第20話:Open Arms(50年越しの思い)
午前5時。
JASA最高責任者、真の執務室は、静寂に包まれていた。
さっきまで繰り広げられていた修羅場が、まるで嘘だったかのように。
真は、執務デスクの奥で、椅子に深く身を沈めていた。
右の頬はどす黒く腫れ上がり、脈打つたびに鋭い痛みが走る。医療AIが提案するナノマシンによる修復を、真はすべて黙殺していた。この「痛み」だけは、今消してはならないと、本能が命じていた。
静寂を切り裂くように、一人の女性が飛び込んできた。
音響更生センター主任、実の妹である紗江。彼女は肩で息をし、乱れた髪を直すこともせず、兄の前に立った。周囲の警備員が制止しようと動くが、真はわずかに指を動かしてそれを止めた。
「……お前も、俺を説教しに来たのか...? 紗江。」
真の声は、鉄心に殴られ上手くしゃべれないせいか、ひび割れた陶器のように脆く震えている。
紗江は何も答えなかった。そして、大切に抱えていた小さな紙袋をデスクの上に置いた。
「……父さんから。……真兄さんに渡してって。」
真はいぶかしげに、だが抗えない力に引かれるようにして、その袋の口を開けた。
中から出てきたのは、丁寧に梱包された小さな木箱だった。
蓋を開けると、そこには数枚の薄い板――天然のケーン(葦)で作られたアルトサックス用のリードと、黒檀のリードケースが収められていた。
2026年の世界からタイムスリップしてきたそれは、2076年では入手困難となっている貴重な一品。
触れると、指先の熱を吸い込むような、生々しい質感があった。
「……何のつもりだ。今更、こんなものを……」
「私たちは、いつからこんな歪な家族になったの...?」
真の脳裏に、嵐のようなフラッシュバックが巻き起こった。
2026年。彼が念願の音大に合格し、ついにサックスパートのリーダーを任されたあの春。
父・鉄心は、仕事や趣味のライブ活動の時間の合間を縫っては、クラシックを志す息子の晴れ舞台には駆けつけてくれていた。当時の真はそれについて何とも思っていなかったが、どれほど大変だったか今になっては容易に想像がつく。
ふと紙袋の底に目をやると、もう一枚、古びたメモ用紙が張り付いていた。
走り書きされた、乱暴で、それでいて迷いのない筆跡。
『真、どうやらパートリーダーになったらしいな。餞別だ、受け取れ。それから、誕生日おめでとう。
昔みたいに、たまには俺のライブも観に来いよ。』
真の喉の奥が熱くなる。呼吸をしようとするたびに、言いようのない苦しさとこみ上げる何かが邪魔をいていた。
「……出ろ。……全員、ここから出ろッ!!」
真は叫んだ。紗江が、逮捕の取り消しを叫び、鉄心の解放を訴えたが、真は二度と顔を上げなかった。警備員たちが紗江を連れ出していく間際まで、彼女の叫びが響いていた。
ーーーー
一人になった執務室。
朝焼けが、窓ガラスを真っ赤に染め上げている。
見下ろす街にまばらな明かりが灯り始め、始発電車はどこかの誰かを乗せてゆっくりと流れていった。
「……父さん、俺は…本当は…あんたみたいに、かっこよくありたかった...。」
窓ガラスに額を押し付け、真は呻いた。
50年前、突然消えた父。残された者たちの絶望と、癒す術のない心の痛み。
「でも、恥ずかしかったんだ……。あんな、汗臭くて、うるさくて、世間から時代遅れだと非難されている音楽に命を懸けてるアンタが……大っ嫌いだった!」
けれど、その「嫌悪」の正体を、真は知っていた。
誰よりも音楽にひたむきで、誰よりも音楽を心から楽しんでいた父の背中。それを見て育ったからこそ、自分もサックスを手に取ったのだ。父に認めてほしかった。父のギターに負けない、自分だけの「音」を聴かせたかった。
JASAの「平坦な周波数」。それは、真が自分自身を守るために作り上げた、心のバリケードだった。父を失った喪失感を埋めるために、世界から「感情を揺さぶる音」を消し去ろうとした。それが、真にとっての唯一の、そして歪みきった「父への愛」だった。
50年分、いや、これまで重ねてきた歳の分と言っていいほどの、心のうちを吐き出した真は、
デスクの通信パネルを指でなぞった。画面には、システムが自動生成した「不適合者(少女)」への最終処置実行コマンドが表示されている。
真は、そのボタンを見つめた。そして、腫れ上がった頬をさすり、マイクに向かって告げた。
「……秘書官、通達だ。佐々原鉄心の逮捕は一切秘匿せよ。処遇は明日、私が独断で決定する。……それから、更生センターの不適合者、検体番号107号のファイナル・プロトコルは中止。従来通りのトレーニングを継続させる。」
「……会長? しかし、それでは秩序が……」
「……これは命令だ。……下がれ。」
通信が切れる。真は、朝焼けの光を反射する窓ガラスに、自分の顔を映した。
そこには、JASAの絶対的なリーダーの姿はなかった。ただ、50年前の誕生日プレゼントを握りしめ、ボロボロに涙を流している、一人の「息子」がいるだけだった。
「……明日...か。」
真は、デスクに置いたリードケースを見つめる。
「明日」になれば何かが変わるのかは分からない。
実際、この判断が正しいかどうかは、どうでも良かった。ただ、頬の痛みは、先ほどよりも少しだけ、誇らしく感じられていた。
「本気で殴りやがって...。どんな処分を下してやろうか...。」
真は不器用に笑う。昔、鉄心が車の中で裏返りながら熱唱していた「Open Arms」を口ずさみながら。
読んでいただきありがとうございます。
今回はJourneyの名曲『Open Arms』をテーマにしました。
日本でも海猿などのテーマ曲になっているくらい有名な曲です。是非聴いてみてください。
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