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「あ……」
此方へ向いたリーファの金の瞳が当惑に染まる。どうして此処にいるの、と視線が問うていたが答えず、ゼラは幼子の亡骸が鎮座する架台の側に立つキアリスに対して笑み掛けた。絶対零度の凍えるような微笑で。
「ご子息の為と言えば聞こえはいいよね。でも、結局はお為ごかしでしかない。貴女は昔から、そういう人」
イレーナが意向を窺うように主人を見つつゼラへと剣先を差し向けたが、ゼラは彼女を一瞥するだけに留める。ただそれだけでイレーナは身動ぎの後、硬直したように其処に棒立ちになった。
「金の王家の血を引く息子を生んで、どうするつもりだったの?王位に就けて意のままに操って、戦でも仕掛ける気だった?」
冷笑。返事は別に期待していない。ゼラはキアリスを視界の中央に収め、怒りで醜悪に表情を歪めたキアリスの浅ましさを蔑んだ。
ふと、キアリスが小さく吹き出し、けたたましい高笑いを響かせる。暫しの哄笑を続けた後、キアリスは居丈高にゼラへと向き直った。
「お前が此処にいるという事は、あのコーディエの娘は失敗したのね。意気込んでいた割には使えない子だこと。過去の誼で手駒に使ってあげたというのに、私の周りは本当に役立たずばかりだわ」
失望を口にしてキアリスは銀の一房を広げるように掻き上げる。過去の誼とはよく言ったものだとゼラは仄かな嘲りを浮かべた。誼も何も、皇家の取り巻きの家柄の娘として見知っていただけではないか。大して仲が良かった訳でも何でもない癖に。
「主に似たんじゃない?飼い犬は主人に似る、って言うし。ね?」
そっと小首を傾げてゼラはキアリスの苛立ちに油を注いだ。案の定ぴくりと片眉を持ち上げ、キアリスは足下にへたり込むリーファの存在など忘れたようにゼラを睨んで呼気を吐き捨てる。
シェリスタが秘密裏にキアリスと通じ、ゼラを殺そうと企んでいた事はその最期に聞いた言葉で既に知れていた。恐らく先行して聖骸と賊を追う途中で相手に追い付き、其処にいるイレーナを介して接触するに至ったのだろう。イレーナはキアリスの護衛役の娘として幼い頃からずっとその側に付き従っている。当時年端も行かない子供であったとはいえ、時折取り巻きに混ぜてもらっていたシェリスタであれば昔の面識から記憶に残っていてもおかしくはない。キアリスが彼女をどのような甘言で籠絡したのかも大体想像出来る。フェルキースを救う為に、とでも言えばシェリスタは自ら進んで尽力しようとする事だろう。
「それにしても、あんな風に使い捨ての駒にするのは少し酷いんじゃないかな?シェリスタはコーディエ家が属していた派閥的に考えても貴女を慕っていた筈だと思うけど」
キアリスであれば経験上、シェリスタ程度ではどれだけ死力を尽くしても太刀打ち出来ずに返り討ちに遭うだろう事くらい判るだろうに。それとも、仲間である人間からの不意打ちであれば狼狽えるとでも考えたのだろうか。残念だがゼラはそれ程甘くはない。もしもそんな情に絆されて手心を加えるような人間であったならば、自分は疾うにこの世にはいないだろう。
十二年前に嫌という程思い知らされた事柄。血族同士であってもあれだけ残虐になれるのだ。ならば、単に所属を同じくするだけの〝仲間〟などという人間に酷薄になれない訳が無い。
彼女の機嫌を逆撫でするゼラからの問い掛けにキアリスは数度目を瞬かせ、それからまた大声で笑い出した。
「酷い?酷いと言ったの、今?私の事を?」
可笑しくて堪らないといった風に一頻り笑ったキアリスは笑いを収めるように口許に袖口を当てた。すう、と息を吸い込み、キアリスは限界まで目を剥いた狂的な怒りの形相で絶叫する。
「お前に言われたくないわ、イルゼリット!!お兄様達を殺し、お姉様を殺し、私から全てを奪ったお前がよくもそんな事が言えたものね!!」
十二年の時を経ても未だ沸々と滾り続けるキアリスの憎悪が怒号となって聞く者の鼓膜に襲い掛かる。同じ銀を持つ者とはいえ両者の見た目の著しい年齢差に義母とゼラは果たして既知の間柄なのだろうかと困惑していたリーファがびくりと身を竦ませ、イレーナが唇を噛んで俯く中、ゼラはキアリスの絶叫を真っ向から受け止めて、左耳に付けている耳飾りに手を遣った。
「――お互い様でしょう?キアリス従姉様」
外した耳飾りを無造作に床に放る。変化は一瞬。幻術は解け、ゼラの髪と瞳に本来の色彩が戻る。
「……うそ」
呆気に取られたリーファの呟き。そんなに驚くような事だろうかとゼラは少しだけ微笑ましい気分になった。彼女自身生来の金髪金瞳をあのように偽っていたのに、そうまで素直に驚けるとは純真な事だ。この無垢な少女はキアリスの企みなど本当に何も知らされていなかった――いや、その思惑に疑いを抱いた事さえ無かったのだろう。以前、ゼラが略称ではない己の名を明かした時にこれといった反応だった事からもそう推測が付く。本音を言えばこんな醜い争いに巻き込みたくはなかったと心底思う。とはいえキアリスが聖ナージュ国王の側室の座に就いた時点で無理な話だろうか。
銀一色の髪を踏み出した一歩に微かに揺らし、銀の双眸でゼラはキアリスを冷たく射抜く。キアリスは柳眉を聳やかしてゼラの発言を鼻で笑った。
「お互い様?莫迦を言わないで頂戴。その忌々しい〝帝銀〟をひけらかしてお父様亡き後帝位を我がものにしようとしたお前が!私達を追い遣ってあの国を手に入れて満足かしら?コーディエの娘から聞いているわ。自分が皇帝となるのではなくて、敢えて弟をその座に据えて影でいいように操るというのがお前の卑しくて賢いところよね。ええ、確かにそうすれば誰もお前を簒奪者とは呼ばないでしょう!」
ゼラはつい吹き出しそうになってしまった。怨念に満ちたキアリスの罵声を聞き、心に生じたのは純然たる可笑しさだった。呆れと諦めの果てに辿り着いた境地に存在するのは、理解してもらえない怒りでも悲しみでもない。未だにそんな妄言を信じ切っているキアリスの滑稽さを他意も無く笑ってしまう、そんな何処か他人事のような心証だけだ。
可笑しさを堪えてゼラはこう言う。魂が抜けたかのように座り込んでぽかんとしているリーファにも、ちゃんと聞こえるように。
「でも、従姉様はそう呼んでもらえるかもね?我が子を王位に就ける為に其処のリーファ王女を殺そうと画策していた訳でしょう。まあ、失敗に終わったみたいだけど」
リーファの異母弟である架台の上の幼い王子はもう死んでいる。幾ら障害を排除したところで肝心の王位に就ける子供がいなければキアリスの目論見は達成し得ない。ゼラは恐らく無意味だろうと解した上で一応、諦めたらどうかという意を含んだ視線を従姉に送る。
微かに俯いたキアリスの顔を長い髪と落ちる影が覆い隠す。流れる雲が上空を横切って、天井の硝子板から覗ける赤に染まった夕空が陰りを帯びた。
「……失敗なんて、していないわ」
ともすれば聞こえないくらいの幽かな声でキアリスが囁く。垂れ込める波立った髪の間から垣間見える瞳が妄執に燃え上がる。
「アルターは生き返るのよ!此処にいるリーファの命をエウリカに捧げて!生き返るの!!」
髪を振り乱して顔を上げたキアリスは狂気の叫びを上げてリーファに掴み掛かった。縊り殺さんばかりの勢いでリーファの襟元を掴み上げたキアリスは片腕でがっちりとリーファを拘束し、イレーナの名を呼んだ。
イレーナが反射のように動いてキアリスの短剣を拾いに走る。牽制に魔術を放とうとしたゼラは不意に背後に気配を感じた。直後、両脇から腕を取られて強引に床に跪かされる。床に擦り付けるように押さえ付けられた頭を何とか動かして見てみれば、ゼラを拘束する二人の男の顔が辛うじて見えた。神殿の外からこの部屋への空間転移を行う前に遠見で視た、念の為にリーファの逃亡を防ぐように祈りの間の外に控えていた二人だ。キアリスとの対面に心奥で小さな火花を起こす感情を抑制するのに気を取られていた所為で、その接近に気付けなかったようだ。
イレーナが差し出した短剣を奪うように取り上げたキアリスが勝ちを確信して高笑いし、短剣の刃をリーファの顎の下に滑り込ませる。刃物の冷たい感触にびくりとしたリーファが絶望的な表情で義母の裏切りに涙ぐんだ。
「うっかりしていたわ。エウリカが私の願いに応えないのはお前の所為ね、イルゼリット。お前は十二年前にこの聖骸に秘められた魔力を横取りした。そうよ。だからお前は今もあの時のままの姿でいるんだわ。このエウリカの聖骸と同じように」
棺を爪先で小突き、キアリスは十二年前から成長を止めたゼラの様子を確かめるように視線を行き来させた。そうして満足げに頷いたキアリスは床に押さえ付けられたゼラからも見えるようにリーファを乱暴に前に突き出し、その首筋にこれ見よがしに短剣を這わせる。
「庇うという事は、お前にとってこの子は人質にするだけの価値があるという事よね。――さあ、聖骸から奪った魔力を返しなさい!でなければ目の前でリーファを殺してやるわ!!お前が私にそうしたのと同じようにね!」
「…っ…」
短剣を握るキアリスの手に力が入り、リーファの細い首筋を赤い雫が流れる。だが震えるリーファの顔に浮かんだ悲痛な表情は傷の痛みの所為ではなくて、彼女が感じている心の痛みによるものだ。義母が本気で自分を殺そうとしている。それはリーファにとって堪え難い悲しみなのだろう。
返答を急かすように強く床に押し付けられ、腕が、肩が軋んだ。しかしゼラは与えられる苦痛などまるで無視して綽綽と微笑んでやった。
「お好きにどうぞ?その金の王女が死んだところで僕には何の関わりも無いし」
エウリカの魔力など、返せる筈が無いではないか。それは十二年前のあの日にゼラの中に溶け込み、混じり合い、既に彼の一部となっている。だからこそ尋常ならざる魔力を身の内に宿した負荷に肉体が軋み、壊れ、十四歳だったあの当時から少しも見た目が変わらないのだ。不老のこの姿はエウリカの魔力の恩寵などでは決してなく、寧ろそれに蝕まれている事の証左だ。
ゼラの返事に苛立ったキアリスは周囲にまで聞こえるような歯噛みをし、地獄の底から生者を恨む亡者めいた、血走った凄まじい眼でゼラを睨んだ。抱えたリーファを引き摺るように歩いて来る、組み伏せられたゼラのすぐ正面に立ったキアリスの憤怒を孕んだ敵意を全身に浴び、心の遙か深くで爆発的に膨れ上がった感情の塊をゼラはどうにか抑え込む。
硝子の向こうに広がる落ち逝く太陽に透けた空は夜の色を深めていた。少しずつ速くなる血潮の脈動にゼラは努めて平生の呼吸を心掛ける。今にも自制が利かなくなりそうな感情の渦に対する警告のように、何処かから鋭い鳥の鳴き声が届いた。
「キアリス様、リィが警告を。…恐らくはイルゼリット皇子の仲間かと」
「いいわ。殺して来なさい。その死体をイルゼリットに叩き付けてやるわ」
鳥の声に耳を澄ませてイレーナが控えめに口を挟む。主人の許可を得てイレーナは足早に祈りの間を退出して行った。彼女の言を信じるのならば来客はヴェイン辺りだろうか。テンドが連れて来たのだろう。折角口止めをしておいたのに、到着から逆算するに白状するのが早過ぎやしないだろうか。まあ、良くも悪くも子供っぽく、性根の真っ直ぐなあの幼馴染みには元々隠し事の類は不向きであるのだが。
自分を前にした時のテンドの判り易いあの態度を思い出してゼラはほんの少し笑った。だがキアリスはそれが気に食わなかったらしく、ちらりとゼラを拘束する二人に目を遣った。拘束され掴まれた部分に痣が出来そうなくらいに強く力が込められたが、苦痛は表情には出さずに噛み殺してゼラは涼しい顔でいてみせる。キアリスは不機嫌の最高潮といった風に顔を顰め、爪先でゼラの頬を蹴った。
「本当に太々しいわね、お前は。いいわ。仲間の死体は死んだ後のお前に見せてあげる事にしましょう。ただ殺すだけじゃ私の溜飲は少しも下がらないけれど、でもそうすればエウリカの魔力も聖骸へと還るかも知れないものね」
そうしたら、私の願いを聞き届けてもらいましょう。そう言ってキアリスは表情を華やかな笑顔に一変させた。エウリカの聖骸はアルトナージュの守り神。直系の子孫である己にならば必ずや望む加護が与えられると彼女は妄信している。
ほとほと愚かな事だとゼラは思った。幼い我が子の死は、さぞや受け入れ難いだろう。だが聖骸の力など手に入れても、死者を生き返らせる事は不可能だ。それは神が如きエウリカの魔力を以てしても叶わない奇跡である。エウリカの力を宿したゼラにはそれが解るが、仮に此処で言葉を尽くしてそれを説いてもキアリスは決して理解しようとはしないだろう。対話とは双方に互いの話を聞き、受け止める意志があって初めて成立するものなのだ。
ゼラに対する憎悪と憤怒。皇女として君臨していた過去の栄華への執着。それ等に縛られたキアリスにゼラの言葉は通じまい。左右からゼラを拘束するこの二人にしてもそうだ。成功の暁に何を約束されているのかは知らないが、彼等の貪欲に権力と地位を欲する浅ましい邪念が不穏な殺気となってゼラに向けられている。
渦巻く負の情念の向けられた中心で、ゼラは暴れ出そうとする心をどうにか鎮めていた。不穏な感情に鋭敏な知覚が刺激を受けて騒いでいる。心の奥底から嘔吐感の如く迫り上がるのは、自身に向けられたものへの報復を叫ぶ魂だ。僅かにでも気を抜けばすぐにでも取って代わられそうな凄絶な感情の波が押し寄せて、何も考えられなくなりそうだった。
白く明滅するような頭の中に、機嫌を良くしたキアリスの声が耳障りに広がる。
「今度は私がエウリカの力を受け継ぐのよ。そうしたらお前の弟のフェルキースにも、すぐに後を追わせてあげる。あれだけ可愛がっていたのだからお前も嬉しいでしょう、イルゼリット。安心なさい。弟の事はお前の分まで思う存分いたぶってから殺してあげるわ」
キアリスが狂女を思わせる甲高い笑い声を上げるのを、ゼラは急に明澄になった頭で聞いた。銀の両目を見開いて其方を見上げるゼラを見下ろすキアリスは、口許が赤く裂けて見える程の歪な笑みを湛えている。
―――ああ。それだけは。それだけは、赦せないのだ。
極めて鮮明に記憶に刻まれた、けれどももう遠いあの日々の中で。ゼラにはどうしても赦せない事が一つだけあった。それはまだ幼く、皆が固執する〝帝銀〟ですらないフェルキースの命までもを彼等が奪おうとした事だ。
〝帝銀〟として生まれた我が身を恨み、どれだけ潔白を叫んでも耳を貸してもくれない従兄姉達に嘆き、自らの権力を確固たるものにするべくその気など微塵も無いゼラを帝位に担ぎ上げようとした廷臣を呪った。
帝位を望む意思が無い事を信じてもらえないのなら辺境の修道院へ行くと申し出た事もある。そうして二度と外へは出ないからと心から真実訴えてみても、疑心と敵愾心に満ちた眼で突き刺された。従兄姉は誰一人としてゼラの言を信じようとはしてくれなかった。
元から敵視されている節はあった。ゼラの方に隔意は無かったが嫌われているのならば無理に側に寄るのは止めようと思って、いつもフェルキースと二人きりで皆の邪魔にならぬよう城の片隅で過ごしていた。従兄姉等の目にはそんな姿さえも良い子ぶったいけ好かない態度に映っていたらしい。いつだったか、従兄二人に面と向かってそう言われたのを憶えている。
だから信じてもらえなかったのだろうか。振り返れば煩悶は尽きないが、今となってはもうどうにもならない事だ。従兄姉達は逃げ出したキアリスを除いて皆、ゼラがこの手に掛けている。
状況に勝利を確信しているキアリスは復讐を遂げるという甘美な陶酔に浸り、狂笑していた。生殺与奪を握るその腕の中で何も出来ずに恐れに身を竦ませている無力な少女が、かつてのキアリスの映し鏡である事に彼女は全く気付いていない。
信頼していた身内の裏切りに涙を堪えるリーファ。絶望に暮れ、嘆き悲しむその姿は己の過去を彷彿とさせた。牢から逃げ出したリーファを捕らえたあの時点でゼラはそれを直感していた。怯えた表情の奥に読み取れた、譲れない強い想いに裏打ちされた覚悟。同情と共感と、少しばかりの郷愁を覚えた。
思い出す。愛していた者達の差し向ける無数の刃に囲まれ、〝化け物〟と呼ばれたあの日を。ならば自分はそんな〝化け物〟になろうと決意した過去を。――だが、果たしてこれはどちらの記憶だっただろうか。記憶も想いも少しずつ溶けて混じって、それが自分自身のものであったのかも徐々に判然としなくなってゆく。
「……ああ。もう、どちらでもいいか」
ゼラは胸裏で爆ぜた怨嗟と憎悪の炎の欲するまま、己の魔力を振るった。床から生えるように突き出した幾本もの槍状の光がゼラを拘束する二人の男を様々な角度から串刺しにする。詠唱も無しに突然発動させた魔術に男等は抗う間も与えられず呆気無くその命を奪われた。
枷を排除して自由になった身体を立ち上がらせ、ぞっと底冷えのする仄暗い光を宿した銀眼でゼラはキアリス一人を無感動に見据える。
「逃げるなら、見逃してあげようと思ったのが間違いだったね」
あの時、ちゃんと殺しておくべきだった。ゼラは腕を掲げて宙に術式構成の為の図形を描き始める。
淡い銀の光が複雑にして精緻な図形を刻んでゆく。反攻に怒り狂ったキアリスが応戦しようと魔術の詠唱を開始する。最中、喉をキアリスの腕に締め上げられながらも懸命に声を振り絞ったリーファの叫びが谺した。
「っ、止めて、ゼラ!!殺さないで――!!」
リーファは直向きに過ぎる瞳でゼラを見つめ、泣きそうな声で義母の助命を懇願する。事此処に至ってまで義母への愛情に囚われているリーファをゼラは哀れみ、同時にまだキアリスの内に真心の存在を信じられる事を少し羨ましくも思った。
ほんの一瞬、印を描くゼラの指先が鈍る。その瞬間をキアリスは目敏くも捉え、詠唱の区切りに獣のように叫んだ。
「二人纏めて死になさい!!」
口許を邪悪に吊り上げたキアリスがリーファを突き飛ばす。ゼラの魔術が完成するのを阻止する道具として突き飛ばされたリーファは、ゼラの丁度真正面へと倒れ込んで来た。キアリスの腕から猛烈な炎が迸り、炎は荒れ狂う大蛇と化してゼラ達を呑み込もうとする。
諸共に床に倒れ込み、凶悪に笑うキアリスの顔をリーファ越しに見つめてゼラは言った。
「最期まで、愚かな女」
ゼラが呟いた小さな憐情にリーファが弾かれたように身を起こして後ろを振り返る。キアリスは笑っていた。笑った顔のまま、絶命していた。虚空に生じた晶石の剣に背中から心臓を刺し貫かれて。
「…お…かあさま……」
眼前に迫っていた炎の大蛇が霧散して消失する。ずるりと床へ崩れるキアリスを見つめ、リーファの全身から力が抜ける。愕然とへたり込む彼女とは反対にゼラはすっと立ち上がり、軍服についた埃を払った。
もう、煩わしいキアリスの哄笑は聞こえない。静かになった祈りの間には架台の幼子を含めて四つの死体が転がっている。息をしているのは、ゼラとリーファの二人だけ。耳が痺れるような静寂が降りた室内は、いつの間にか藍に暮れた空を反映して暗い。
硝子越しに儚く届く月光に、リーファの頬を伝う雫が光った。茫然として義母の遺体を見つめ続けていたリーファが、吐息よりも幽かな声で言葉を紡ぐ。
「……どうして…?」
言葉の向かう先はゼラだ。涙を湛えたリーファの金色の瞳が問い詰めるようにゼラを見る。くしゃくしゃになった顔に遣り切れない悲しみと怒りを浮かべ、リーファは両手でゼラの肩を掴んだ。
「どうして!?どうしてお母様を殺したの!?ねえ、どうして…っ!」
慕っていた。実の母のように愛していた。仮令それが見せ掛けだけの優しい演技だったとしても、リーファにとっては掛け替えの無い人だったのだ。それが判っていながら、ゼラはリーファの腕を態と乱暴に振り払った。
「なら、殺されてもよかったの?」
突き放すように言い放つゼラにリーファはぶんぶんと首を左右に振った。けれどもその仕草は質問の答えではあるまい。
恐らくリーファ自身、自分で気持ちの整理が付かないのだ。信じていた人に手酷く裏切られたという想いはある。だがそれと同じくらいにこれまでの義母としてのキアリスを愛する気持ちがあるのだ。それ故複雑に入り乱れる感情の遣り場が見付からず、直接手を下した事もあって手近なゼラにそれ等をぶつける他にどうしたらいいのか判らないのだろう。
「何で……どうしてなの…?…っく、ぅ…お母様…お母様ぁ……」
顔を覆って泣き崩れるリーファの噎び泣きが煩かった。悲しむその姿が、ぶつけられた感情が、ゼラの心を苛んで追い詰める。
ちらつく金の色に激しい動悸がした。松葉色の外套の下に微かに見えた素顔から襲撃者がイレーナであった事に気付いた昨晩の比ではなかった。持って行かれそうになる意識を必死に繋ぎ止めて、浅く荒い呼吸を繰り返す。ゼラの意識を押し退けて表層に浮上しようとする〝彼女〟の存在を強く感じて、ゼラは駄目だと懸命に抵抗した。
棺に納められたエウリカの亡骸。聖骸と呼ばれるそれに封じられていたのは、その凄まじい魔力だけではない。亡骸は、死したその後も彼女の魂の器として機能していた。あの日、花々の狂い咲くあの花離宮と称される霊廟でゼラを呼んだのは、永の年月に綻び始めた封印という眠りの淵から目覚め掛けていたエウリカの魂であった。
人間の身には強大過ぎる魔力を持って生まれた、金の中の銀の姫君。その最期は、彼女の波乱と孤独に彩られた人生を締め括るに相応しいような、悲惨極まりないものだった。
歴史上彼女の死は突然の病による急死とされているが、真相は違う。
エウリカは殺されたのだった。それも、彼女の力を恐れた彼女自身の夫や子供、股肱と頼んだ臣下等の手によって。親しい者達の裏切りにより齎された死の間際に彼女の抱いた悲憤と絶望。その余りの深さが全てを破壊しようとする凄まじい魔力の暴走を引き起こし掛け、結果、彼女はその魔力ごと亡骸に魂を封じられた。エウリカはそのまま冥府へ行く事も出来ず、かつての幽閉の日々を思わせる封印という永の眠りの底へ追い遣られたのだ。
泣きじゃくるリーファの声がやけに遠くにあるような感じがした。
お願いだから、それ以上泣かないで。責めないで。いや、責められるだけの事をした自覚はある。だが今は、それを受け止められるだけの余裕が無かった。
キアリスとの再会が。彼女がゼラへと向けた苛烈な憎悪と敵意が。リーファの悲しみと怒りが。ゼラの心の奥底に在るエウリカの魂が眠る棺の蓋を開けようとしていた。
責めるような少女の泣き声が痛い。全部私が悪いのか?どうして、などと此方が聞きたいくらいなのに。
――お願い。もう止めて。恨んでいいから。憎んでいいから。今は、今だけは。
――煩い。もう黙れ。それ程までに私が憎いか。厭わしいか。
心の最奥から感情の奔流が溢れ出す。私が全て悪いと言うのなら。そうまでして私が存在する事を嫌忌すると言うのなら。
―――私だって、もう、お前達なんか要らない。
地の底へ引き擦り込まれるような感覚にゼラは自らの意識が深みへ沈んで行こうとしているのに気付き、それに抗おうとした。代わりに表層へと浮かんで行くものを引き止めようとして藻掻くように心の中で腕を伸ばす。しかし指先は重く纏わり付く水のような何かを掻くだけで、水泡のように浮上する〝彼女〟を捕まえる事は出来ない。
身代わりのように奥底に埋葬されたゼラの意識は、其処で一度ふっつりと途切れた。しかし銀の双眸が映し出す視界は明瞭だった。足下に蹲る金の髪の少女をふと見下ろして、ゼラの顔がうっすらと表情を形作る。
心が灼け落ちる程の瞋恚を湛えた凄絶な蒼白。焦がれ続け、遂には真っ白な灰と化した望み。虚無感が心に空けた暗闇を埋めるのは、ただ憎悪。それ以外に他ならなかった。




