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舞い散るような赤の色。我が身に受けた剣撃は致命傷であるのにも拘わらず、不思議なくらい痛みを感じなかった。ああ、死ぬのか。思い浮かんだのは、そんな当たり前の事。
痛みを感じる代わりに、末期を迎える脳裏で弾けたように記憶が駆け巡った。
十二年前の後継争いの折。後一歩のところまでイルゼリット皇子等を追い詰め、反撃を受け、命辛々落ち延びたのを、つい先日の事のように憶えている。
イレーナは、あの敗走の山中でキアリスの護衛役であった父親を魔物に喰われて亡くした。父は皇女と娘を連れて天然の要害と呼ばれる険しいノルディス山脈を越え、追撃の手の届かないだろう聖ナージュ王国へ抜けるつもりだった。
頼りの父を失っての少女二人での山越えは不可能だと、まだ十二歳のイレーナにも現実としてそれが実感出来たが、キアリスは山越えの続行を言い付けた。そう命じられてしまえばイレーナに否とは言えなかった。物心付いた頃から高圧的な主に付き従い、その命だけを聞いて生きてきたイレーナは、命令無しには自分で考えて動く事が出来ない人間になっていた。
そのまま山中で二人揃って共倒れとならなかったのは、偏にシームというルーネスの少年に出会ったからだった。反攻に転じたイルゼリット皇子の手によって壊滅させられた軍の獣騎兵団に属していたという彼はキアリスの銀の一房を見て、暗い願望の熾火を宿した眼をして協力を申し出てきた。
「今じゃなくていい。けどお姫さんがいつか皆の仇を取ってくれるってんなら、助けてやってもいいぜ?」
その申し出を罠かと疑うキアリスにシームは語った。空気が爆ぜる轟音。激しい雨にも全く弱まらず、夜を鮮烈な赤の色に照らす魔術の火勢。その直中に佇む銀の皇子の酷く冷めた、だが一切の感情を窺わせない表情。鏖殺された仲間の屍を背にただ一人傷だらけの身体を抱えて逃げ出した、血と泥に塗れた敗残の記憶を。軽薄なその口調の裏に、未だ収まらぬ戦慄をひた隠して。
助けてやる代わりに、復讐を。キアリスを唆すような彼の表情に落ちた忘れ得ぬ恐怖の影をイレーナは見出したものの、だが何も言えなかった。彼女に勝手な口出しは許されていなかった。キアリスは頷き、二人は以来この山中に隠れ暮らしているというシームの手助けで何とか国境の山脈を越えた。
イレーナとキアリスは隣国へと脱出してから幾日も幾晩も歩き通した。やがて遠くに牧場らしき人のいそうな場所を見付けたが、其処に辿り着く前に力尽きて行き倒れた。けれども幸運な事にその牧場の主人である老夫婦に倒れているところを見付けてもらい、助けられたのだ。
老夫婦は優しい人達だった。二人に行く所が無いのを察し、其処で暮らさせてくれ、本当の娘同然に面倒を見てくれた。今思えば、イレーナの人生においてあの時が一番穏やかで心安らかな日々だったのかも知れない。
老夫婦と一緒に羊や山羊の世話をして、家事を手伝い、平凡だが温かな一日に感謝して床に就く。多分、幸せだった。
しかしそんな生活もそれから四年程で終わりを告げた。二十歳になったキアリスは輝くばかりの美しさを誇っており、そんな彼女を視察にやって来たその地方の領主が見初めて愛妾にと望んだからだ。
獣臭いと家畜の世話を嫌い、延いては牧場の倹しい暮らしそのものを嫌っていたキアリスは領主の求愛をすぐに受け入れた。こんな所で家畜に囲まれた下らない生活をしているくらいなら、単なる地方領主の愛妾程度の立場であってもその方がまだましだと言って。
イレーナの本心は第二の父母とも慕った老夫婦と別れたくない想いで一杯だったが、キアリスが当然のように従者としてイレーナを連れて行く事にしたので、仕方が無かった。逆らうなどという選択肢は、悲しいかな初めからイレーナの中には存在しなかったのだ。
キアリスは恐らく、領主の愛妾となってから後の展望までも計算高く想定していたのだろう。その居城では領主の正室よりも幅を利かせ、寵愛を笠に来て女王然として振る舞った。その後、本来であれば奥方を伴って行く筈の王城で開かれる盛大な舞踏会に領主の供をして出席し、持ち前の華やかな美貌と皇室育ちの洗練された立ち居振る舞いで注目を集め、到頭国王の心をも射止めてみせた。
相手にその気があると見るやキアリスは即座に領主を見限り、国王に鞍替えして見事に側室の座を手に入れた。正にその身一つで伸し上がってみせた主君を尊敬しつつも、イレーナの心には見ず知らずの行き倒れだった自分達を拾って面倒を見てくれた老夫婦や、キアリスをその我が儘さを含めて丸ごと愛していた領主に対する後ろめたさのようなものが過り、蟠って居座った。けれども、やはり諫言など出来はしないし、そうする自分を想像する事すら不可能だった。
それからキアリスは王子を産み、その息子を王位に就けようと画策し、国王の嫡子であるリーファ王女を謀殺する企てを始めた。懐かせて警戒心を抱かせないようにする為とはいえ、あれだけ親しく接し、またキアリスを母と慕う王女に対してその目論見はあんまりだ。そうは思ったが、口になど出せる筈も無い。イレーナはただ諾々と主君の言い付けに従うだけだ。それ以外の生き方を、イレーナは知らなかった。
だから、きっと罰が当たったのだろう。キアリスの産んだ王子が重い病に掛かって命を落としたのも。イレーナがこうしてヴェインに破れて命を絶たれるのも。全ては因果応報というものなのだろう。
――でも、もしも。
イレーナがもっと自分の意見をキアリスに伝えていたら。嫌な事は嫌だと言い、良くない事は良くないと言う事が出来ていたら。何かが変わっていたのだろうか?
自然と下りてゆく瞼に浮かんだのは、在りし日の想い出。あれはいつの事だっただろうか。イレーナはまだ幼く、十にも満たない年齢だった。
強い風が吹き、キアリスの髪に結ばれた赤絹のリボンが蒼い空に流されて行く。目の前を通り過ぎたそれを何もせずぼうっと見送ってしまい、また怒られた。
「早く取って来なさい!」
主君の機嫌を損ねてしまったイレーナは竦み上がって走り出した。キアリスの取り巻きの少女達が鈍臭いイレーナを笑っていた。自分を笑う声に恥ずかしくなって駆ける足を速め、飛んで行くリボンを一生懸命に追い掛ける。
リボンは二階の回廊から外へと飛び出し、近くにあった庭木に引っ掛かって漸く止まった。イレーナは回廊の手摺りを掴んで精一杯身を乗り出したが、手は少しも届かなかった。慌てて下へと走り、庭に出て、リボンの引っ掛かった木の根本へ向かう。
長い冬を乗り越えて久方振りに訪れた暖かな陽気に、目的の木は燥ぐように若葉を茂らせていた。小さなイレーナには天を突くようにも見える立派な木は、高く伸びた枝の上方にリボンの赤色をはためかせ、聳えるように佇んでいる。リボンが落ちてこないかとイレーナは幹を両手で揺らそうとしてみたが、木はびくともせず、リボンは風に靡くだけだ。
どうしよう。あんなに高い所にあったら手が届かない。持って帰らないと、キアリス様に叱られるのに。
木は足場となりそうな枝も多く、上る気であればイレーナにも出来ない事は無かっただろう。だがイレーナは主からの叱責に心底怯え切っていて、そんな事は考えも及ばなかった。
高い木を見上げ、イレーナは涙ぐんだ。どうしよう。怒られる。服の袖の中で握り締めた手が震えた。あのリボンを取って帰らなければ叱られるのは解っているのに、リボンを回収する為の方法がイレーナにはどうしても思い付かない。
涙を湛えたまま、途方に暮れて木の根本に立ち尽くす。しゃくり上げ掛けたイレーナに優しい声が掛けられたのは、そんな時だった。
「どうしたの?」
話し掛けられた事にどきりとして、一瞬涙が止まった。驚いて振り向くと、其処にはイレーナよりも少しだけ年上の銀髪の少年が、同じように銀の髪をした幼い男の子の手を引いて立っていた。
少年は泣きべそを掻いているイレーナと、彼女が見上げていた木の上のリボンを見て納得した風に言った。
「あれが取れなくて困っているの?」
イレーナが頷くと少年はちょっとだけ考え込むように木の枝振りを眺めた。
「ごめんなさい。少しの間だけ、弟の事をお願いしてもいい?」
戸惑うイレーナに繋いでいた男の子の手を預け、少年は躊躇う事無く一番低い枝に腕を掛けた。少年の行動に寧ろイレーナの方がぎょっとしてしまい、あたふたと制止の言葉を口にする。
「あ、あのっ。危ないですから…」
「大丈夫。木登りなら、友達に教えてもらったから」
少年はイレーナへと柔らかく微笑んで、するすると木を登った。イレーナが思わず見惚れてしまうくらい巧みにリボンに手が届く高みにまで行き、触れていた幹から片手を離してリボンに向かって腕を伸ばす。
「う…、もう少し……」
高い枝の上で爪先立ちになって目一杯に手を伸ばす少年を、イレーナは思わず息を止めて見守ってしまった。木の上にいる兄を見つめる隣の幼児もはらはらとしているようで、不安からかイレーナの手をぎゅっと握ってくる。
「――っ、届いた!」
少年の手がリボンの端を掴み、イレーナ達がほっと息を吐く。だが喜んだのも束の間、唐突に少年の身体ががくりと揺れた。無理な姿勢で腕を伸ばしていた結果、足を枝から滑らせたのだ。
ばきばきという細い枝が折れる音と、騒ぎ立てるような葉擦れの響きがやけに大きく鳴り渡った。ひっ、とイレーナが息を呑むのと、幼児の高い悲鳴が重なる。
「あにうえぇっ!」
背中から地面に落下した少年は痛そうに身体を丸めて呻いた。イレーナの手を振り解いて男の子がぱたぱたと兄に駆け寄る。泣き出した弟に「大丈夫だから、泣かないで」と言いながら少年は左手の中に握り込んでいたリボンをイレーナに見せた。
「何処も破れていないみたいだから、多分大丈夫」
「…あ…」
そんな事より怪我はしていないかと尋ねたかったのだが、思うように言葉が出て来なかった。少年はわんわんと泣く弟をあやしつつ、歩み寄ってイレーナにそっとリボンを手渡してくれた。
「イレーナ、だったよね?早く行った方がいいと思うよ。キアリス従姉様、ちょっと怒りっぽいところがあるし」
イレーナの代わりにリボンを取ってくれた少年は上の回廊の方を見遣り、次いで気遣うように笑い掛けてくれた。
「え…?どうして、わたしの名前を…」
言ってから気付いた。あれだけ毎日怒鳴られていれば、何処かで聞き知っていてもおかしくはない。イレーナは羞恥に顔を伏せた。だが、しがみ付く弟の頭を撫でている少年はイレーナの思ったのとは違う言葉を口にした。
「えっと…名前が少し似てるから、だから覚えてて。ごめんなさい。馴れ馴れしかったね」
多少のぎこちなさを感じる返答はその言葉が完全には真実ではない事を物語っていたが、其処にイレーナを莫迦にする響きは皆無だった。感情的な主人にいつも怒鳴られているイレーナを思い遣るような声音が胸に染み入る。そんな風に他人から優しい言葉を掛けてもらうのは初めてだった。
何か温かいものが胸の内に広がった。手渡されたリボンを自身の宝物のように握り締めてイレーナは心からの感謝を込めてお礼を言おうとし、けれども上方から容赦無く投げ付けられた怒号に断念せざるを得なかった。
「イレーナ!!リボン一つにいつまで掛かってるの、グズ!早く戻って来なさい!!」
焦って二階の回廊を振り仰ぐイレーナに少年は立てた人差し指を口許に当てて、内緒話をするように小声で囁く。
「僕が手伝ったのは従姉様には秘密にしてくれる?余り機嫌を損ねたくないから」
そう冗談めかして笑い、少年はよいしょと弟を抱き上げて、二階からは死角となる木陰に移動してゆく。枝を折ってしまった事を庭師に謝らなければ。そんな意味の呟きが聞こえ、イレーナは立ち去る前にもう一度少年の方を見た。
其方を見つめるイレーナに、気付いた少年の銀の両目が優しく細められる。
「イレーナ!」
再度の怒声にイレーナは駆け出した。リボンを持って行くと「遅いのよ!」とまた怒鳴られたが、まだ上の空のイレーナには主君の叱責の言葉はほとんど耳に入っていなかった。
少年――主であるキアリスの従弟に当たるイルゼリット皇子のあの優しく穏やかな微笑が、何だか忘れられなかった。キアリスに叱られている時よりもずっと大きく、心臓がどきどきといっていた。
その一件からイレーナは、それとなくイルゼリット皇子の事を視線で追うようになった。皇子はふと目が合えばあの時のように優しく微笑み掛けてくれて、時々でもあの笑顔に逢えるのならば、キアリスに叱られ続ける毎日も前程辛くはなくなった。
翌年の武芸大会の決勝でブランクーゲル家の娘に破れた時も、
「年下の小娘に負けるなんて恥を知りなさい!!」
と、また凄まじく怒られたが、イレーナにはキアリスの勘気よりもあの決勝の場にイルゼリット皇子がいなかった事の方が徹えていた。
負けてしまったとはいえ、全力を尽くして最後まで頑張ったのだ。もしも彼が見ていてくれたならば、イレーナの健闘を讃えてくれただろうか。体調不良との理由で欠席と聞いていたが、欠席の本当の訳は恐らく、キアリス等兄妹が〝帝銀〟のイルゼリット皇子が公の場で目立つのを快く思っていない為だろう。察してはいたが、意見は出来なかった。――最期まで。
眩しいような、暗いような。己の中が空虚になってゆくような感覚。安堵にも似た一抹寂しさの中で、イレーナは思った。
――そういえば、まだ、リボンのお礼が言えてなかったな…。
そんな事は今更であるし、彼ならばきっと、優しく微笑って気にしないでくれるのだろうけれど。




