5
太陽の意匠の重厚感のある扉を押し開ける。真っ先に視界に飛び込んだのは銀の少年と金の少女が向き合う姿。
少年の右腕がついと胸の高さまで上げられ、その指先に銀の魔力光を宿すのを見て、床に転がる死体の間を駆け抜けたヴェインはそのまま飛び込むような形で金髪の少女を引っ攫った。
つい先程までリーファがいた場所で収束した光が無数の突起を纏った氷の球を生み出す。獲物を取り逃がした事で即座に術式を再構築させたのか、次いでその突起が矢のように四方八方に撃ち出された。ヴェインはリーファを抱え込んだまま架台の反対側の陰に身を隠す。壁や架台などにぶつかって太い氷の矢が砕ける硬質な破砕音が室内の至る所で鳴り響いた。
「――どういう状況だ?」
推測するよりは当事者に話を聞いた方が早い。険しい表情で辺りを飛び交う氷矢を窺うヴェインの声にはっとして、リーファが戸惑いに泣きそうな顔をして問いを返す。
「…ど、どうして此処に?」
「聞かれた事に答えろ」
恫喝めいて低く言うと、リーファは震える声で辿々しくも経緯を話し出した。今一要領を得ないしどろもどろな説明を聞く間にも破砕音は続く。盾にした架台の近くに着弾した氷塊が粉々に砕け散り、破片が跳弾のように脇を通り過ぎた。リーファが息を呑むような悲鳴を洩らし、架台を透かして向こうに立っている筈のゼラを見ようとするように、怯えた視線を其方へ向ける。
リーファの話を聞き終え、ヴェインは今何が起こっているのかを大まかに理解した。朗々と紡ぎ上げられる詠唱にリーファの腰に腕を回して彼女を引っ掴み、架台の裏から転がるように飛び出す。直後、近距離で発生した閃光と爆音に視界が白く眩み、鼓膜がびりびりと痺れた。
「何故、邪魔をするの?」
以前に大嫌いだと語っていた〝帝銀〟を現したゼラがヴェインを睥睨する。慈悲など破片すら存在しないような、冷たく凍り付いた暗い眼差しだった。
聞き慣れた声。見慣れた容姿。だが、其処にいるのがゼラではない事をヴェインは正しく察知していた。
完全に姿を消した太陽に代わって、天井の硝子板からは清冽な月光が降り注いでいた。〝彼女〟は頬に触れた月の光に清かに輝く銀の髪を耳に掛ける。ゼラとは全く異なる、たおやかで女性的な仕草で。
「………そう。貴女も、私を裏切るのね。グレイス」
ヴェインと祖を混同しているのだろうか。ゼラの声が生涯に渡ってその側仕えを務めた騎士の名でヴェインを呼ぶ。銀の瞳が哀しげに伏せられたが、最早息をする事すらも満足に出来ないような悲痛なその面持ちは何かを振り払うような瞬きの後で掻き消えた。
訣別の意思を秘めた凄艶な微笑がその面に浮かぶ。押し寄せる胸苦しい程の威圧感に晒される中、微笑むその表情が却って鮮明にする悲嘆がヴェインの胸奥を微かに疼かせた。しかしヴェインは腰に帯びた二振りの内の、長剣ではなく短剣の方を抜いてゼラと――いや、ゼラを押し退けてその器を支配したエウリカと対峙した。
「…え?…ヴェ、ヴェイン?」
ゼラと敵対するような行動にリーファが混乱してヴェインを仰ぐ。ヴェインはすぐに反応に移れるようエウリカを注視したままリーファに言った。
「落ち着いて聞け。あれは今、ゼラじゃない。お前相手にも容赦はしないだろう。命が惜しければ何処かに隠れていろ」
「え?…待って、何が……どういう事なの?」
ゼラが過去に取り込んだエウリカの魂に身体を乗っ取られている状態である事をヴェインは簡潔に説明し、リーファに退避を促した。だがエウリカには憎い〝金〟の血族を見逃してやる気など無いようで、ヴェインとリーファを素気なく一瞥すると細い指で魔術の印を組んだ。
詠唱と同時にエウリカの眼前には術式の構成を司る図形が独りでに生じ始めた。手本があったとしても正確に描くのは困難な複雑極まる図形を象り虚空を走る銀の魔力光は、見知ったゼラのそれよりも鮮麗な光を発していた。強いて譬えるなら、ゼラの魔力が生じさせる光が夜天を流れ行く銀漢のさざめくような光彩だとして、エウリカのものは夜闇の隅々までを照らして皓々と映える、望月の眩いばかりに輝く白銀の光明。詠唱に伴う圧迫感も其処に込められた魔力も、ヴェインの知る通常のゼラのものとは桁違いだった。
詠唱の最後に一度胸元へ引かれた腕を緩やかに突き出すエウリカ。掌の中心で収束した銀光が白金の雷光へと形を変え、迸る。激烈な雷撃を前にリーファが恐怖に竦んで、反射的に両腕で前面を庇うようにしながら蹲る。
ヴェインは手にした短剣で襲い来る雷撃を受け止め、その雷を構成する魔力を触れた刀身でいなす。力の流れの変化した雷撃はヴェインが短剣を一振りするとその切っ先が振り抜かれた方へと軌道を変えて進み、床に衝突して激しい雷花を散らせた。
尋常ならざる魔力を持って生まれたエウリカ。彼女はその力の大きさ故に、意図せずして魔力の暴走を引き起こす事が多々あったという。エウリカとは主従でありながら親友のような間柄でもあったと伝え聞く先祖グレイスは、その幼少の砌からエウリカと真摯に向き合い続けて来た、たった一人の人間だった。望むと望まぬに拘わらず自他を傷付けてしまう、人間の身には過ぎた魔力を有する主を案じる彼女の想いは、受けた魔力をそのまま他方へ受け流す技へと昇華し、その子孫に唯一無二の剣術として残されていた。
時にはエウリカ自身をも傷付けてしまう暴走する魔力を一身に引き受け、いなし、被害を最小に喰い止める。その為の技をこうしてエウリカと戦う為に用いるのはグレイスの想いを踏み躙る事に等しかったが、ヴェインは己が決意に則ってエウリカに刃を向ける。エウリカは其方へ向けられた短剣の先端をじっと見つめ、小さく首を振った。
「…皆、私が嫌いなのね。あの人も、あの子も。…貴女も」
食い縛るように結ばれた口許。ヴェインとその後ろにいるリーファを睨む銀の双眸は湛えられた涙で濡れている。
「好きでこんな風に生まれ付いた訳じゃないのに。どうして、皆は私を嫌うの?私が悪いの?私が駄目だから、皆私から離れてゆくの!?」
エウリカは溢れる涙もそのままに、愛情から反転した狂おしい程の憎悪を振り絞るように叫ぶ。
「私はただ、認めて欲しかっただけなのにっ!家族として、友として――私を私として、受け入れて…愛して欲しかっただけなのに!他には、何も望まなかったのに―――っ!!」
魔術ではない言葉が響き、悲鳴染みて世界を揺るがした。それは〝銀の魔王〟と呼ばれ広く恐れられた、しかし一人の人間であった彼女の、血を吐くような感情の吐露だった。
望んでも得られぬ肯定を欲して。幾度背を向けられてもいつかはきっと受け入れてもらえると信じて、求め続けて。それなのに、漸く手に入れたように思えた幸せにさえも裏切られた。
強大過ぎる力を恐れられた末に愛する者に殺され、冥府での安息さえも許されずにその魂を亡骸に封じられたエウリカ。我と我が身を呪い、その生涯に付き纏う酸鼻を極める悲劇の影に嘆き、ならばいっそ己の望みも含めて全てを壊してしまえばいいと決意するに至った、その悲痛。
もう見限ってしまいたいのに、それでも何処か諦め切れない心を自ら断ち切ろうとするような、胸が割れるような感情の爆発。決して癒えぬ傷口から噴き出した真新しい血の如きエウリカの痛ましい叫びが響き、そして、その声は室内の静寂に呑み込まれてゆく。
「……でも、もういいの。私だって、皆、嫌い。要らないなら、要らないもの…」
項垂れたエウリカは己に対して言い聞かせるように呟いた。厭う銀の髪の陰に隠れたその表情は薄闇に紛れて見えない。彼女はゆっくりと右腕を真横に伸ばし、床と水平に持ち上げる。
エウリカの叫びに柔い心を貫かれたのか。呼吸の有無すら疑わしいくらいに微動だにしないリーファ。その様子からして、逃げるよう促すのは難しいだろう。ヴェインは仕方無くリーファを背中に庇うように立ち、ゼラの姿をしたエウリカを正面に捉えて身構えた。
手の中にある短剣の、質量ではない重みを思ってヴェインはエウリカを、ゼラを見据える。不意に胸裡を過ったあの酷く寂しげな微笑に重なって、この短剣をフェルキースから預かった際の彼の言葉が耳の奥で蘇った。
「もしも兄上がエウリカの意識に完全に呑み込まれる事があれば、私が許す。お前がこの短剣で兄上を殺せ」
ゼラの与り知らぬところで行われた密談。フェルキースは手ずから特殊な魔術を付与した一振りの短剣をヴェインへと渡し、素気無いくらい淡泊に命じた。
「これはお前にしか任せられない大事な役目だ。…どうやら兄上は、お前にひとかたならぬ思い入れがあるらしい。なら兄上はきっと、どんな死地にあろうとも必ずお前を自分より先には死なせまい。仮令お前がどんなに死を欲していようがな。だからこその適任だ。兄上の意識がエウリカに押し負けるとすれば、それは兄上が極限まで追い詰められた時に他ならないだろうからな」
事務的にそう言ってフェルキースはいつものように机に脚を乗せ、腿の上で両手の指を組んだ。ヴェインに有事の際は迷わず兄を殺せと命令するその色違いの眼には、躊躇いの色は微塵も見当たらなかった。
封印の術式の込められたこの刃を心臓へと突き立てる。そうすれば、ゼラごとエウリカをその肉体に封じ込める事が出来る。その気になれば国一つくらい容易く滅ぼせるだろう力を持つエウリカは、今や金も銀も無関係にこの世の全てを憎んでいる。そんな彼女を野放しには決して出来ない。
黒の軍服を纏う華奢な腕から放たれた闇色の炎に、ヴェインは封じの短剣を手に真っ向から突っ込んで行く。弾いた炎が石床を黒く焦がして散じる。次の魔術が完成するまでの間にヴェインは一気に間合いを詰め、逆手に握った短剣で牽制の為に下から斜めにエウリカを斬り上げる。
硝子を引っ掻いたような感触がした。澄んだ硬音が耳鳴りのように空気に谺する。刃から腕に伝わる手応えが其処に不可視の壁の存在を告げていた。いつの間に展開したのか、物理障壁で斬撃を防がれたヴェインは嗅ぎ取った別の魔術の匂いに跳び退る。
ヴェインが下がると同時に太い帯状の銀の光が空を奔った。一瞬にして鼻先に達するような速度に咄嗟に短剣を顔の前に掲げて魔術を受け止める。だが他方へ流そうにも短剣を支える両腕に重さとして感じるその凄まじい威力は、力の方向を切り替える隙をヴェインに与えない。
その場に留まろうとするが、足下がじりじりと圧されてゆく。憎悪に取り憑かれたエウリカが発動中の術式に更なる魔力を上乗せする。
「…くっ!」
持ち堪えられなくなったヴェインは素早く脇へ転がり、光の軌道上から逃れた。だがヴェインが体勢を立て直す極短い間にエウリカは次なる術式の構築を終えていた。
さようなら。微かに哀悼を帯びたようなエウリカの瞳がヴェインを見つめて言う。ぱちん、と鳴らされた指を発動の合図にし、長剣や短剣、槍や斧などの武器を象った十数本もの晶石の刃がヴェインの頭上で放射状に広がり回転する。
互い違いに二重の円を成して周りを囲む刃によって退路は断たれていた。月光を透かして煌めく透明な青が、怖気を震う程に美しい。
晶石の刃達を操るエウリカが湛えていた凄艶な笑みが、ふと抜け落ちるように消え去る。ただ静かに目を閉じるその様が、大切な人を送る為の厳かな葬送の場を思わせた。
絶望の底で振り絞ったような叫び声は、その声に満ちる悲しみの余りの大きさに聞いているだけで此方の心が壊れるかと思った。リーファは瞬き一つせずに、ゼラの姿をした、けれどもゼラではない存在を見つめていた。
――好きでこんな風に生まれた訳じゃない。
悲痛に過ぎる魂からの絶叫に覚えたのは共感。だが、それよりも強かったのは同情だ。
望んだ覚えなんて無い。自分で選ぶ事が出来た筈も無いのに、たかが髪と瞳の色如きでどうして彼処まで苦しまなくてはならないのか。
〝彼女〟は長い間悩み苦しんだ末に、全てに背を向けたのだろう。悲しかった。我が事のように。切なかった。もう無理だと解っていてもまだ心の奥に在るのだろう、どうしても諦め切れないが故のその苦悩が。
ヴェインが短剣を構えてゼラに、〝彼女〟に向かって行く。駄目だと止めたかった。あなたまでそんな風に敵対を示したら〝彼女〟が可哀想だ。だって〝彼女〟は、心の奥底ではまだ〝あなた〟を信じていたいのに――。
ヴェインを見つめる硝子玉のような瞳の裏側で、エウリカが目前の希望に縋り付こうとする自らの感情を殺そうとしているのがリーファには判った。判っているのに、動けなかった。先に向けられた剥き出しの、苛烈な憎悪が酷く恐ろしくて。
エウリカが紡ぐ韻律がその柔らかな声音とは対照的に重く暗く鼓膜を浸食する。其処に込められた魔力の強さと蟠る闇の深みから立ち上るようなどろどろの殺意は、空気を介して触れているだけでリーファの心を削ってゆくようだった。
出来る事ならばこの場から逃げ出してしまいたいのに、まるで他人のものになってしまったかのように身体が思う通りにならないのがもどかしかった。せめてこの威圧感の主を直視したくなくて、リーファは這い蹲るように瞳を動かした。
「―――っ」
逃げ出した視線の向こうに、アルターがいた。側で繰り広げられる戦いの喧噪などもう聞こえていない弟はすやすやとよく眠っているかのようで、静かに架台の上に横たわっている。
先刻あれだけの氷矢の猛攻に晒されたというのに、アルターの遺体には奇妙にも掠り傷すら付いてはいなかった。だがそれを訝る気持ちは浮かばない。アルターの姿を見た瞬間、リーファの胸中にはある一つの想いだけが広がっていたからだ。
可愛い弟。私の、心の支えだった。寂しい時も悲しい時も、この金の色を疎んだ日々も、あの子がいたから平気だった。いつだって側にいて、温かな幸せを感じさせてくれた。
少し離れた壁面に直撃した銀の光の帯が、振り返ったリーファの視界を灼いた。眩んで一瞬真っ白になった景色が元に戻り、リーファは晶石の刃達に取り囲まれているヴェインを見た。
ヴェインの強さは目にして知っていたが、仮令彼女であってもあれはとても躱せるようなものではないだろう。すぐに現実になるだろうヴェインがあの晶石が象る幾振りもの刃に刺し貫かれる想像に、リーファはぞっとした。
殺させてはいけない。
過ったその思考は理屈ではなかった。其処に已むを得ない事情があろうとも、大切に思う人を手に掛けるなんて、そんなのは嫌だ。私なら堪えられない。思い出したくなんてないのにずっと忘れられなくて、過ぎた事だとはどう足掻いても片付けられない想いに押し潰されそうになりながら、きっと一生を悔やみ続ける。
手首に在る生母の形見の腕環の感触が、励ますように思考を冷静にしてくれた。リーファは腕環をした左腕を真っ直ぐ前へと突き出し、腕環に宿る全ての魔力を解放した。
腕環から溢れるように黄金色の光が凄まじい速さで迸る。不意を衝かれたエウリカが幾許かの焦りを浮かべて片腕を横に払うように振るう。リーファの渾身の一撃はすんでのところで弾かれ、細かな光の粒子となって散る。入れ替わりに、怨嗟に凝った銀の眼がリーファを睨んだ。
此方へ向いた攻撃の気配にリーファは急いで防御の体勢を取った。実戦経験に乏しいリーファにしては上出来な速度で魔術障壁を自分の周囲に張り巡らせる。
閃光を伴う激しい爆発が轟いた。
「あう…っ!?」
生じた爆風に木の葉が風に舞うかのように吹き飛ばされ、リーファは堅い石を敷き詰めた床に叩き付けられた。防ぎ切れずに障壁が砕け散ったのだと、全身を襲った激痛に遅れて知った。
何処かよくないところを強打したのだろうか。意識が遠のく。もしかしたら、このままアルターと同じ所へ逝けるだろうか。だったらいいな。そう思いながらリーファは滲むようにぼやけた視界に佇む銀髪の少年を見つめた。
ごめんなさい。本当は、助けてくれたんだって解ってるの。なのに、私はあなたを責めた。
アルターを助ける事が出来なくて、悲しくて悔しくて。知ってしまったお母様の真意が苦しくて。遣り場の無い想いを、自分勝手にあなたにぶつけてしまったの。
ごめんなさい。あなたが悪いんじゃないのに。あなたの所為じゃないのに――。
何か熱いものが目許から頬を流れ落ちる。それが涙なのか将又怪我からの出血なのかは、途切れゆくリーファの意識では、判らなかった。
エウリカの攻撃を防ぎ切れなかったリーファがいとも容易く吹っ飛び、思い切り床に叩き付けられる。助けられた事も彼女が気を失ったらしい事も見て取ったが、ヴェインは其方へ駆け寄りはしなかった。
助けられたのを解っているならばこそ、やるべきはリーファの心配でなくエウリカを止める事だ。
エウリカは倒れたリーファへと忌々しげな視線を注いでいる。エウリカの意識が他方へ向いている隙にヴェインは一息に駆け、エウリカへと肉迫する。
ヴェインの接近に気付いたエウリカが胸を押さえ、息切れめいた苦しげな呼吸をしつつ、右肘を軽く後ろへ引くような動作を見せた。銀光の煌めきと共にその手の中に一振りの晶石の剣が現出する。
やや斜めに横へと薙ぐ透明な青の軌跡を、ヴェインは左手で抜いた長剣を掌の内でくるりと半回転させ受け止めた。防御からの一連の流れで透き通る刀身を上から押さえ付け、その自由を封じる。
「くっ!」
エウリカが苦々しさをヴェインを睨み据える視線に乗せ、一方の口角を引き攣らせる。剣を止められたエウリカは自身の周囲に結界を展開して詰め寄るヴェインを弾き飛ばそうとするが、結界の術式は発動の気配を見せただけで何故か消失してしまった。苛立たしげに呑み込まれたエウリカの呼吸はやけに荒い。
ヴェインは左手でエウリカの剣を封じつつ、彼女の懐に跳び込んだ。ゼラの顔にエウリカの感じている焦燥と驚愕が浮かび上がる。
その銀の睫毛の一本一本までもが数えられるような近さ。エウリカが口惜しさに息を吐く。
右手に握り込んだこの封じの短剣を心臓に突き立てる。たったそれだけで片が付くのだ。怨嗟に狂うエウリカの憎悪も――そして、その器となっているゼラの命も。
そう意識した、一瞬とも呼べない酷く短い時間。思いも掛けない逡巡が胸を突いた。
雪の中に溶けるような、儚く、寂しげな微笑。最早泣く事も出来なくなってしまったかのような、諦念に雁字搦めにされた痛々しい笑顔。
理性は言う。早くこの短剣で彼の心臓を貫け、と。ヴェインはその為にゼラと行動を共にしていたのだから。
ゼラは棺だ。エウリカの魂を再び深い眠りに就かせる為の棺なのだ。躊躇いは必要無い。ヴェインはただ臣下として皇帝の命に従い、為すべき事を行うだけだ。
柄を握る手の骨が軋む程強く短剣を握り締め、ヴェインはすぐ其処にあるいつまでも少年のままのゼラの顔を見つめた。エウリカという別の魂に支配されたその顔に、普段の彼の表情は無い。在りし日のエウリカを模倣するあの艶然とした微笑という帳に隠されていてもヴェインの眼には時折透ける痛々しいまでの意思も、僅かな隙にふと見せる憂いの影も、其処には何もかもが存在しない。
此方を仰視するエウリカの怨めしい表情に、あの悲愴な微笑みが二重写しになってヴェインの胸裡を引き裂いた。幻覚染みて重なって見えたその微笑みが、ヴェインの取るべき行動を肯定している気がした。
「――っ!」
激しく歯噛みして、ヴェインは双眸厳しく真一文字に口許を引き結んだ。手にした短剣を、目の前のエウリカへと決然と突き込む。
―――後に訪れたのは、重い手応えと空隙のような静寂。
「…っ、…かは…っ…!」
浅紅色の唇から空気の塊が吐き出される。ヴェインの突き出した短剣。その柄が的確に急所である鳩尾を打っていた。
膝から頽れるようにエウリカが傾ぐ。縋るようにヴェインの腕を掴もうとした手がずるりと滑り落ちる。前のめりに倒れ込むその身体をヴェインは咄嗟に抱き留めていた。
崩れたエウリカの高さに合わせて屈み込んだヴェインの顔を下から覗き込むように、微かにその顔が此方を見上げた。銀の瞳が疎らに瞬きを繰り返し、掠れるような声が言う。
「………殺してくれないの?」
虚ろな問い。声音に含まれた秘やかな落胆と、零れた吐息の切ないような余韻。気落ちしたようにヴェインへそう尋ねたゼラは、抗い難い眠気に誘われるかのようにゆっくりと瞼を閉ざした。
支えて抱えている為に、寝息のように幽かなゼラの呼吸が耳許で続いている。それを聞きながら、ヴェインはぞんざいに短剣を放り出した。
重い倦怠感に大きく溜め息をつく。眠るゼラと意識の無いリーファ。転がる死体と聖骸の納められた石棺。見渡せば、此処でやるべき事はまだ幾つもあった。だが少しの間でいい。今だけは、何も考えたくはなかった。
ゼラの少し高めの体温が抱えた腕から伝わってくる。その温もりを不思議と心地好く感じている事をヴェインは自嘲して、また、溜め息を吐き出した。




