ゆっくり開いた。
そこから、
ひょこりと小さな顔が覗く。
金色の髪。
澄んだ蒼い瞳。
まだ幼い、
小さな男の子だった。
ミレイユが、
目を瞬く。
「……え?」
男の子は、
緊張したように背筋を伸ばした。
そして。
ぺこりと頭を下げる。
「はじめまして、お姉様」
まだ少し舌足らずな声。
けれど。
一生懸命、
礼儀正しく名乗った。
「ぼくの名前は、
エリアス・ヴェルディアと申します」
小さな胸を張る。
「八歳です」
ミレイユの思考が、
止まる。
弟。
今。
この子は、
なんと言った。
その時だった。
後ろから、
慌てた侍女の声が飛ぶ。
「エリアス様!!」
侍女が青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「駄目です、
勝手に入っては――」
エリアスの肩へ、
手を伸ばしかけた瞬間。
「待ってください」
静かな声だった。
侍女が、
はっと動きを止める。
ミレイユは、
ゆっくり立ち上がっていた。
金色の瞳が、
真っ直ぐ小さな男の子を見る。
「……あなたは、
誰ですか?」
掠れた声だった。
エリアスは、
少しだけ不思議そうに瞬きをする。
そして。
当たり前みたいに笑った。
「僕は、
あなたの弟です」
その瞬間。
ミレイユの瞳が、
大きく見開かれる。
弟。
自分に。
家族が増えていた。
十年の間に。
知らない間に。
胸の奥が、
妙にざわつく。
何かを言おうとして。
でも、
言葉が出ない。
その時だった。
「……エリアス」
優しい声が響く。
振り返る。
そこに立っていたのは、
王妃だった。
柔らかな金髪。
少し疲れたような微笑み。
けれど。
その瞳だけは、
ずっとミレイユを見つめていた。
王妃は、
静かに部屋へ入る。
そして。
十年ぶりに会う娘へ、
そっと微笑んだ。
「長旅、
お疲れ様でした」
その一言だけで。
胸が、
少し痛くなる。
王妃は、
エリアスの肩へ手を置いた。
「この子は、
あなたの弟のエリアスです」
「あなたが辺境へ行った二年後に生まれました」
ミレイユは、
静かにエリアスを見る。
エリアスは、
きらきらした目でこちらを見上げていた。
「お姉様のお話、
いっぱい聞いてました!」
嬉しそうな声。
「辺境をすごくしたって!」
「牛さん助けたって!」
侍女が青ざめる。
「エ、エリアス様……!」
王妃も、
小さく目を見開いた。
だが。
ミレイユは、
ぽかんとしていた。
そして。
次の瞬間。
ふっと、
小さく吹き出す。
「……誰ですか、
そんな話をしたのは」
すると。
エリアスは、
誇らしげに胸を張った。
「父上です!」
部屋が静まり返る。
王妃が、
思わず口元を押さえた。
ミレイユは、
数秒固まったあと。
堪えきれないみたいに、
小さく笑った。
久しぶりだった。
王都へ戻ってから初めて。
ほんの少しだけ。
心から笑えた気がした。
王妃は、
そんな娘を静かに見つめる。
そして。
ふと、
小さく口を開いた。
「ねぇ、ミレイユ」
ミレイユが顔を上げる。
王妃は、
少しだけ目を伏せた。
「……あの人には、
もう会ったの?」
部屋の空気が、
僅かに変わる。
エリアスは意味が分からず、
きょとんとしていた。
けれど。
ミレイユは、
すぐに誰のことか理解した。
静かに首を横へ振る。
「いいえ」
短い返事。
王妃は、
娘の顔を見つめた。
「会いに行くの?」
沈黙。
ほんの数秒。
けれど長く感じる時間だった。
ミレイユは、
ゆっくり立ち上がる。
金色の瞳に、
迷いはなかった。
「えぇ」
静かな声。
そして。
「もちろんです。
ただ、わたくしがあの方に会うのは
立派な王になった時です」
王妃は、
何も言わなかった。
ただ。
その返事に、
小さく目を閉じる。
安堵したようにも。
悲しそうにも見えた。
ミレイユは、
窓の外へ視線を向けた。
王城の夜は静かだった。
十年前。
私を刺した人。
私に気づきを与えてくれた人。
そして。
ずっと、
会わなければならないと思っていた人。




