表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/113

命を背負うということ

その日――


 


牛舎には、

どこか落ち着かない空気が流れていた。


 


干し草の匂い。


 


温かな吐息。


 


けれど。


 


いつもより、

牛たちがそわそわしている。


 


ミレイユは、

一頭の牛の前へしゃがみ込んだ。


 


大きな黒い瞳。


 


穏やかな毛並み。


 


丸く膨らんだ腹。


 


「桜子、今日も綺麗ねぇ」


 


うっとりした声だった。


 


隣で藁を運んでいたバルが、顔をしかめる。


 


「なんだぁ?

その変な名前は」


 


ミレイユは、

ぱっと振り返った。


 


「変じゃありません!」


 


むぅっと頬を膨らませる。


 


「桜子っぽい顔をしていたので、

わたくしが名付けました!」


 


それから。


 


牛へぎゅっと抱きつく。


 


「ねー、桜子!」


 


「モォ〜」


 


桜子が、

ゆっくり鼻を鳴らす。


 


ミレイユの顔が、

ぱあっと輝いた。


 


「可愛い〜!!」


 


完全にデレデレだった。


 


バルは、

なんとも言えない顔になる。


 


その夜――


 


静かな辺境の屋敷。


 


窓の外では、

風が木々を揺らしている。


 


ミレイユは、

ふと目を覚ました。


 


薄暗い部屋。


 


胸の奥が、

ざわざわする。


 


嫌な感覚だった。


 


ミレイユは、

ゆっくり身体を起こす。


 


「……桜子?」


 


次の瞬間。


 


ばっと布団を跳ね除けた。


 


数分後。


 


慌てて着替えたミレイユは、

廊下を走っていた。


 


すると。


 


曲がり角で、

誰かと鉢合わせる。


 


「……何をしているんですか」


 


低い声。


 


ジークだった。


 


寝巻き姿のまま、

灰色の瞳でこちらを見ている。


 


ミレイユは、

息を切らしながら答えた。


 


「牛舎です!」


 


「……は?」


 


「桜子が心配なんです!」


 


ジークが、

眉を寄せる。


 


「こんな夜中に?」


 


「はい!」


 


即答だった。


 


ジークは、

小さく息を吐く。


 

「気のせいでしょう」


 


その瞬間。


 


ミレイユの顔が、

かっと赤くなった。


 


「気のせいじゃありません!!」


 


廊下へ、

声が響く。


 


ジークが、

少しだけ目を見開いた。


 


ミレイユは、

真っ直ぐジークを睨む。


 


「出産なんです!命なんですよ!?」


 


「もし苦しんでいたらどうするんですか!!」


 


その勢いのまま、

ミレイユは走り出す。


 


ジークは、

呆然とその背中を見た。


 


……なんなんだ。


 


どうしてそこまで必死になれる。


 


だが。


 


気づけば、

自分も後を追っていた。


 


 


牛舎へ辿り着いた瞬間。


 


ミレイユの顔色が変わった。


 


「桜子!!」


 


牛舎の中。


 


苦しそうに鳴く桜子。


 


大量の汗。


 


荒い呼吸。


 


そして。


 


見えていた。


 


後ろ脚だけが。


 


バルが、

額に汗を滲ませながら叫ぶ。


 


「逆子だ!!」


 


ミレイユが、

駆け寄る。


 


「バルじいさん!

ロープ!!」


 


「お前わかるのか!?」


 


「後ろ脚からです!!」


 


ミレイユは、

震える手でロープを掴んだ。


 


桜子が、

苦しそうに叫ぶ。


 


「モォオオオッ!!」


 


牛舎中へ、

悲鳴みたいな鳴き声が響いた。


 


ミレイユの顔が、

真っ青になる。


 


それでも。


 


逃げなかった。


 


「もう少しだよ……!」


 


ロープを握る。


 


「桜子、頑張って……!!」


 


血。


 


汗。


 


藁。


 


重たい空気。


 


ジークは、

ただ呆然と立ち尽くしていた。


 


こんな光景、

見たことがなかった。


 


やがて。


 


ずるり、と。


 


子牛が、

地面へ落ちる。


 


静寂。


 


動かない。


 


ミレイユの呼吸が、

止まった。


 


「……え」


 


震える声。


 


急いで駆け寄る。


 


子牛は、

動かなかった。


 


息をしていない。


 


ミレイユの顔色が、

真っ白になる。


 


「やだ……」


 


震える手で、

口元を拭う。


 


「お願い……!」


 


人工呼吸。


 


背中を擦る。


 


胸を押す。


 


何度も。


 


何度も。


 


「頑張れ……!」


 


「頑張れ、頑張れ……!!」


 


声が、

段々震えていく。


 


それでも。


 


子牛は、

動かなかった。


 


ジークは、

動けなかった。


 


ただ。


 


血だらけになりながら、

必死に命を呼び戻そうとするミレイユを見ることしかできない。


 


「お願い……!!」


 


涙が、ぽたぽた落ちる。


 


「起きてよ……!!」


 


バルが、静かに首を振った。


 


「……もういい」


 


ミレイユが、

ぎっと顔を上げる。


 


涙で、

ぐしゃぐしゃだった。


 


「命を諦められない……!!」


 


叫ぶような声だった。


 


バルは、

苦しそうに目を伏せる。


 


ミレイユは、

震える手を見る。


 


血だらけだった。


 


その手で。


 


ゆっくり、

顔を覆う。


 


小さな肩が、

震えていた。


 


その時だった。


 


「おい!!」


 


バルの声。


 


「母牛の様子が……!」


 


ミレイユが、

はっと振り返る。


 


桜子が、

苦しそうに呼吸をしていた。


 


身体が、

震えている。


 


「桜子!?」


 


ミレイユは、

駆け寄った。


 


その日から。


 


ミレイユは、

牛舎へ住み着くようになった。


 


水を飲ませ。


 


身体を擦り。


 


何度も声をかける。


 


「大丈夫」


 


「もう少しだからね

ずっとあなたのそばにいるよ」


 


夜も。


 


藁の上で、

桜子へ寄り添って眠った。


 


食事も、

ろくに取らない。


 


ジークは、

なぜか毎日その様子を見に来ていた。


 


理由は、

自分でもわからなかった。


 


ただ。


 


目が離せなかった。


 


命が消えていく現実から、

逃げずに向き合い続けるミレイユから。


 


そして数日後――


 


朝。


 


牛舎へ足を運んだジークは、

足を止めた。


 


牛舎中へ、

泣き声が響いていた。


 


壊れてしまいそうな声。


 


「やだぁ……っ」


 


「桜子ぉ……!!」


 


ジークの呼吸が、

止まる。


 


朝日の差し込む牛舎の中。


 


ミレイユは、

桜子へ縋り付いて泣いていた。


 


小さな身体を、

震わせながら。


 


血と涙で汚れたまま。


 


何度も。


 


何度も。


 


「ごめんなさい……」


 


「助けられなくて、ごめんなさい……!!」


 


ジークは、

ただ立ち尽くしていた。


 


何も言えなかった。


 


何もできなかった。


 


でも。


 


その瞬間。


 


初めて理解した。


 


この王女は。


 


綺麗事だけで、

命を語っていたわけじゃないのだと。


 


ミレイユは、

桜子の身体へ顔を埋めたまま動かなかった。


 


冷たくなった毛並み。


 


もう返ってこない温もり。


 


小さな指が、

ぎゅっと桜子を掴む。


 


死は、

知らないものではなかった。


 


前世でも。


 


生まれてすぐ弱ってしまう子牛を見たことがある。


 


冬を越えられなかった家畜も。


 


出荷されていく牛も。


 


何度も見てきた。


 


命は終わる。


 


そんなこと、

ずっと前から知っていた。


 


でも。


 


いつだって周りには、

大人がいた。


 


先生がいた。


 


獣医がいた。


 


父がいた。


 


誰かが判断して。


 


誰かが責任を背負ってくれていた。


 


けれど今回は違う。


 


ロープを引いたのも。


 


助けようとしたのも。


 


判断したのも。


 


全部、

自分だった。


 


なのに。


 


助けられなかった。


 


ミレイユは、

血のついた手を見る。


 


小さな手。


 


まだ子供の手。


 


命の重さを背負うには、

あまりにも小さかった。


 


「……背負えなかった」


 


掠れた声が、

静かな牛舎へ落ちる。


 


涙が、

ぽたり、と藁へ染み込んだ。


 


悔しかった。


 


苦しかった。


 


助けたかった。


 


それでも。


 


ミレイユは、

ゆっくり桜子の身体を撫でる。


 


「でも」


 


震える声。


 


それでも、

前を向くみたいに。


 


「こうやって、

私は経験を重ねていくのね」


 


朝の風が、

牛舎を吹き抜けた。


 


ミレイユは、

そっと桜子へ額を寄せる。


 


「桜子」


 


小さな声。


 


優しく。


 


愛おしそうに。


 


「愛しているわ」


 


涙が、

また零れる。


 


「私の、

大切なお友達」


 


ジークは、

ただ黙ってその背中を見ていた。


 


その小さな王女が。


 


どれほどのものを背負おうとしているのか。


 


少しだけ、

わかった気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ