平和が崩れる音
夕暮れだった。
バンディア公爵邸の執務室には、
重たい沈黙が落ちている。
机の上には、
数枚の報告書。
そのうちの一枚へ、
クロヴィスは静かに目を落としていた。
灰色の瞳が、
ゆっくり細められる。
「……山を切り開いているだと」
低い声。
部屋にいた側近が、
緊張した面持ちで頷いた。
「国境付近です」
「ここ数ヶ月、
急速に伐採が進んでいるとの報告が」
クロヴィスは、
無言で地図を見る。
国境沿い。
深い山脈。
本来なら、
容易に人が踏み入れられる場所ではない。
だが。
赤い印は、
確実に増えていた。
「……なぜ今だ」
ぽつりと漏れた声。
隣国――ラウゼン国。
長年、
大きな動きはなかった。
互いに睨み合いながらも、
均衡を保っていたはずだ。
それなのに。
今になって、
山を切り開き始めた。
理由が読めない。
資源か。
軍道か。
それとも。
別の何かか。
クロヴィスは、
静かに目を閉じる。
山が壊れれば、
獣が降りる。
食料を求めて。
住処を失って。
それはつまり。
辺境が荒れるということだ。
牛が襲われるかもしれない。
畑が荒らされるかもしれない。
人が死ぬかもしれない。
辺境は、
国の最前線だ。
王都の貴族達は、
この土地を“田舎”と呼ぶ。
だが違う。
ここが崩れれば、
国境が崩れる。
食料も。
物流も。
民も。
全てが揺らぐ。
クロヴィスは、
ゆっくり立ち上がった。
窓辺へ歩く。
夕陽が、
辺境の畑を赤く染めていた。
そこには。
泥だらけの二人の姿。
ミレイユとジークが、
何やら言い争いながら畑を世話している。
「だからそこは踏まないでください!」
「踏んでません!」
「踏みました!」
「言いがかりです!」
騒がしい。
だが。
不思議と、
その光景には温かさがあった。
去年の冬。
死者は出なかった。
辺境では、
奇跡みたいなことだった。
畑は増えた。
牛も痩せなかった。
子供達は笑っている。
村には、
少しずつ活気が戻っていた。
それなのに。
クロヴィスの胸には、
嫌な予感が広がっていく。
平和とは、
あまりにも脆い。
人の営みは。
たった一つの変化で、
簡単に崩れる。
クロヴィスは、
窓の外を見つめたまま呟いた。
「……平和が」
低い声。
夕陽が、
灰色の瞳へ落ちる。
「崩れようとしているのか」




