夫婦始めます。
出立から数日後――
王城・会議室。
重厚な扉の内側には、
張り詰めた空気が落ちていた。
長机の上に並ぶのは、
大量の資料。
食糧支援。
冬季備蓄。
識字教育。
孤児院への補助。
そして。
王都下町の実態調査。
老貴族の一人が、
面倒そうに資料を閉じた。
「……第一王女殿下」
低く、
疲れた声だった。
「そんなに急がなくても、
よろしいのでは?」
「改革というものは、
段階を踏むべきです」
周囲の貴族達も、
静かに頷く。
だが。
ミレイユは、
一切怯まなかった。
金色の瞳が、
真っ直ぐ前を見る。
「急がねばなりません」
静かな声。
「一刻でも早く、
民を助けなければならないのです」
「今この瞬間にも」
「お腹を空かせている子供がいます」
会議室が、
ぴんと張り詰める。
ミレイユは、
資料へ手を置いた。
「飢えは、
春を待ってはくれません」
「寒さは、
予算審議を待ってはくれません」
「文字を読めない者は、
契約書一枚で人生を奪われます」
「手遅れになってから救うのでは、
遅いのです」
「ですが、
現在の売上金だけでは足りません」
静かな声だった。
会議室の空気が、
ぴたりと止まる。
ミレイユが、
ゆっくり顔を上げた。
金色の瞳は、
真っ直ぐ前を見据えている。
王室主導で始めた、
加工保存事業。
果実を使ったジャム。
乾燥野菜。
薬草茶。
辺境で学んだ保存技術を利用し、
利益も出ていた。
だが。
教育制度改革。
備蓄倉庫増設。
地方支援。
全部を同時に進めるには、
まだ足りない。
老貴族が、
面倒そうに口を開く。
「だからこそ、
急ぎ過ぎだと言っているのです」
「改革には順序が――」
その時だった。
「では」
静かな声。
会議室が、
凍り付く。
ミレイユが、
にこりと笑った。
それが。
何より怖かった。
「足りない分は、
去年社交界へ流れた宝飾費を削りましょう」
沈黙。
数秒遅れて。
「なっ――!?」
悲鳴のような声が上がった。
老貴族達が、
一斉に顔色を変える。
だが。
ミレイユは止まらない。
「去年、
王都貴族街で流通した宝飾費は」
「地方三都市の冬季備蓄を、
賄える規模でした」
「舞踏会を一度減らせば」
「識字教材を増産できます」
「宝石を一つ減らせば」
「冬を越せる子供が増えます」
静かな声。
だが。
刃みたいに鋭かった。
「それとも」
ミレイユは、
ゆっくり首を傾げる。
「民は飢えたまま」
「我々だけが、
宝石を纏うべきでしょうか?」
誰も、
答えられない。
ミレイユは、
笑顔のまま資料を閉じた。
「通します」
その一言で。
会議室の空気が、
完全に支配された。
数時間後――
会議室を出たミレイユは、
長い息を吐いた。
「……通りましたね」
隣を歩くレオンが、
少し呆れたように言う。
「無理やり通した、
の間違いかと」
「必要なことです」
ミレイユは、
涼しい顔で返す。
だが。
その足取りは、
どこか早かった。
廊下を歩きながら、
ミレイユはぽつりと呟く。
「でも、
資料だけでは足りませんね」
レオンが、
目を向ける。
ミレイユは、
窓の外に広がる王都を見下ろしていた。
白い街並み。
賑やかな大通り。
だが。
その奥にある路地裏までは、
ここから見えない。
「報告書に書かれた数字は、
あくまで数字です」
「実際に、
何が足りないのか」
「誰が困っているのか」
「どこで食べ物が止まり」
「どこで金が消えているのか」
金色の瞳が、
静かに細められる。
「見なければ、
わかりません」
レオンは、
嫌な予感がした。
ものすごく。
嫌な予感がした。
「……殿下」
「まさかとは思いますが」
レオンの声は、
既に疲れていた。
だが。
ミレイユは、
にこりと笑う。
その瞬間。
レオンは確信した。
ああ。
これは絶対に、
止められないやつだ。
「レオン様」
「はい」
「わたくしと」
そこで一度、
言葉を切る。
そして。
満面の笑みで言った。
「夫婦になりませんか?」
廊下が、
凍った。
「…………は?」
レオンの声が、
見事に裏返る。
近くを歩いていた侍女が、
がしゃんっと盆を傾けた。
警備騎士が、
勢いよく振り返る。
空気が完全に、
「聞いてはいけないものを聞いた」
になっていた。
だが。
ミレイユ本人だけは、
至って真剣である。
「夫婦です」
「聞き返さないでください」
「聞き返しますよ!?」
レオンが、
思わず一歩下がった。
「なぜ今!?」
「なぜ私!?」
「なぜ夫婦!?」
ミレイユは、
不思議そうに首を傾げる。
「レオン様は、
背が高いですし」
「剣も扱えますし」
「顔も悪くありません」
「悪くありません!?」
褒めているのか、
雑なのかわからない。
ミレイユは、
さらに続ける。
「それに」
少しだけ声を潜めた。
「わたくしが一人で降りれば、
どうしても目立ちます」
「ですが夫婦なら」
「市場にいても、
自然でしょう?」
その瞬間。
レオンの思考が、
ぴたりと止まった。
数秒後。
ようやく理解する。
この人。
王都へ降りる気だ。
視察ではない。
護衛を並べ。
店主達が事前に掃除した通りを歩き。
“用意された民の声”を聞く、
あの茶番ではない。
ただの民として。
人混みに紛れて。
泥臭い路地裏を歩き。
市場の値段を見て。
パンの重さを確かめ。
本当の王都を見る気なのだ。
レオンは、
頭を抱えた。
「……殿下」
「はい」
「それは、
夫婦である必要がありますか?」
「あります」
即答だった。
「恋人では駄目ですか」
「距離感が難しいです」
「兄妹では」
「顔が似ていません」
「主従では」
「護衛に見えます」
全部、
妙に納得できる理由なのが腹立たしい。
「では何故、
私なのですか」
ミレイユは、
真顔で答えた。
「レオン様なら」
「巻き込んでも、
最終的に許してくださりそうなので」
「怒っています」
「そうですか」
「はい」
「では」
ミレイユが、
にっこり笑う。
「怒りながら、
夫婦になってください」
「なりません!!」
廊下へ、
レオンの悲鳴が響いた。
だが。
ミレイユの瞳は、
もう完全に王都へ向いている。
市場。
路地裏。
職人街。
孤児達が集まる場所。
食材の値段。
薪の流通。
文字の読めない民が結ばされる契約。
全部。
自分の目で見たい。
その目は、
本気だった。
レオンは、
深くため息を吐く。
「……殿下」
「はい」
「夫婦役なら」
「ジーク様や、
ルシアン様へ頼めばよろしいのでは?
ジーク様に関しては、公開の場であれほど宣言された方がいるというのに、私では立場がありません」
その瞬間。
ミレイユが、
真顔になった。
「ルシアン様は、頭が硬そうですし、
何より公開求婚の件もありますので、
会いたくありません」
即答だった。
「ジーク様は辺境です。
今回は潜入のためですので、そういった意味合いは必要ありません」
それもそうだ。
ミレイユは、
ゆっくり視線を動かす。
そして。
ぴたりと、
レオンを見る。
にこり。
ものすごく嫌な笑顔だった。
「あら?」
「ここに」
「頭も柔らかく」
「わたくしの隣に、
ちょうど良くいる殿方が」
レオンの背筋へ、
ぞわりと悪寒が走る。
「待ってください」
「それが理由ですか?」
「人選理由が雑では?」
「気のせいです」
即答だった。
ミレイユは、
そのままレオンの腕を引く。
「さぁ」
「行きますよ」
「あなた」
レオンの顔が、
死んだ。
近くを通った侍女が、
息を呑む。
騎士が、
とんでもないものを見た顔をする。
だが。
ミレイユは、
堂々と言い放った。
「これは」
「ラブラブ夫婦潜入調査です」
レオンは、
死んだ目で天井を見上げた。
そして。
心の底から思う。
辺境の英雄が命懸けで守り。
宰相家嫡男が振り回され。
王城中の貴族達が頭を抱える。
この国を変える第一王女は――
今日もやっぱり、
盛大に何かがおかしかった。




