それが王です。
「ルシアン様」
ミレイユが、
小さく笑った。
「面白いことを仰るのですね」
金色の瞳が細められる。
「もしわたくしなら」
「今こうして、
ルシアン様とお話しておりません」
「なるほど」
ルシアンは頷いた。
否定しない。
怒らない。
ただ。
静かに紅茶を置いた。
それだけで。
空気が変わる。
「確かに」
深緑の瞳が、
真っ直ぐミレイユを見る。
「貴方は強い」
「剣も」
「知識も」
「胆力も」
「同年代とは比較にならないでしょう」
ミレイユは黙る。
褒められている。
はずなのに。
嫌な予感しかしない。
そして案の定だった。
「ですが」
ルシアンは続ける。
「貴方は第一王女です」
静かな声。
重い声。
「王位継承権第一位」
「未来の王」
「この国の未来そのものです」
ミレイユの指先が、
僅かに動いた。
ルシアンは見逃さない。
「民を知ることは大切です」
「自分の目で見ることも大切です」
「報告書だけでは、
分からないこともあるでしょう」
そこまでは肯定する。
だから逃げられない。
「ですが」
再び。
その一言が落ちる。
「命を賭けるべきではない」
沈黙。
ミレイユが口を開く。
「ですが」
「現場を見なければ――」
「違います」
遮られた。
初めてだった。
ルシアンが。
ミレイユの言葉を遮った。
「貴方は勘違いをしています」
深緑の瞳が細められる。
「王の仕事は」
「全てを自分でやることではありません」
ミレイユが息を呑む。
ルシアンは続けた。
「見るべきです」
「知るべきです」
「学ぶべきです」
「ですが」
「地下牢へ一人で降りる必要はありません」
「人身売買組織と戦う必要もありません」
「誘拐される必要もありません」
優しい声だった。
だが。
一つ一つが重い。
「貴方が死ねば」
「教育改革も」
「備蓄政策も」
「識字事業も」
「全て止まります」
ミレイユが黙る。
ルシアンはさらに続けた。
「十人助けるために」
「百万人の未来を失う選択をしてはならない」
静寂。
部屋が静まり返る。
「それが」
「王です」
ミレイユは反論しようとした。
けれど。
言葉が出ない。
なぜなら。
ルシアンは一度も、
「行くな」
とは言っていないからだ。
「知るな」
とも。
「民を見るな」
とも言っていない。
むしろ。
全部肯定している。
その上で。
「死ぬな」
と言っている。
それだけだった。
ミレイユは、
ゆっくり視線を落とす。
ルシアンは静かに息を吐いた。
そして。
ほんの少しだけ。
困ったように笑う。
「殿下」
「はい」
「私は」
一拍。
「貴方が民を助けることに反対したことはありません」
「……」
「ですが」
深緑の瞳が、
真っ直ぐ向けられる。
「貴方まで助ける側から消えてしまっては困ります」
その言葉だけは。
政治でも。
論理でもなく。
少しだけ。
婚約者の声だった。
長い沈黙。
ミレイユは、
静かに紅茶を見つめた。
悔しい。
だが、反論はできない。
ルシアンは正しい。
だからこそ腹が立つ。
やがて。
ミレイユは顔を上げた。
「ルシアン様」
「はい」
「一つ伺っても?」
「どうぞ」
ミレイユは首を傾げる。
「もし」
「地下へ降りたのが私ではなく」
「普通の少女だったら」
ルシアンが黙る。
「その子供はどうなっていましたか?」
静かな声だった。
「売られていたでしょうね」
ルシアンは即答した。
迷いなく。
ミレイユは頷く。
「そうですね」
「私もそう思います」
そして。
金色の瞳が向けられる。
「では」
「誰が助けたのでしょう」
沈黙。
「騎士団?」
「普通あんな場所へ騎士は来ません」
「王城?」
「動く理由がありません」
「孤児院?」
「その孤児院が売っています」
静寂。
ミレイユは続ける。
「ルシアン様は正しいです」
「私は軽率でした」
「死ねば全て終わります」
「それも正しい」
小さく笑う。
「ですが」
「誰かが動かなければ」
「助からない人もいます」
ルシアンは黙って聞いていた。
「私は次期王です」
「だから生きます」
「ですが」
「民を見捨てることもしません」
金色の瞳が真っ直ぐ向けられる。
「ですので」
一拍。
「死なない方法を考えるのは」
「次期宰相であるルシアン様のお仕事では?」
沈黙。
部屋が静まり返る。
数秒。
数十秒。
やがて。
ふっ――
小さな笑い声が漏れた。
ミレイユが目を瞬く。
ルシアンが笑った。
本当に、
心の底から可笑しそうに。
「……参りました」
深緑の瞳が細められる。
「悔しいですが」
「その理屈は嫌いではありません」
ミレイユが少し得意げになる。
すると。
ルシアンは続けた。
「ならば尚更です」
「はい?」
「次期王と次期宰相は」
「手を組むべきではありませんか?」
ミレイユが首を傾げる。
ルシアンは静かに言った。
「貴方は現場を見る」
「私は情報を集める」
「貴方は民の声を聞く」
「私は制度を整える」
「貴方が前へ出るなら」
「私が後ろを固める」
その言葉には。
冗談も。
皮肉もなかった。
純粋な提案だった。
「知識を出し合いたいのです」
「この国を変えるために」
ミレイユが少し黙る。
ルシアンはそこで紅茶を口にした。
そして。
何でもないことのように言う。
「それに」
嫌な予感がした。
ミレイユは本能で察する。
今から何か来る。
「私としては」
「そろそろ婚約者らしい立場をいただきたいのですが」
沈黙。
ミレイユが固まる。
ルシアンは続けた。
「辺境公爵家嫡男から求婚され」
「王都では近衛騎士副団長と夫婦になられ」
「私は婚約者なのですが」
一拍。
「現在何番目でしょうか」
ミレイユの額に汗が浮かぶ。
まずい。
ものすごくまずい。
笑顔だった。
完璧な笑顔だった。
だが。
怒っている。
この人。
かなり怒っている。
「ジーク様の件は事故です」
「なるほど」
「レオン様の件も事故です」
「夫婦設定でしたね」
「そうです」
「王都で腕を組む事もですか?」
「それは……
夫婦設定なので……」
ミレイユの言葉が止まる。
ルシアンは紅茶を飲む。
優雅に。
実に優雅に。
「安心しました」
「……何がです?」
「いえ」
深緑の瞳が細められる。
「私だけが婚約者だと思っていたわけではないと分かりましたので」
沈黙。
痛い。
ものすごく痛い。
ルシアンは続ける。
「殿下」
「はい」
「私は」
一拍。
「貴方の理想に追いつくため努力してきました」
「……」
「貴方の隣に立てるよう勉強もしました」
「……」
「貴方が辺境を変えていた十年」
「私は王都で」
「貴方が帰ってくる日を待ちながら」
「この国を学んでいました」
沈黙。
ミレイユが目を見開く。
ルシアンは静かに笑う。
少しだけ寂しそうに。
「ですので」
「ジーク様にも」
「レオン様にも」
「負けるつもりはありません」
深緑の瞳が真っ直ぐ向けられる。
「ですが」
一拍。
「まずは婚約者として扱っていただきたいのです」
ミレイユが固まる。
完全に固まる。
ルシアンは肩を竦めた。
「婚約者なのに」
「求婚した方と競争し」
「夫婦役の方にも警戒しなければならない」
「流石に少々理不尽ではありませんか?」
初めてだった。
ルシアンが。
本当に少しだけ。
拗ねたのは。




