山が荒れる前に
翌朝。
バンディア公爵邸の食堂には、
静かな空気が流れていた。
窓から差し込む朝日。
焼きたてのパンの香り。
温かなスープの湯気。
いつもと変わらない朝――のはずだった。
だが。
食卓の空気は、
妙に重い。
原因は明白だった。
食堂の上座。
クロヴィスが、
無言で紅茶を飲んでいる。
ただそれだけ。
ただそれだけなのに、
空気が重い。
使用人達ですら、
どこか緊張していた。
そんな中。
ミレイユが、
そっと隣のジークへ顔を寄せる。
「ねぇ」
小声。
「なんか今日、
空気重いわね」
ジークの肩が、
ぴくりと揺れた。
やめろ。
その顔が言っている。
だがミレイユは止まらない。
「絶対何かあったわよね?
あーあ、虫の居所が悪いなら
紅茶ではなくて、ホットミルク飲めばいいのに……」
ジークは、
無言で視線を送った。
黙れ。
頼むから黙ってくれ。
そんな必死の訴え。
だが。
ミレイユには届かない。
「はぁー朝から怖いわねぇ」
こそこそ。
その瞬間。
コン。
静かな咳払いが、
食堂へ響いた。
ミレイユとジークが、
同時に肩を跳ねさせる。
ゆっくりと。
クロヴィスが、
灰色の瞳を二人へ向けた。
「食事中の私語は感心しないな」
低い声。
ジークが即座に背筋を伸ばす。
「……申し訳ありません父上」
一方。
ミレイユは、
にこっと笑った。
「ごめんなさい!」
全然反省していない。
クロヴィスは、
小さく息を吐く。
そして。
静かに口を開いた。
「……国境付近で山の伐採が進んでいる」
食堂の空気が、
少しだけ張る。
「山が荒れれば、
獣が降りる可能性がある」
「畑にも近づくだろう」
その言葉に。
ミレイユの動きが止まった。
ぱちり。
大きな瞳が見開かれる。
そして次の瞬間。
「あっ」
何かを思い出した顔。
「そうだわ」
ぽつり。
「対策忘れてたわ」
ジークが目を瞬く。
クロヴィスも、
僅かに眉を動かした。
だがミレイユは、
突然勢いよくパンを掴む。
「むぐっ」
スープ。
卵。
サラダ。
次々口へ放り込む。
「お嬢様!」
後ろに控えていたアンネが、
ぎょっとした声を上げた。
「そのように慌てて食べてはいけません!」
「んぐっ……だって時間が!」
「飲み込んでから喋ってくださいませ!」
「んんっ!」
忙しい。
食堂とは思えない騒がしさだった。
やがて。
ミレイユは、
コップの水を一気に飲み干す。
そして勢いよく立ち上がった。
「行ってきます!」
「どこへです!?」
「畑よ!」
アンネの制止も聞かず、
ミレイユはそのまま食堂を飛び出していく。
ぱたぱたぱた、と、
足音だけが遠ざかっていった。
静寂。
残された食堂で、
ジークがそっと額を押さえる。
「……また何か始めますね」
半分呆れた声。
クロヴィスは、
窓の外へ目を向けた。
朝日が、
庭を照らしている。
その光の中へ、
小さな金髪が走っていくのが見えた。
無鉄砲。
騒がしい。
常識外れ。
だが。
クロヴィスは、
ほんの僅かに口元を緩める。
「……さて」
低い声。
「今度は何を見せる」
その変化を。
隣に座るジークだけが、
静かに見つめていた。




