3
白く霞む、寒い午後の事だった。
囁くように降り積もる粉雪が景色を白く染める。止む気配の無い雪は周囲の音を吸い込んでしまうかのようで、ただでさえ人気の無い城の裏庭の回廊を包み込み、墓所さながらの静謐を作り上げていた。
軍の入隊試験を終えたヴェインは一人、軽い見物のつもりで当て所無く城内を歩いていた。皇帝の居城に足を運ぶのは実に久し振りの事だった。元より頻繁に訪れていた場所ではないので別段懐かしさに駆られての行動ではない。言うなれば、ほんの気紛れだ。
六年程前に起こった帝位継承に関わる骨肉の争いの一環にヴェインの父は命を落としていた。血統や〝帝銀〟であるか如何に拘わらず相応しい者が帝位を継ぐべきである。先帝の第一皇子が廷臣を一堂に集めて意見を求めた場で皆が阿諛追従の言葉を述べる中、ヴェインの父は毅然とそう断言して皇子等の不興を買い、謀反の腹積もり有りと疑われた末に潔白を証明する為、その場で自害して果てた。
この城は父の死に場所だった。だからといって、感傷に浸る為にこうして気の向くまま歩き回っている訳ではないが。
幼い頃に数度訪れただけの城内の様子は記憶にある印象と然して変わらず、独特の荘厳な空気を醸し出していた。前庭や玄関広間などの一定の区画は一般庶民にも広く開放されているとはいえ、城勤めの人間以外の姿は城内にあって目立つ。ある意味有名な亡父と同じ、先祖譲りの縹の髪に注がれる物珍しげな視線が鬱陶しくなって人のいない方へと歩いていたら、こんな場所に出た。ヴェインは光の加減で薄暗い影の満ちる回廊から、狭霧の如く雪の舞う庭へと視線を遣った。
雪の中で蹲る人影を認め、怪訝に眉根を寄せる。誰もいないと見えたのは静けさから来る思い込みと、その人物が雪景色に紛れるような色彩を有していた所為だった。
頭の上に少なくない雪を積もらせて庭の直中に蹲っていたのは、銀の髪をした少年。限られた血筋の者のみにしか発現しないその髪色にヴェインは思わず目を見張った。
ヴェインの視線に気付いた風に少年が仄かに顔を上げた。酷く苦しげなその呼吸が白く雪風に溶ける。込み上げる何かをやっとの事で堪えているかのような、辛そうに歪められた瞳の色は左右とも銀。
その身に〝帝銀〟を宿した皇族など、ヴェインはただの一人しか知らなかった。だが彼と其処にいる少年とは見た目から推察して年齢が合わない。しかし何処となく見覚えがあるようなその少年の面立ちに、ヴェインはぼそりとその名を呟いた。
「イルゼリット皇子…?」
それが聞こえたのか。少年は苦しい息を吐き出して淡い微笑を浮かべた。
「……ああ、グレイス。戻って来てくれたんだ…」
柔らかな少年の声が心做し喜色を滲ませる。
「そうだね、貴女だけはいつだって私の味方で――」
少年は言い掛け、自らが口にした言葉に戸惑った様子で口許を抑える。続いて明らかな困惑がその顔に浮かび、気を静めようとするかのように彼は瞳を閉じた。
グレイスとは、初代皇帝の守役を務めたブランクーゲル家の先祖の名だった。何故そんな数百年も前の人間の名が出るのかと訝り、ふとヴェインはイルゼリット皇子と思しき少年の発する気配に重なってもう一つ別の気配が存在する事に気が付いた。
今となってはその役も解かれたが、ブランクーゲル家は代々霊廟の墓守を務めてきた。初代皇帝エウリカが内密に弑された際に彼女を守る事が出来なかった事を恥じ、絶大なる魔力と共に封じられた主の魂とその器である亡骸を守護する事を自らに課したグレイスの意思を受け継ぎ、子々孫々に渡って眠るエウリカの魂を見守り続けて来たのである。それ故墓守にとっては聖骸とそれが放つ気配は身近なものであり、だからこそヴェインはその存在を感じ取れたのだ。
少年の纏うもう一つの気配は、鎖された霊廟から幽かに漂っていたエウリカの気配そのものだった。それがどういう事なのか。疑問に思うより先に理解した。彼がイルゼリット皇子本人であるのなら、答えを想像するのは難しい事ではなかった。
「――成る程。貴方は初代皇帝の魂と魔力を、その身の内に取り込んだのですか」
ヴェインの言葉を肯定するようにイルゼリットは微笑んだ。道理で、噂に聞くだけでも相当の手勢を揃えていた筈の先帝の皇子等が敗北を喫する訳だ。たった一人で聖ナージュの大軍勢を殲滅したといわれるエウリカの力を以てすれば、そんな事は赤子の手を捻るようなものだろう。
後継問題に端を発した内戦の終結後。イルゼリットの名は聞かれず、現在皇帝の座に在るのも彼の弟のフェルキースであり、その為一部ではイルゼリットは内戦で亡くなったものと噂されていた。表舞台の一切からその姿を消した〝帝銀〟の皇子へ、ヴェインは不躾な問いを発した。
「〝それ〟は貴方が?」
言いながら、イルゼリットの蹲る側に倒れた、降る雪に半ば埋もれている数人の覆面の男達の死体を目線で指す。近くへ寄って注意して見れば、死体の付近にはまだ雪に隠れ切っていない鮮血の痕が点在していた。
「…僕を殺せばルキを自由に操れると信じている人達の差し金みたい。この程度の人数で仕留められる筈も無いのにね」
「言葉の割には、酷く苦しそうにお見受けしますが」
ヴェインはイルゼリットの様子に対して率直に感想を述べる。失礼の一歩手前のようなぶっきらぼうな物言いだったが、皇子という生まれながら然して身分に頓着しないらしいイルゼリットは気にする素振りも見せず、ぽつりと言った。
「そういう貴女こそ、生きているのに死人みたいな顔してる」
虚を衝かれてヴェインは一瞬呆気に取られた。生きた死人。矛盾した表現だが言い得て妙だ。無意味なこの生に意味のある死を求めて軍に入隊しようとしている自分にはぴったりかも知れない。
その洞察にヴェインが感心していると、支えにするように衣服の胸元を掴んだイルゼリットが覚束無い足で立ち上がった。雪と共に募る冷気の中にありながらも額に玉の汗を浮かべているが、どうやら状態は落ち着いてきたようだ。エウリカの気配を抑え込んだ彼は頭や肩に積もった雪を払って顔を伏せる。
「――…ごめんなさい」
突然の謝罪。何を謝られたのか解らなかった。やや間が合って、俯き加減のイルゼリットの雰囲気からヴェインの父の死の一件について謝っているのだと察する。
「殿下の所為ではありません」
にべも無く断ずるヴェインにイルゼリットが小さく苦笑した。だが実際ヴェインはイルゼリットに非があるとは露程も思ってはいなかった。父は己の信念を貫き、それに殉じただけだ。父の死に際して誰が悪いとも思わないし、他者に対する恨みはヴェインには無い。
しんしんと降る雪に覆い隠された裏庭の、暫しの間の静寂。伏せられた銀色の長い睫毛に乗った雪片を指先で払い、イルゼリットがそっと雪上へ言葉を零す。
「…今日此処にいるという事は貴女は軍の入隊試験にやって来たんでしょう?こんな所に長居しない方がいいと思う。偶然とはいえ、僕と話をしているのを誰かに見られるのは余り良くないだろうから」
刺客を差し向けられるくらいだ。内戦は終わったものの未だに政敵は少なくないのだろう。巻き込まれる事などどうでもいいと言えばそうなのだが、流石にイルゼリットの気遣いを無下にするのは憚られ、ヴェインは頷き、踵を返した。
回廊へと戻る途中、ヴェインはもう一度だけ皇子のいる方へと顔を向けた。
何となく、気になったのだ。本来は祝福されるべき〝帝銀〟を忌まれ、望まぬ争いに身を投じて血族を虐殺し、多大なる畏怖の念を抱かれながらも反面その命を狙われる、身内に宿した彼の祖であるエウリカと似たような半生を送る非業の皇子の事が。
肩越しに振り返った視線が交わる。目が合って、イルゼリットが微笑んだ。
舞い散る雪よりも淡く儚く。まるで粉々に砕け散った心を必死に掻き集めて無理に笑みを象ったような、酷く寂しげな微笑。
その哀しいまでに美しい微笑みは不思議なくらいに印象深くヴェインの脳裏に焼き付いて、それから後も心から消え去る事は無かった。
――次にイルゼリットとの再会したのは、それから五年後。名指しでの呼び出しに皇帝フェルキースの執務室を訪れ、新たに結成する部隊の副長に任ぜられた際の事だった。
皇帝直属の新部隊に抜擢され、更には隊の副長を任された彼女を他の同僚等は羨んだ。だがヴェインにはその事に対する浮かれた気持ちは皆無であった。全ての物事は所詮、待ち望む終わりを得る為の過程に過ぎないからだ。
「――という事で任せたぞ、ヴェイン・ブランクーゲル」
部隊とその役目についての手短な説明を終えてフェルキースがぞんざいに椅子に踏ん反り返る。
「人にものを頼む態度じゃないんじゃない、ルキ?」
執務机の端に浅く座った黒髪の少年が皇帝へ気安くも苦言を呈する。以前とは髪や片方の瞳の色が違ったが、彼がイルゼリットである事は一目で察しが付いた。左の耳朶で揺れる耳飾りに幽かながらも魔力を感じて、ヴェインは彼の色彩の変化が恐らく幻術などの類であろうと見当を付ける。
「兄上こそ人生で初めて持つ部下と顔を合わせる時の態度なのか、それは?」
兄弟らしく似通った顔立ちを叱られた不満にむすっとさせてフェルキースはイルゼリットを横目で見遣る。彼がイルゼリットを兄と呼ぶ事に多少の違和感を覚えるのは、当の兄の姿がフェルキースよりもやや年少に見える所為だ。
弟の反論に小さな兄はくすくすと笑うだけだった。フェルキースは盛大に溜め息をつき、ヴェインに対して面倒そうに手をひらひらと振って『もう行って良し』との意を示した。
「それじゃ、貴女の部屋に案内するね」
新たな部隊ディオールに配属されるに当たってヴェインは城内に一室を与えられ、軍の兵士宿舎から其方へ移る事になっていた。慇懃に執務室を辞すヴェインに付いて来たイルゼリットが弾むような足取りで廊下を先導する。
廊下で擦れ違う人々は其処がどれ程広い道幅であろうと必ず端へ避けて皇子に道を譲った。その後に従って歩くヴェインは立礼した彼等からこっそりと好奇の目を向けられながら、先を行く華奢な背中に問い掛けた。
「新部隊の隊長は皇帝陛下の弟君らしいと聞きましたが」
軍内部で真しやかに流れていた噂。皇帝が直属の部隊を発足させて、その長に弟皇子と就けるらしい。噂を小耳に挟んでヴェインは、はてフェルキースに弟などいただろうかと疑問に思ったものだった。
ヴェインの投げ掛けた問いにイルゼリットは小さく笑いを零し、くるりと此方を向いた。腰の後ろで両手を組み、そのまま後ろ向きに歩きながら彼はヴェインを見上げる。
「弟だって名乗った事も、そう紹介された事も無いんだけどね。兄弟だって言えば皆、僕をルキの弟だと思うみたい」
口振りから敢えてそう誤解するよう仕向けている確信犯である事が窺えた。過去の後継争いを経て城内の人間も相当の入れ替わりがあったようで、陽の当たらぬ場所に隠れるように生きていたイルゼリットの存在を知る者は大して多くはないらしい。そんな者達には右眼にだけ残した銀の色を証として兄弟だと名乗るのだとイルゼリットは語った。
「僕を知らない人はそれで納得してくれるし、知っている人は最初から何も言わないしね」
艶然と笑うその様は怖気を誘うような凄みを帯びている。恰も人が変わったかのようなイルゼリットを暫し黙して見つめ、ヴェインは自身の思い違いを悟った。
人が変わったのではない。意図的に変えているのだ。
蠱惑的な挙動。艶麗な微笑。見る者を引き付けながら同時に畏怖させるような雰囲気を纏い、イルゼリットは人を喰ったような斜に構えた人格を作り、それを演じているようだ。その理由や事情まではヴェインには判らないが、ともかくイルゼリットがそういった演技をしている事はまず疑いようが無い。
表情は動かしていない筈だが、視線に込められた感情でヴェインの思考に気付いたのだろうか。イルゼリットはつと浮かべていた微笑を消して、あの雪の日に見せた壊れそうな笑みを色彩の変わった容貌に湛えた。
「――…貴女は、変わっていないみたいだね」
寂しげに微笑んだ唇から発せられた言葉はそれだけだった。胸に秘めた続く言葉の代わりのように小さな吐息を一つ落として、イルゼリットは何故かヴェインを酷く眩しげに見つめ、そっと顔を伏せる。
再び顔が上げられるまでの数拍の沈黙。立ち止まったイルゼリットは下を向いたまま自嘲する風に口許を綻ばせ、また先程までのように艶然と微笑して言った。
「ゼラって呼んで。親しい人は皆そう呼んでたから。これから宜しくね、ヴェイン?」
今の表情の意味を訊けず、ヴェインは頷くだけに止めた。何となく、触れてはいけないような気がした。
それからヴェインはゼラの相棒として月日を重ねた。任務の内容からすれば相棒と言うよりも片棒を担いでいると称した方が正しいような関係だったが、まあ嫌ではなかった。
時には上辺のものではない本音を交わしもした。憎悪や怨念、憤怒といった感情にあてられて騒ぐエウリカの魂をやっとの事で鎮めるゼラの姿を幾度も目の当たりにした。
荒れ狂うエウリカを抑え込む時のゼラは、彼女の意識が凄まじい感情を伴って暴れる事により激しい苦悶に苛まれるようだった。心身に掛かる負担から、表に出ようとしたエウリカを抑え付けた後に倒れて動けなくなってしまう事も屡々だった。
幾ら弟の為とはいえ何故其処までするのか。そう問うてみた事もある。だがゼラは演技の上で微笑み、はぐらかすような事を言うだけで、いつも決して答えはしない。
それが、少しだけもどかしかった。ゼラは何でも一人で背負い込もうとする嫌いがある。相棒として行動を積み重ね、ヴェインとて多少は彼の抱える事情を心得ているつもりだった。なら少しくらい頼ってくれてもいいのではないか。面と向かっては言わないが、柄にも無くそんな事を考えてしまう時がある。
脳裏に、心に焼き付いて離れないあの微笑みが、きっとそう思わせるのだ――。
消え掛けた夕陽の最後の一筋が目に入り、一瞬感じた強い眩しさにヴェインは回想から立ち戻った。
日暮れの淡紫色の光が眼下の山々を映し出す。次第に薄明へと移り変わりつつある空を駆けるディルカの背からノルディス山脈の険しい稜線の裏側に広がる高地を見下ろして、テンドがある一点を指差した。
「見えたぞ。彼処に例のお嬢ちゃんを降ろしてゼラの野郎にそう連絡した」
目的地は古い神殿と思しき建物だった。テンドはディルカの首をぺしっと叩き、其方へ進みながらの降下を指図した。
「一応念押ししとく。俺はお前を送るだけで中には付いて行かねえからな」
「薄情だな。お前とゼラは幼馴染みの友人同士だろう?」
ヴェインが言うとテンドは小莫迦にしたように口角の片方を引き上げた。
「だからだよ」
地平の彼方に沈んだ太陽に寒さを増した空気が身を切るような風となってテンドの短髪を煽る。微かに見せた身震いは寒気によるものか、それとも別の要因か。
「アイツはもう、俺の知ってるゼラじゃねえ。見た目は嘘みたいに変わんねえし、ああいう態度が虚勢だってのも勿論知ってる。けどな、根本が違うんだよ。自分とは別の魂を受け入れて取り込んで、元のままでいられる筈ねえだろ。はっきり言って、俺はアイツが怖い。あれは本物のバケモノだ。だから出来るだけ関わりたくないし、近寄らねえようにしてる」
共に遊んだ幼い頃を思い出しているかのようなテンドの遠い眼は、ゼラがいるのであろう神殿へと向けられていた。
「俺は、アイツが心底怖いんだよ」
断腸の表情で苦々しくそう吐き捨てるテンド。ゼラをかつてのように友と呼び接する事が出来ない己の臆病を軽蔑するかのように鼻を鳴らし、テンドはディルカに速度を上げさせた。
冷え切った強い風の中をディルカは臆せず進んで行った。その全景が詳細に見て取れる距離に神殿が近付き、事を前にした若干の緊張が訪れる。
不意に鋭い鳥の鳴き声が空に響いた。建物の陰から、神殿への到着を阻む番人であるかのように闇空色の羽を持つ魔鳥が現れる。
薄明の空の一カ所に一足早く訪れた夜闇の如く魔鳥は翼を広げ、ディルカへ向かって突き進んで来る。ディルカがどうすると問うように小さく鳴き、テンドが面倒そうに舌打ちをする。
「あれもシームの野郎の魔鳥か?」
「元はそうだったのだろうが、今の主人は別人のようだ」
ヴェインは長剣を鞘から引き抜きながらディルカの背に立ち、向かい来る魔鳥との距離を目測する。一羽撃きで軽々と空を滑る魔鳥がディルカの威嚇にも怯まずに距離を縮めるのを冷徹な眼で見、飛竜の肩口を蹴ってヴェインは跳んだ。弓を構えようとしていたテンドが「あっ、おい!?」と間抜けな声で言うのを空中で聞き、長剣を振るう。
交錯の瞬間を狙って閃かせた刃は正確に魔鳥の喉元を切り裂いた。ヴェインは藻掻くように上下する魔鳥の翼に一度足を着いてからまた跳び、落下する魔鳥の腹の上に陣取った。
動かなくなった魔鳥は落ちて壊れるのを待つだけの物体のように落下を続け、急速に地表が迫る。死した魔鳥が地面に激突する直前にヴェインは後ろ宙返りの要領で魔鳥の腹から飛び上がり、叩き付けられた魔鳥の死骸がもうもうと土煙を上げる中で着地を決めた。
「…お前は曲芸師か?」
慌てて急降下して来たテンドが呆然と言い、地面すれすれの位置でディルカを静止させる。ヴェインの無傷に一応ほっとした様子のテンドだが、当初の宣言通り、降りて一緒に行く気は全く無いらしい。
戦力としてのテンドに早々に見切りを付けたヴェインは剣を納めつつ神殿へと歩き出した。再び上昇するディルカの羽撃きによる風圧が空気の波となって背後から駆け抜ける。
「暫くは空で待っててやるよ。何かあったら…――つうか、終わったら呼べ」
ヴェインの答えを聞かずにテンドはディルカと大空へと戻って行った。少しの間落ちていた影も遠ざかる飛竜に見えなくなり、ヴェインは神殿の扉を開いた。
数多くある窓から光は射し込んでいるものの、肝心の外光は消え入る寸前の儚さであり、入れ違いに夜を照らす月光もまだ幽かだ。薄暗い神殿の中は埃塗れの廃れた臭いがして、見るからに廃墟然としていた。
だだっ広い玄関広間に足を踏み入れてすぐ。その中央に立つ人影に気付いてヴェインは薄闇に眼を凝らした。此方から誰何する前に人影は窓から射す淡い光の中に進み出て、腰に携えた長剣を鮮やかな手付きで抜き放った。
「…貴女が来たという事は、リィは死んだのですね」
剣を手にしたイレーナは押し殺したように表情に乏しい顔と抑揚の無い声で、だが酷く残念げ呟いた。次いで彼女は長剣を武芸の試合で礼をする時のように立てて構え、毅然と背筋を伸ばし、真っ直ぐにヴェインを見据えた。
イレーナのその構え方を見た瞬間、ヴェインの頭で閃くものがあった。そうだ。彼女とは確か、昔、皇帝の提案で開催された貴族の子弟の武芸大会で――。
「…イレーナ・マルバレスタか。成る程。見覚えがある筈だ」
「ブランクーゲル殿が私のような者を覚えていて下さったとは光栄です」
微かにだが表情を和らげ、イレーナは何処か嬉しそうにヴェインに剣を構えるよう勧めた。ヴェインは応じて、イレーナと同様に剣を身体の正面で縦に構えた。
「こうしていると、あの決勝の試合を思い出します。…今度は、負けませんから」
自分に言っているようにも、他の誰かに向けてのものにも聞こえるような決意の言葉。イレーナはまるで其処にいる審判に促された風に丁寧な一礼をすると、先手必勝と言わんばかりに素早く床を蹴って距離を詰め、未だ動かぬヴェインへと斬り掛かった。
重い刃が打ち合わさる。薄明かりの中で閃く白刃。床を蹴る足音と両者の息遣いが神殿に漂う静けさに混然となる。
噛み合った二本の剣越しにイレーナとヴェインの視線が交わる。幼き日の試合の記憶が蘇った。幾度にも及ぶ攻守の入れ替わり。激しい立ち合いに次第に重さを感じるようになる手足。あの大会のみに限らず、当時のヴェインが手合わせした事がある同年代の相手の中で、イレーナは最強とも言える実力を有していた。辛くも勝利を収めたヴェインに片膝を付いたイレーナが向けたあの敗者の表情は、もしかしたらヴェインが浮かべていたかも知れないものだった。
今度は負けないと、イレーナは言った。だがヴェインも負けるつもりは更々無い。この勝負は過去に行ったような試合ではない。命を懸けた、本物の死合なのだ。敗北は即ち死を意味する。力を尽くした末に強者に破れる事は本来ならばヴェインの望むところではあるが、今は少々事情が違った。ヴェインはどうしてもゼラの許へ行かなければならない。何があっても、そうしなければならない理由が在るのだ。
イレーナの突き出した切っ先が頬を掠め、皮膚が薄く裂ける鋭利な痛みが走った。しかしヴェインは踏み込む足を緩めはしなかった。決然とした意志の下に長剣を振り被る。
散りゆく真紅の花びらのように、鮮血が飛び散った。




