逃げるな
ミレイユは、
アンネに引きずられるようにして屋敷へ戻っていた。
泥だらけのスカート。
藁のついた靴。
ほんのり牛の匂い。
王女として、
かなり終わっている格好だった。
使用人たちが、
ぎょっとした顔で道を開ける。
「ひ、姫様……!?」
「牛舎へ行かれていたそうです……」
「は……?」
ざわつく空気。
だが。
その空気より、
もっと重たいものが待っていた。
応接室。
その中央に。
クロヴィス・バンディアが、
静かに座っていた。
銀灰色の瞳が、
真っ直ぐミレイユを見る。
逃げ場はない。
アンネが、
静かに頭を下げる。
「お連れしました」
「ご苦労」
低い声だった。
感情が、
まるで乗っていない。
それが逆に、
恐ろしかった。
アンネは、
ちらりとミレイユを見る。
――ご無事を祈ります。
そんな顔だった。
そして扉が閉まる。
重たい音が、
部屋へ響く。
その瞬間。
空気が、
完全に閉じた。
ミレイユは、
そっと視線を逸らす。
……怒ってる。
すごく怒ってる。
静かなのに。
空気だけでわかる。
クロヴィスは、
ゆっくり口を開いた。
「まず確認する」
低い声。
「なぜ牛舎にいた」
ミレイユは、
小さく咳払いをする。
「……散歩です」
「散歩で搾乳はしない」
即答だった。
ぴしゃり、と。
逃げ道を潰すみたいな声。
ミレイユが、
ぴたりと止まる。
クロヴィスは、
机へ肘を置いた。
「護衛も付けず、
勝手に屋敷を出歩くな」
「お前は現在、
バンディア公爵家の庇護下にある」
「つまり」
鋭い灰色の瞳が、
ミレイユを射抜く。
「お前に何かあれば、
我々の責任になる」
重たい声だった。
まるで。
裁判でも受けているみたいだった。
ミレイユは、
むぅ、と眉を寄せる。
「ですが」
「言い訳は聞かん」
低い声が、
空気ごと叩き落とした。
「……っ」
ミレイユの頬が、
ぷくっと膨らむ。
クロヴィスは、
淡々と続ける。
「王女という立場は、
好き勝手動いていいものではない」
「守られる側には、
守られる側の責任がある」
その瞬間。
ミレイユの中で、
何かが切れた。
「どうしてですか」
空気が、
ぴたりと止まる。
クロヴィスが、
静かに目を細めた。
ミレイユは、
真っ直ぐクロヴィスを見返す。
金色の瞳が、
怒りで揺れていた。
「どうして、
民の生活を知ろうとしてはいけないのですか?」
クロヴィスは、
眉一つ動かさない。
「知るなとは言っていない」
「なら――」
「だが」
低い声が、
ミレイユの言葉を断ち切る。
「お前は守られる立場だ」
「庇護される側の人間が、
独断で動くなと言っている」
その瞬間。
ミレイユの顔色が、
変わった。
庇護。
守られる側。
その言葉が、
胸の奥へ突き刺さる。
ミレイユは、
ぎゅっと拳を握った。
「……それは」
震える声。
「知らないまま、
守られていろってことですか」
クロヴィスの目が、
わずかに細まる。
だが。
ミレイユは止まらなかった。
「綺麗な部屋にいて」
「温かいご飯を食べて」
「何も知らないまま、
“守られているから幸せですね”って笑っていればいいんですか!?」
声が、
部屋へ響く。
「そんなの……!」
ミレイユの瞳が、
強く揺れた。
脳裏に浮かぶ。
硬いパン。
泣いていた侍女。
飢えた村。
牛舎で働いていた老人の手。
「そんなの、
王じゃありません!!」
空気が、
凍りついた。
六歳とは思えない怒気だった。
ミレイユは、
肩を震わせながら叫ぶ。
「知らないから、
捨てられるんです!」
「知らないから、
踏み潰せるんです!」
「知らないから、
“仕方ない”で終わるんです!!」
沈黙。
クロヴィスは、
ただ黙ってミレイユを見ていた。
その灰色の瞳だけが、
静かに揺れている。
ミレイユは、
荒くなった呼吸を押さえながら続けた。
「わたくしは……」
小さな拳が、
震えていた。
「もう、
知らないままではいたくないんです……!」
長い沈黙。
部屋の空気が、
重く沈む。
やがて。
クロヴィスは、
ゆっくり口を開いた。
「理想を語るのは簡単だ」
低い声。
「だが現実は違う」
ミレイユが、
唇を噛む。
クロヴィスは続けた。
「守るとは、
綺麗事では済まん」
「冬を越せず死ぬ者もいる」
「飢えた末に、
隣人の食料を奪う者もいる」
「正しさだけでは、
人は生きられん」
ミレイユの肩が、
小さく震える。
クロヴィスは、
鋭い視線のまま言った。
「お前はまだ、
何も知らない」
「民を知りたいと言うなら、
まずはこの土地を見ろ」
「理想だけでは、
辺境は守れん」
静かな声だった。
だが。
それは、
怒鳴り声よりずっと重かった。
ミレイユは、
ぎゅっと拳を握る。
悔しかった。
でも。
反論できなかった。
クロヴィスは、
そんなミレイユを見下ろしたまま言う。
「それでも知りたいと言うなら」
銀灰色の瞳が、
真っ直ぐミレイユを射抜く。
「逃げるな」
その一言に。
ミレイユは、
初めて背筋が震えるのを感じた。




