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今日だけは

コンコン――。


 


静かなノックの音が、

夜更けの部屋へ響いた。


 


ミレイユは、

荷造りの手を止める。


 


「……はい」


 


小さく返事をする。


 


扉が開く。


 


そこに立っていたのは、

ジークだった。


 


「夜分にすみません」


 


低い声。


 


けれどどこか、

落ち着かないようにも聞こえる。


 


ミレイユは、

少しだけ目を丸くした。


 


「珍しいですね」


 


今の彼女は寝巻姿だった。


 


薄い生成り色のワンピース。


 


長い金髪は下ろされたまま。


 


いつもの姿ではない。


 


ジークは、

部屋へ入った瞬間――僅かに息を止めた。


 


がらんとしていた。


 


窓辺を埋め尽くしていた植物達。


 


吊るされていた鉢。


 


床いっぱいに並んでいた苗。


 


全部、

なくなっている。


 


静かな部屋だった。


 


ジークは、

ゆっくり周囲を見渡す。


 


「……随分、

すっきりしましたね」


 


その声は、

思ったより掠れていた。


 


胸の奥が、

妙に苦しい。


 


本当に。


 


終わるのだと、

突きつけられた気がした。


 


ミレイユは、

小さく笑う。


 


「お借りしていた部屋ですもの」


 


ベッドの端へ腰掛けながら、

困ったように肩を竦める。


 


「散らかしたまま、

お返しはできません」


 


沈黙。


 


窓の外では、

虫の音だけが聞こえていた。


 


やがて。


 


ジークが、

ぽつりと呟く。


 


「……明日ですね」


 


「そうですね」


 


短いやり取り。


 


それだけなのに。


 


胸が痛かった。


 


ジークは、

ゆっくり拳を握る。


 


言いたいことは、

山ほどあるはずなのに。


 


何一つ、

言葉にならない。


 


だから代わりに。


 


ぽつりと零す。


 


「貴方のおかげで、

住人達は読み書きを覚えました」


 


ミレイユが、

少しだけ瞬きをする。


 


「貴方のおかげで、

多くの者が外の世界を知りました」


 


「貴方のおかげで、

子供達は未来を語れるようになった」


 


静かな声だった。


 


「……辺境は、

変わりました」


 


ミレイユは、

くすくすと笑う。


 


けれど。


 


その笑顔は、

少しだけ泣きそうだった。


 


「なんですか突然」


 


小さく首を傾げる。


 


「そんなお世辞を言いに来たんですか?」


 


ジークは、

答えられない。


 


違う。


 


そんなことを、

言いたかったわけじゃない。


 


でも。


 


本当に言いたいことほど、

喉につかえて出てこなかった。


 


沈黙が落ちる。


 


長い沈黙だった。


 


やがて。


 


ミレイユが、

ぽつりと笑う。


 


「……夜中に突然、

貴方が部屋へ来ることなんて」


 


窓の外を見る。


 


「もう、

生涯ないのでしょうね」


 


その声は、

冗談みたいに軽かった。


 


けれど。


 


少しだけ、

震えていた。


 


「それが、

少し寂しいと思ってしまいます」


 


ジークの胸が、

ぎり、と痛む。


 


ミレイユは、

自嘲するように笑った。


 


「私は、

クロヴィス様のおかげで」


 


静かな声。


 


「ここで自由を得ました」


 


脳裏に浮かぶ。


 


泥だらけの日々。


 


笑い声。


 


土の匂い。


 


畑。


 


牛舎。


 


皆で過ごした十年。


 


「本来なら、

許されないことなのに」


 


ミレイユは、

小さく目を伏せる。


 


「明日からは、

本来通り」


 


寂しそうに笑った。


 


「監視のもとで暮らします」


 


その瞬間。


 


ジークの中で、

何かが切れた。


 


「……じゃあ」


 


低い声。


 


ミレイユが、

ゆっくり顔を上げる。


 


ジークは、

真っ直ぐ彼女を見ていた。


 


「今日だけは、許してください」



ミレイユは意味が分からなかった。



「……何をですか?」



ジークは答えなかった。



ただ、一歩だけ近付く。



そして――。



ぐい、と腕を引いた。

 


ミレイユの身体が、

大きく揺れた。


 


気づけば。


 


強く、

抱き締められていた。


 


「……っ」


 


ミレイユの目が、

大きく見開かれる。


 


広い胸。


 


聞こえる鼓動。


 


熱い体温。


 


ジークの腕は、

震えるほど強く彼女を抱き締めていた。


 


「離したくない」


 


掠れた声。


 


「離れてほしくない」


 


肩へ額を押し付ける。


 


苦しそうな呼吸。


 


「ずっと一緒にいてほしいっていう、

我儘に」


 


震える声だった。


 


「今日だけ、

付き合ってもらいます」


 


ミレイユは、

数秒呆然としていた。


 


やがて。


 


ふっと、

小さく笑う。


 


「……意味がわかりません」


 


掠れた声。


 


けれど。


 


彼女の手は、

そっとジークの服を掴んでいた。


 


ジークも、

苦しそうに笑う。


 


「大丈夫です」


 


低い声。


 


「自分でも、

意味がわかりませんから」


 


ミレイユは、

くすりと笑った。


 


涙を堪えるみたいに。


 


「貴方らしくありませんね」


 


すると。


 


ジークは、

彼女を抱き締めたまま。


 


耳元で、

静かに囁いた。


 


「……いえ」


 


長い沈黙。


 


そして。


 


「昔から、

貴方のことになると」


 


掠れた声が、

夜へ溶ける。


 


「ずっと、

おかしかったですよ」

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