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「――弟を助ける為よ」
そう、凛と答えた。
己の言葉にどのような反応が返ってこようと受けて立つ心構えだった。リーファは決して揺るがぬ想いをゼラを見据えるその瞳に込めた。
「どうして?」
ゼラが少しだけ首を傾けた。弟を救う為に何故〝銀の魔王〟の聖骸が必要なのか。それを問うているのだ。
リーファは腹の辺りでしっかりと握り固めた拳をもう片方の手で包み込み、深く息を吐き出した。恥じてはいない。後悔もしていない。なら、問われた事柄に正直に答えるのが矜持だろう。
「…弟が、病気なの」
高熱に浮かされ苦しげに喘ぐ病床の弟を思い出して、リーファの胸が強い痛みに疼く。
「原因不明の病気で…侍医も匙を投げるような有様なの。侍医だけじゃなく沢山の医師にも診てもらったけど、駄目だった。色々な薬も試してみたけど、何の効果も無くて…」
少しも快方へ向かう兆しを見せない病状。苦しむ幼い弟に対してリーファに出来るのはただ傍にいてやる事か、額に浮かぶ汗を拭ってやる事くらい。そんな己の無力さが悔しくて、幾度涙を流した事か。
金の髪と瞳を持ち、神の寵愛を受けた姫君などと周囲から持て囃されたところで、大切な弟一人助ける事が出来ないのだ。無様が過ぎて自嘲さえも込み上げてはこない。
弟を襲った不幸に、その不条理に、大声で泣き喚きたくなるような毎日を過ごしていた。どうしてあの子が。あの子はあんな重い病に冒されるような悪い事なんて、何もしていないのに。
どれだけ祈っても弟を救ってくれない神の非道を嘆いた。代われるものなら代わってあげたいと、毎夜のように声を殺して枕を濡らした。そんな折だった。もしかしたら、あの子を救えるかも知れない手段があるのを知ったのは。
――強大な力を秘めた〝銀の魔王〟の聖骸ならば、あの子の身体を蝕む恐ろしい病魔を打ち倒す事が出来るかも知れない。
「だから私はアルトナージュに来たの。聖骸をあの子の許へ持ち帰ればその力で病気を治せるかも知れないって、そう聞いたから」
弟の身を案じてまた零れそうになった涙を瞬きをして堪え、リーファはゼラからの質問に答えを返した。聖骸は無事にあの子の許へ運ばれただろうか。間に合ったのだろうか。それだけが今、無性に気に掛かっている。
リーファが全てを語り終えると、ゼラは蕭々と吹く風に身を任せるように瞳を閉じた。彼の黒髪が細波立つように揺れる。
「聖骸の力で病気を治す、ね。…誰がそんな事言い出したの?」
再び開かれた左右で異なる瞳の色はいやに深い。リーファを透過してその背後を見つめているかのようなその眼差しは静かだが、瞳の奥に宿る光に奇妙な寒気が纏わり付いていた。横柄な態度に出られた訳でも脅された訳でもないのに気圧されて、リーファは怯えに小さく息を呑んだ。
ゼラは微笑んでいるが、其処には有無を言わさぬ雰囲気があった。リーファはたじろいでいる自分を自覚しつつも、表面上は平静に見えるよう意識して顎を引いた。大丈夫。怖くなんかない。この程度渡り合えなくてどうするのだ。そんな無様を晒していては、リーファを待つ弟の許へと無事に帰るという望みなど、儚い夢の内に終わってしまうかも知れないではないか。
「誰だっていいでしょ、そんなの。とにかく私はその聖骸なら、どんな恐ろしい病にも打ち勝てるような物凄い力があると聞いたの。……お願い、見逃して。弟を助けられたら、必ず聖骸は返すから。だから、だから今は、今だけは許して!」
心の底からの言葉を尽くして嘆願し、リーファは真摯な気持ちで頭を下げた。今更虫のいい願い事なのは百も承知だ。償えというのなら、この命で購ってもいい。だがそれは全て、弟が助かってから。あの子の無事を確かめてからの話だ。
長い年月、雨や風に晒され続けても尚堅牢な石造りの城壁。欠片も綻びの無い足下の石の感触を踏み締めてリーファは切望する。どうか、弟を病の淵から助ける間だけ、見逃して欲しい。
そうして、どれだけ時が流れただろうか。耳朶を擽るような微かな笑みに釣られてリーファは顔を上げた。
リーファの視線の先でゼラが笑っている。どういう訳か微笑に含まれた憐れみの情を感じ取ってしまい、リーファは困惑した。
「あんなもの、もう無くても構わないから許してあげたい気もするんだけどね」
許容とも取れるその台詞にリーファの顔が期待に輝く。だがゼラは胸壁の間に腰掛けたまま、リーファの希望を打ち砕くように蠱惑的に彼女の顔を覗き込んだ。
「問題なのはやっぱり、誰が貴女に聖骸にそんな力があるって吹き込んだか、だよね」
「吹き込んだ…って、嫌な言い方しないで!」
「事実でしょう?――ねえ、〝誰〟にそんな事を言われたの?」
吸い込まれるような銀の片眼がリーファの言葉を詰まらせる。ゼラはまた少し笑って言った。リーファが隠そうとしている事など、最初から全てお見通しだとでも言うかのように。
「貴女にそれを吹き込んだのは、貴女の母親。違う?」
「っ!?ど、どうして……っ」
「前にも言ったでしょう?アルトナージュにも密偵くらいいる、って。此処からは僕の想像だけど、貴女は母親に頼まれて弟の命を救う為に聖骸を盗み出しに来た」
リーファは思わず顔色を失った。絶句するリーファに憐憫を伴う嘲笑を浮かべ、ゼラが続ける。
「聖骸さえあれば、病魔に取り殺される寸前の弟王子を助けられる。弟王子の為にアルトナージュに行って聖骸を奪って来て欲しい。貴女はそう母親に言いくるめられ、のこのことこの国までにやって来た。それが弟王子を救う為だけではなく、同時に貴女を亡き者にする為の計画でもあるとも知らずに」
「なっ――!?」
あなた、一体何を言っているの!?
気色ばんでリーファがそう叫ぼうとするも、ゼラは滔々と次の言葉を継いでゆく。
「貴女が必要なのは聖骸が納められた霊廟の扉を開ける瞬間まで。後はもう、貴女の存在なんてただ疎ましいだけ。だって、貴女がいたら可愛い自分の息子を王位に就ける事が難しくなるしね」
「…っ、取り消しなさい!お母様はそんな方じゃないわ!あなた、一体何の権利があってお母様を侮辱するの!?」
我慢がならなくてリーファは語気荒く食って掛かった。何故そんな風に母を悪く言われなければならないのだ。有りっ丈の憤りをゼラを睨み付ける視線に変える。だがゼラはリーファの憤慨など軽くいなすように艶然と微笑んだ。
ゼラは言う。その性質の善悪に拘わらず人間を誑かして魂を喰らうという神話の魔物を彷彿をさせる、邪悪の最も純粋な部分を凝縮したような微笑みで。
「貴女の言う『お母様』は、数年前に召し上げられた現王の側室。貴女は聖ナージュ国王と亡き王妃との間に生まれた嫡子。確かに僕には貴女の『お母様』を侮辱する権利は無いだろうけど、でもだからといって貴女が現実から目を逸らしていい理由も無いんじゃない?」
「違う!そんなの現実じゃない!!」
リーファはゼラの言った言葉を残らず全部払い飛ばそうとするように、精一杯の大声で叫んだ。聴覚を覆うような風の音が酷く煩い。力の限りの絶叫に鼓動がどくどくと速まる。頭の中が火でも投じられたかのように熱かった。
違う。お母様はそんな人じゃない。それは、リーファが一番良く解っている。
お母様とは確かに血の繋がりは無いが、それでも彼女の事を私は亡くなった母様と同じくらいに愛しているし、大切に想っている。お母様もきっと同様だ。彼女はリーファを実の娘のように可愛がってくれている。リーファの事などほったらかしで碌に話もしてくれないような実の父よりも、ずっとずっとリーファに構ってくれる。愛してくれている。リーファはそう信じているし、だからこそ仮令ゼラがどのような讒言を行おうとも彼女の中に義母の愛情を疑う余地など存在しない。
「現実だし、真実だよ」
飽くまで淡々と突き付けるゼラは懐から一振りの短剣を取り出した。刀身はやや小振り。刃が収められた粗末な鞘は見るからに安価な作りで、その辺りの店先を少し覗けば何処ででも手に入りそうなありふれた物だ。
けれどもゼラが持っているその短剣は、この隣国へと赴く時に義母からもらった物だった。危険な道中で何があるかも判らないから、気休め程度にしかならないかも知れないが持って行け、と。本当はもっと質の良い短剣を持たせてあげたいのだけど、余り高価そうな物だと却って悪目立ちしてしまうからこれで許して頂戴。そう言って義母は危険な土地へ赴く継娘の身を案じ、表情を心配に陰らせながらリーファにその短剣を手渡したのだ。
「この短剣にはね、所有者の位置を割り出す為の術式が仕掛けられているんだ。貴女は気付いていなかったみたいだけどね。これのお陰で所有者――つまり貴女の現在位置は向こうに筒抜けになっていた。貴女は仲間が迎えに来てくれるのをずっと待っていたみたいだったけど、その気があれば向こうはすぐに貴女の所に来る事が出来たんだよ?でも、そうはしなかった。貴女の仲間が迎えの代わりに寄越したのは、貴女の命を奪う為の魔物達。どう?これでもまだ『お母様』が貴女を邪魔になんか思っていないって言い張れる?」
「……あなたの話なんて信じないわ。それにアルトナージュは元から魔物の多い国なんだから、襲われる事が多いのは当然よ。あれが皆私に差し向けられたものだなんて、そんな事ある筈無い」
「数や回数だけならまだあるかも知れないけどね。でも、あんな風に度々数種の魔物が混成して襲って来る事はまず無いよ。誰かが意図して指示しなければ」
嘲り混じりの声。他に反駁はあるかと問うみたいにゼラの瞳が揶揄する。服の裾を強く握り締めて、義母の名誉を守る為にリーファは懸命に反論になり得る事象を探す。
「…私を狙っての事とは限らないわ。そもそも指図って言うのなら、ルーネスこそ怪しいじゃない。私達には魔物を操る能力なんて無いもの」
言いながらリーファは少しだけ視線を下へ落とした。伏せて明かさぬつもりではあるが実を言えばルーネスの人間が一人、今回の聖骸奪取に関わっていた。リーファ達は義母の知り合いだという彼の力を借りる事で、他国を経由して大きく進路を迂回する事無く直接国境の山脈を越えてこの国にやって来たのだ。彼は巨大な翼蛇の背に皆を乗せ、蛇尾を絡ませるように馬車を持ち上げさせて軽々と険しい山々を通り抜けさせてくれた。その事に心から感謝はしているが、本当のところリーファは彼の歪な笑みと昏い眼が怖かった。
力無い反論から内心の隠し事を看破されてしまうだろうか。リーファは少々不安になったが、ゼラは気付いていないのか、それとも察していながら言及しないだけなのか、くすりと笑うだけだった。
「残念だけど、この国に暮らすルーネスの人達は僕に対して負い目があるんだ。だからこれ以上自分達の誇りを貶めるような行動はしない。狙われているのは、貴女。貴女は正式にこのアルトナージュを訪問している訳じゃないから、金の王女が現在この国にいるのを知っているのは極一握りの人間だけ。僕達は勿論、ルキにも敢えて貴女を殺そうとする動機は無いから、魔物を差し向けているのは間違い無く貴女の仲間。理解した?」
ゼラは理詰めでリーファの退路を断っていく。段々と反論も出来なくなってゆく自分が歯痒くて、リーファは奥歯を噛み締めた。
あの優しいお母様が私を邪魔に思っているなんて、認められる訳が無い。ましや殺そうとしているなどと、納得出来る筈などあろうか。リーファは必死になってゼラの突き付けてくる傍証に抗う為の言葉を集めようとする。だが、ゼラの話を覆すに足る言葉がどうしても見付からない。
いつの間にかリーファに出来るのは義母の無実を訴え、その愛情を信じ、ひたすら感情的に違うと怒鳴る事だけになっていた。
怒号を上げるのは簡単だ。だがそれではゼラの示した事柄を躍起になって否定したいだけのようになってしまう。言葉尽きて義母と己の真心を守れない事が悔しく、てリーファの目には涙が滲み出した。
リーファが反論出来なくなったのを見て、ゼラがぽん、と腰掛けていた胸壁の隙間から降りる。腰の辺りから上体だけを前に傾けるように屈めてゼラはリーファの顔を見た。泣くのを堪えているリーファとは対照的に至って普段通りに微笑みを浮かべている様が酷く憎らしい。
「ねえ、一つ賭けをしない?」
急になされた意味不明の提案にリーファは俯かせていた顔をゼラの方に向けた。
「貴女は僕の話を信じていないでしょう。なら、賭けよう?貴女の勝ちなら僕は貴女達への非礼の数々を誠心誠意きちんと謝って、其方の用が済むまで聖骸を貸してあげる。その代わり僕が勝ったら、大人しく仲間の居場所と聖骸の在処を教えてね」
ゼラの持ち掛けてきた賭け。それは今夜彼が幻術でリーファに化けて彼女の仲間を誘き出すというものだった。
リーファの居場所は短剣に仕込まれた魔術で相手方に判るようになっている。なのでリーファに化けたゼラが人気の無い場所に一人でいるのを装って相手を誘う。もしもリーファの仲間がやって来れば短剣に魔術が仕込んである事の証明となり、更にはその後の向こうの出方で事の真偽も定まるという話だ。
「あなたが自分で短剣にそういう魔術を施す事もあり得るじゃない」
「面白い事言うんだね。だけどそれじゃあ向こうに貴女の居場所は判らないよ?僕が其方側と裏で繋がっているって言うのなら、話は別だけど」
せめてもの嫌味もさらりと躱された。リーファは唇を尖らせてぷいと横を向く。鞘の腹を指でなぞって、そのまま空に翳すようにゼラは短剣を顔の高さに持ち上げた。
「こういう器物に何らかの魔術を施すのアルトナージュが一番得意とする術式なんだよね。ねえ、貴女の『お母様』がアルトナージュ出身だっていう噂は本当?」
その質問にリーファは無視して答えなかった。
この少年延いてはアルトナージュという国は、何処までリーファの故国の内部情報を知っているのか。帰ったら宮廷内に密偵が潜んでいる恐れがある事と、その洗い出しと粛清を父王に進言した方がいいかも知れない。
賭けなんて、どうせリーファの勝ちに終わると思っていた。義母がリーファを疎んじている筈など無いと、本気で寸分の疑いも無く信じ切っていたからだ。
だが、結果はどうだ。
その夜。城塞の城壁部分に佇んでいたリーファの姿を模したゼラの許へやって来たイレーナは、あろう事かリーファの命を奪う為に刃を振るおうとしたのだ。
何が起こったのか、理解が追い付かなかった。凶刃に晒されたのはゼラであり、その刃とて彼には届かず阻まれたのだが、リーファは自身の肉体が振るわれようとした長剣の軌跡そのままに両断されたかのような衝撃を受けた。
狼狽しながらも彼女に何故と問い掛けるリーファをイレーナは無視し、言い訳の類すら一言も口にする事無くその場から逃げ去った。逃げたイレーナの後をヴェインが追って行った事も、その直前にゼラが唐突に苦しみ出した事も、リーファの意識には入って来なかった。義母の御付きの騎士であるイレーナがリーファを殺さんとした。それまではただゼラの言い掛かりでしかなかった事柄が、この目で確かめた覆しようの無い事実に変わっていってしまうようだった。
激しい動揺に襲われた所為か、その直後の事は余り覚えていない。気が付いたら、割り振られた城塞内の一室にいた。明かりの灯されていない部屋は暗く、細い窓から射す月の光が清かで、一度は収まった筈の涙がまた溢れた。
泣いて、泣いて、傷付いた心中に義母の優しい笑顔を思い出していた。そんな時だ。静かに部屋の扉が開いたのは。
幽けき月光だけが照らす室内へと滑るように入って来たのは、月明かりよりも青白い顔をしたゼラだった。泣き腫らした顔のリーファをじっと、其処に佇む亡霊のような風情で見つめ、彼は言った。
「貴女にその気があるのなら、彼方の真意を問い質す機会をあげるよ」
――そして、リーファは今、此処に帰って来た。
白茶けた堅い土を踏み、視線を上げる。北向こうに天嶮と称されるノルディス山脈の屹立する稜線を望むこの高台は、太陽を司る光の神ラクーシャを祀るこの国の信仰のかつての聖地であった。聖ナージュ王国が国家としての形を成す以前から存在するという豪壮な神殿へ震えるような瞳を向けて、リーファは暫しその場に立ち尽くした。
天より地面へと投げ掛けられる飛竜の影が小さくなり、遠ざかる。蒼穹を舞う鳥の一声の如くに響く、長く高い口笛はその背にいるテンドのものだろう。
ゼラの手引きによってアークスの砦を抜け出すと、其処にはテンドとその飛竜ディルカが待っていた。ゼラからの急な呼び出しにふてくされたような表情をしていたテンドだったが、ゼラが用件を告げるとテンドはリーファにしてみれば拍子抜けなくらいあっさりとそれを承諾し、彼女をディルカの背に乗せて飛び立ったのだった。
夜明け前の暁闇に乗じてアークスを発った。リーファが行き先を教えるとテンドは万が一にも人目に付かないようにとのゼラの言い付けを守り、直接国境線の山脈を越えるのではなく、やや距離を取りつつ山並みに添うように東に向かって大きく迂回して神殿のある高台を目指した。
頼りの無い高所での恐怖に堪えて飛び続ける事約半日。命令に従いリーファを無事に目的地まで送り届けてくれたテンドは役目を終えて去って行く。彼とその飛竜はすぐに単なる点にしか見えないような高度まで上って行ってしまう。彼等の姿を感謝を込めて見送ってしまうと、これで本当に一人きりだと実感して、リーファはごくりと唾を飲み込んだ。
元は白く美しかったのだろう神殿も、今となっては古惚けて土の色に薄汚れていた。それもその筈、神殿はアルトナージュ帝国との国境に程近いという理由で彼の国との戦の直中にあった時代に放棄されているのだ。現在は此処よりもっと南西の地に、光の神を奉じる立派な大神殿が建てられていた。しかし打ち捨てられても尚この神殿は偉大なる光の神を祀るに相応しい威厳と神聖さをその外観に備えており、山脈を背にどっしり構えるその様は恰もこの地に君臨する王者であるかのようだ。
心に吹く臆病風が歩みを鈍らせる。だが、いつまでも此処で立ち尽くしている訳にはいかない。リーファは義母と対面する決意を胸に、閉ざされた神殿の扉へと手を伸ばした。
非力な両腕には重い扉を自分が通り抜けられる分だけ何とか押し開け、そっと中へ足を踏み入れる。静謐。呼吸も足音も、動く際のちょっとした衣擦れさえもが神殿の玄関広間に大きく谺してしまいそうで少し怖かった。
無人のような無音が占める廃墟同然の神殿をリーファは義母を探して歩く。光の神の神殿だけあって内部には至る所に明かり取りの窓があり、天空に坐す太陽の恵みの光をふんだんに取り入れられるように造られている。その為明かりには困らなかったが、射し込む幾本もの光の帯が空気中に舞う埃を映して神殿内に寂しげな影を落としていた。
お母様は何処にいるのだろう。人の気配に乏しい神殿内に義母を探して彷徨うリーファの靴音だけが響いている。どきどきと脈打つ心臓が不安を煽り、鼓動に急き立てられるようにしてリーファは駆け出した。
玄関広間を真っ直ぐ奥に走り抜け、扉を一つ潜る。その先は大きな祭壇の設えれた祈りの間へと続く細くて長い廊下になっていた。元は鮮やかだったのだろうが降り積もる時に褪せて色柄の判らなくなった綴れ織りの壁掛けが目に付く。破れた壁掛けの一部が死人の衣のように薄気味悪く垂れ下がる廊下をリーファは息を切らせて走った。
廊下の先で輝く太陽の意匠の彫刻のなされた両開きの大扉に突き当たり、立ち止まる。この神殿に来てから、お母様はよくこの祈りの間を訪れていた。だから今日も此処にいるかも知れない。
リーファは扉を開こうとし、自分が何をしに此処へ帰って来たのかを考えて二の足を踏んだ。もしも顔を合わせたとして、果たしてどのように話を切り出せばいいのだろうか。此処まで来てもリーファの心の中にはまだ義母を信じる気持ちが失われてはいなかった。いざ本人を目の前にして、お母様はまさか私を邪魔に思っているのですか、などとはとても言えそうにない。
義母を信じる心と、彼女の配下であるイレーナの行動から生じた疑念との狭間でリーファの感情は揺れ動く。
会って、問い質したい。違うと、そんな事は無いと言って欲しい。
だけど、ならどうしてイレーナはリーファの命を奪おうとしたのか。イレーナは幼い時分から義母に仕えているという、主人の命令に忠実に動く従順な女性だ。そのイレーナが独断でリーファを亡き者にしようとするような、そんな大それた行いに走るとは少々考え難い。
扉の先へ行こうと腕を伸ばしては、また引っ込める。そんな躊躇いを幾度となく重ね、時間ばかりが徒に過ぎてゆく。
このままでは駄目だ。リーファの望むものと望まぬもの。どちらが真実であるとしても、義母に会わなければはっきりとはしないのだから。
深く息を吸って、吐き出す。空気の埃臭さに少し噎せそうになった。気を取り直してリーファは唇をきゅっと引き結んで扉に触れる。アルトナージュのあの霊廟へ入り込んだ時よりも緊張している自分を感じていた。
「…きゃっ!?」
扉を押そうと力を込めると、同時に押そうとした方向へと扉が内側から引かれ、リーファは驚いて小さく悲鳴を上げた。
「――…リーファ?」
訝るような女性の声にリーファは目線を上げる。扉の向こうに立っていたのは、探していた義母その人であった。意志の強そうな目鼻立ちのくっきりとした美貌の中でも特にその印象の際立つ切れ長の瞳を驚きに丸くして、義母キアリスはリーファを凝視している。
「お、お母様…」
義母と話す為の言葉は神殿に到着するまでに一生懸命に考えていた筈なのに、こうしていざ対面を果たすと思い通りに言葉が出て来ない。予期せぬ再会に面食らってまごつくリーファだったが、同じように驚いた顔をしていたキアリスは二度、三度と瞬きをしてから、ぱっと華やぐように破顔してリーファを抱き締めた。
「ああ、リーファ!よかったわ。よく無事でいてくれたわね」
キアリスはリーファをその腕にきつく抱き締め、感極まった様子で安堵に声を潤ませた。
「戻って来たイレーナ達から貴女が捕まってしまったと聞いて、ずっと胸が潰れるような想いでいたのよ。本当に、本当に無事でよかった。大丈夫?酷い事はされていない?貴女にもしもの事があったら、私……」
抱き締めたリーファに頬を寄せながらキアリスは指先で涙を拭うような仕草をした。
「…お母様。……心配掛けて、ごめんなさい」
キアリスの柔らかに波打つ胡桃色の髪が頬に擽ったい。義母の胸のほっとするような温かさに包まれて、リーファの口からは自然とそんな言葉が零れた。
王宮へ彼女がやって来たその日から幾度無くリーファの心を温めてくれた、優しい〝母〟の腕。生母を亡くし、父王からは顧みられない独りぼっち同然の日々の寂しさを癒してくれた温もり。この温もりに抱かれてしまえば、事の真偽を問う気持ちなど何処かへ消え去ってしまう。
その腕の中からそっと義母を見上げる。編み込んだ前髪に縁取られた義母の顔は此処を発った日と何処も変わったところなど無くて、血は繋がらなくても彼女は愛情深い母親そのものに思えた。
――けれど、本当は自身でも理解しているのだ。リーファは義母を『信じている』のではなく、ただ『信じたい』だけのなのだ、と。その二つは似ているようで、しかし遠く掛け離れたところにある想いだ。
胸の中が酷く重かった。まるで言い出せずに呑み込んだ言葉が胸の奥で痼りになっているみたいだ。だが口にしてみたところでこの沈痛な気持ちが和らぐとは考えられなかった。
リーファの内心の懊悩など露知らず、キアリスは継娘を気遣う笑みを見せて、優しく身を離してリーファの腕を取った。
「さあ、とにかく少し休みなさい。たった一人で此処まで逃げて来るのは大変だったでしょう?今、お茶を入れさせるわ」
されるがままリーファは母に導かれて来た道を辿り、昔は神官達の居住区画であったと思われる小部屋の一つに通された。室内はある程度の掃除がなされており、廊下などの他の場所と比べると綺麗に整えられている。
「此処で少し待っていてね。温かいお茶でも飲んで、ゆっくりと身体を休めて頂戴」
そう言ってリーファを小卓の側の椅子に座らせてキアリスは出て行こうとする。その背中にリーファはおずおずと声を掛けた。
「お母様、あの…アルターは?」
帰って来たのなら、弟の具合を確かめたかった。病状の方も勿論に気に掛かるが、リーファが行ってしまう事に対して出発の際、病に苦しむか細い声で「行かないで」と懸命に訴えていたのだ。アルターを助ける為とはいえ、傍に付いていてやれなかった事であの子には随分と寂しい想いをさせただろう。出来るなら自分が戻った事を伝えて、その傍にいてやりたい。
「アルターは今、眠っているの。もう少ししたら会わせてあげるから、貴女も今は休みなさい。命辛々あの悪魔が支配する国から逃げ出して来たのだもの。休息は必要だわ」
義母からの返答にリーファはしょんぼりと肩を落とした。部屋を出て行ったキアリスの足音が遠くに去る。暫くして雑用の為にキアリスが連れて来ていたお付きの侍女がお茶を運んで来てくれた。少し言葉を交わして彼女が去るとリーファはまた一人になった。
お茶のカップを両手で包み込むと冷えた指が温まった。リーファは湯気の立ち上るカップの水面を伏せた瞳で見つめる。
王宮の侍医達でさえ治す事の叶わない重病に倒れた弟。キアリスは息子を救う為にまず神に縋った。役に立たない医師達を見限り、日増しに衰えてゆくアルターを連れて少数の側仕えを引き連れ王家の祖先神である光の神を祀る大神殿へと向かった。リーファも無理を言って同行を許可してもらい、キアリスや大勢の神官等と一緒に神へと一心不乱に祈りを捧げたのだ。
どうか、アルターをお救い下さい。私に出来る事なら何でも致します。
だが、幾ら祈ってもアルターの病状は回復しなかった。キアリスは神官等の祈りが足りないからだと怒り、引き留めようとする神官達を振り切って、この現在は放棄された古い神殿へと移動した。リーファはより天空に近い此方の神殿の方が神のお目に留まり、祈りが聞き届けられるかも知れないからとキアリスがこの神殿に来たのだと思ったのだが、義母の抱く考えはそうではないようだった。
神になど祈っても無駄。全能と讃えられる光の神とてあの医師や神官達と同じで、アルターの命を救うのに何の役にも立たないではないか。リーファはその言葉の苛烈さに天罰が下らないだろうかと懸念したが、義母は果断にもそう言い切ってアルターを救う為の次なる手立てを講じた。それが、隣国アルトナージュの初代皇帝〝銀の魔王〟の聖骸を盗み出す事だった。
溜め息のようにお茶に息を吹き掛けると、水面に映る己の顔が揺らめいた。
キアリスは、元はアルトナージュ帝国の生まれだ。故あって故郷を追われたそうだが、彼女はその理由をはっきりとは教えてはくれなかった。ただ、酷く残酷な目に遭ったのだろうという事は推測出来た。キアリスがアルトナージュを語る時には、必ずその青い瞳に瞋恚の炎が燃え上がるのだ。リーファが知っているのは、国を追われた時にキアリスが全てを失ったらしいという事。家も、身分も、兄弟も。何もかもをキアリスは彼女が〝悪魔〟と呼ぶ男に奪われてしまったのだ。
リーファがイレーナ等に付いて旅立つ時も、キアリスはアルトナージュを支配する〝悪魔〟の存在を強く匂わせ、重々気を付けるようにと言っていた。アルトナージュの皇帝というのはそんなにも恐ろしい人間なのかとリーファは書物に伝えられる彼の国の様子もあって出発前から大層恐怖を覚えたものだが、幸いというか、直接関わり合いになる事はほとんど無くて済んだ。とはいえ追っ手を足止めするのに馬車から飛び降りて兵に捕まった際にちらりとその顔を見たのだが、あれは確かに〝悪魔〟と呼ぶに値するだろうと思った。ちらりとその視線に掛けられただけで全身が粟立つような、怖いくらいに冷たい眼をした青年だった。
物思いに耽りながら、お茶を一口啜る。温かい。だが、濃過ぎて少し苦みが口に残る。リーファはカップを置いた。一人きりの静けさが胸に痛いのは、王宮の奥に押し込められるようなあの生活を思い出すからだろうか。
アルターに会いたかった。リーファをただの姉として慕ってくれる、小さな可愛い弟。
一緒にアルトナージュへ行ったキアリスの側仕えの者が戻って来ているのなら、聖骸も既に此処にある筈だ。もしかしたらもうすっかり元気になって、けれどもまだ病み上がりなのに神殿の中をやんちゃに走り回ろうとして、母親に叱られ、渋々寝台に入って眠っているのかも知れない。
ちょっと様子を見るくらいなら、構わないだろうか。起こしてしまう事が無ければ、ほんの少し顔を見に行くくらいなら、多分キアリスも許してくれるだろう。
最初は違和感があったが今ではすっかり身に着け慣れてしまった変装用の眼鏡を外し、羽織っていた肩掛けを脱ぐ。少し肌寒いが、髪と瞳の色の違いでアルターを驚かせてしまうよりはいいだろう。あの子は自分がリーファが同じ金の瞳をしているのを「ねえさまといっしょだね」と、とても喜んでくれていた。魔術による見せ掛けの変化といえど、一瞬たりともあの子をがっかりさせたくはない。
リーファはこっそりと部屋を抜け出して、アルターが寝ている部屋へ向かった。
自分の足で歩く事すら出来ないくらいに弱っていたアルターが寝かされたのは、リーファのいた部屋のある場所から丁度反対側に位置する廊下の奥にあった広い部屋だった。往時には神官長などのような地位の高い人間が使っていた私室だったのだろう。リーファがいた部屋の何倍もあるような大きな部屋の、それに見合った立派な扉の前に立って、中の様子に耳を欹てる。
「……?」
何の音もしない。扉や壁が厚い所為でアルターの寝息が聞こえないのだろうか。そう思って扉に耳を当てて聞き耳を立ててみるが、物音どころか室内に人の気配がしない事に気付き、胸騒ぎに駆られてリーファは室内に飛び込んだ。
「…アルター?」
部屋には誰もいなかった。寝ているアルターがいる筈の寝台は空っぽだ。寝具は撥ね除けたかのように乱れていたが、寝台には誰かが寝ていた証である温もりさえ残っていない。
鼓動が跳ねた。ざわざわと嫌な感じに騒ぐ胸にリーファは堪らず部屋を飛び出して弟の姿を探し回った。
もしや入れ違いになったのでは、と元の部屋まで戻ってみたが室内には冷たくなったお茶があるばかりで、アルターのあの愛らしい笑い顔には出逢えなかった。
不安が立ち尽くす足下を焦がしてゆくようで、リーファは居ても立ってもいられなくなって再び走り出す。途中で見掛けた部屋を手当たり次第に覗いてみるが、何処も彼処も無人でアルターどころかキアリスやその配下の者さえ見当たらない。
朽ちた神殿内の静寂を打ち破るような慌ただしい足音を響かせてリーファは駆けた。一つ部屋を覗く度にその強さを増す心臓を喰い破るような不安を、言い知れぬこの胸騒ぎを振り払うように。
やがて、一種の予感めいたものに導かれて辿り着いたのは、先刻義母が出て来た祈りの間。閉め切られた扉を縋るような想いで開く。
扉を開けた刹那、光が溢れた。見上げた頭上には天井を切り取ったかのように透明な一枚硝子が嵌め込まれている。リーファの知り得ぬ古代の魔術か何かで保護されているのだろうか。一点の曇りも汚れも無い天井硝子の向こう側の空は、陽の傾き出した黄昏の色。神殿に参った多くの人が一堂に祈りを捧げられるようにか、広い室内は扉の正面最奥に壮麗な祭壇が設えられている他にはがらんどうだった。
祭壇の後ろの壁にある光の神の尊容を描いたと思しき色硝子が光を透過させて様々な色を落とす祭壇の、その手前。祭壇の一部と思しき四隅に火の灯らぬ燭台の置かれた横長の架台の上に寝かせられた小さな子供がいるのに気付き、リーファははっとして弟の名を呼んだ。
「アルター!」
弟の姿しか目に入っていなかったリーファは其方へ駆け寄ろうとして、架台の足下に置かれていた物に躓いた。転んで、角らしき所に思い切り打ち付けた脛がじんじんと痛み、思わず涙が出た。だが今は何に躓いたのかよりも弟の傍へ行く事の方が大事だった。
痛みを我慢して蹌踉き立ち上がり、架台の傍らに立ってその縁に手を乗せる。上から覆い被さるように覗き込んだ弟の顔は妙に青白く、蝋のような色をしていた。
リーファは弟の丸い頬にそっと指を伸ばした。
「――っ!?」
冷たい。まるで氷のようだ。
冷え切った弟の頬に触れた瞬間、胸の中が狂ったように暴れ出した。冷たい。その意味を理解する事を心が拒んで、リーファは嫌だと首を振って、横たえられた弟の小さな身体に縋り付いた。
「アルター。ほら。私、帰って来たよ」
返事は無い。当然だ。だって、アルターは、もう。
だがリーファは頭の何処かにある冷静な部分が囁く事実に耳を塞ぎ、眠る弟の胸が上下していない事にも気付かない振りをした。けれども幾ら考えないようにしようとしても、何度呼び掛けても弟からの返事は無く、心は段々と現実に浸食されてゆく。
「ねえ、アルター。…アルターぁ……」
掠れる声には次第に嗚咽が混じり、視界がぼやけた。悲嘆に詰まる喉が灼けるように痛くて、呼吸が苦しくなった。このまま息が止まって死んでしまえば、アルターのいる場所まで行けるのに。
しかしリーファの想いとは裏腹に、荒いながらも彼女の呼吸は止まる事無く続く。絶えてしまった幼い弟の呼吸は二度と戻らないのに。あの愛らしい笑顔も、「ねえさま」と呼んでくれる舌足らずな声も、もう二度と、見る事も聞く事も出来ない。
ぽたり、とリーファの涙が一雫零れ、アルターの顔に落ちた。そのまま頬を伝って流れ落ちる様はまるでアルターが泣いているみたいで、リーファは到頭声を上げて泣き出した。
悲しみの涙なんて生母を亡くした時にもう枯れ果てたと思っていたが、涙は後から後から溢れ出してきた。結局間に合わなかったのだ。必ず助けると誓ったのに。行かないでと呼ぶ声を思い出して、こんな事なら傍にいてあげればよかったと後悔が津波のように押し寄せる。
リーファは言葉にならない謝罪を泣き叫んだ。ごめんなさい。もっと早く戻って来ればよかった。あなたはこんな私なんかに傍にいて欲しいと言ってくれたのに。ごめんなさい。
弟の遺体に取り縋ってリーファは泣き続ける。その耳にふと、複数の足音が触れた。高い踵が床を叩く響き。お母様だ。虚ろにそう思って、流れる涙もそのままにのろのろと顔を上げ、架台に取り付いたまま後ろを振り返る。
キアリスは真っ直ぐに祭壇前の架台へと近付いて来る。その後ろに外套を脱いだイレーナの姿もあったが、今のリーファには彼女の存在などは気にならなかった。アルターが死んでしまった。その事を、この心を引き裂かれるような悲しみを、母に伝えたかった。
「お母様…アルターが……」
「大丈夫よ、リーファ」
キアリスはにっこりと笑った。何が大丈夫なのだろうか。アルターが死んでしまったのに。お母様は何を言っているのだろう。リーファは頭の芯にずきりという痛みを覚えながら義母を見つめる。
「本当に大丈夫なのよ?だって、これがあるんですもの」
キアリスは架台に辿り着く少し手前で足を止めた。笑むキアリスの視線がリーファから自身の足下へと移動する。何かを指し示すようなその目線に促されるようにしてリーファは義母の足下に目を遣った。
キアリスの足下には古びた石の棺があった。さっきリーファが躓いたのはこれだったのだろう。恐らく例の聖骸が納められているあの棺だ。
棺に封をしていた重い蓋は取り払われており、少し覗けば石棺の中身が見える。棺の中を見て悦に入るように笑うキアリス。冷たくなった弟を目の当たりにしてあらゆる思考を拒否しているリーファは、そんな義母の様子にほとんど条件反射のように棺の中を見た。
「……え?」
まず目に飛び込んで来たのは、眩いばかりの銀の色。悲しみに霞掛かったリーファの思考の定まらない頭にもそれが異常であるのが判った。棺の中に納められていたのは、白骨でもなければ干涸びた木乃伊でもなかった。
棺に眠るのは、棺から溢れそうな程長く豊かな銀髪をしたうら若い女性。簡素な意匠の黒のドレスを屍衣として纏い、その端々からは雪のように白い素肌が覗いている。閉ざされた瞼を縁取る長い睫毛の色も銀。輪郭の線も滑らかなその面立ちが恐ろしいくらいに整っている事すら見間違いようもなく判別出来る。
今にも瞳を開けて起き出しそうな、だが紛れも無く死体であるのが察せられるアルターと同じ死人の青白さを持ったその女性を、リーファは茫然と眺めた。
「これがエウリカの聖骸よ。どう?生前の姿をそのままに留めているの」
キアリスはこつこつと靴音を鳴らして棺を回り込み、リーファの方へと歩いて来る。
「その身に宿す強大過ぎる魔力の所為だと言われているわ。彼女の力なら、きっと、私のアルターを救う事が出来る」
数百の年月を経た後も生前の姿を留め続ける〝銀の魔王〟。それはまるで永遠の命を有しているかのようだ。確かにこの亡骸に秘められた力であればアルターの病を快癒させる事も可能であったかも知れない。だが、アルターはもう死んでしまったのだ。
―――如何に強大な力といえども、死者を生き返らせる事など可能なのだろうか?
「お母様…」
「大丈夫だと言ったでしょう?アルターは必ず生き返るわ。聖骸ならばそれだけの力がある筈だもの」
見上げるリーファの視線が含んだ疑問を汲んで、キアリスは艶やかに紅を差した唇を深い笑みの形に変えた。真紅の三日月のようなその薄笑いに我知らず半歩後退るリーファに、優しい義母であるキアリスは言った。
「――だから、あの子の代わりに死んで頂戴。リーファ」
残酷な言葉と共に、キアリスに良く似合う豪奢なドレスの広がる袖の内側から、抜き身の短剣が現れる。夕闇に溶け残った陽光を受けてぎらりと光った鋭い刃の先端を継娘へと向けながら、キアリスは片一方の手で編み込んだ前髪を解いた。
キアリスは軽く頭を振って、顔を覆ってふわりと靡いた髪を払った。前髪に編むことで紛れ込ませていた、胡桃色の中に一筋入り交じる血統の証たる銀の髪が淡く輝く。
「血筋の者の祈りになら答えてくれると思っていたのだけど、どういう訳かエウリカは何も応えてくれないのよ。ええ、大丈夫。原因は判っているわ。きっと目を覚ます為の力が足りないのよ。昔、簒奪者に奪われてしまった所為ね。でも平気よ。その分貴女を生贄に捧げれば、エウリカは絶対に私の願いに応えてくれる。あの悪魔に力を貸してやるくらいなのだもの。彼女の正当血統である私の祈りに応じない筈は無いわ。そう。ちょっと力が足りないだけなのよ。よかったわ。貴女が死なないで此処まで帰って来てくれて。イレーナの無能さも少しは役に立つ事があるのね」
一息に言葉を続けるキアリスの様は一種狂的で寒気がした。どうして、と問う想いが込み上げたが、無感動に翳される刃に口にしようとした言葉は泡沫のように消える。その青い瞳の迫力にその場に縫い止められ、リーファはただ、優しかった筈の義母を見つめた。
キアリスがリーファの事よりもアルターを愛している事は、何となく感じていた。自分達に対する態度に差違がある事など、接していればそれとなく解る。だがそれは仕方の無い事だと思っていた。父親は同じとはいえアルターは彼女の実子であり、リーファは亡き王妃の遺児だ。扱いに多少の差が生じるのは無理も無い事だと思う。それに加えて王妃の座は疾うの昔に空白であるのに、召し上げられて以降側室という立場に留められているキアリスには思うところもあるだろう。
しかし、キアリスはリーファに優しくしてくれたのだ。母を亡くして寂しい想いをしていたリーファにそっと声を掛けてくれた。何かと気に掛けてくれた。時には部屋に招いてお茶をご馳走してくれたり、たわいないお喋りに興じる事だってあったのだ。アルターが生まれてからもそれは変わらず、リーファはキアリスをお母様と呼んで慕い、キアリスもそれを喜んでくれていたように見えた。少なくとも、リーファは義母を生母と同じくらいに愛していたのだ。
あの優しさは、慈しみは、掛けてくれた愛情の全ては虚構であったのか。我が子を蘇らせようと継娘の命を奪おうとするキアリスは、リーファをお茶に招いてくれた時と打って変わった残酷な声色で口を開く。傲慢な微笑を湛えたその顔は『温かな義母』という仮面を剥ぎ取ったかの如くで、一欠片の情も感じられない。
「ごめんなさいね、リーファ。でも、アルターの為だもの。貴女も喜んでその命を差し出してくれるわよね?」
刃物を手に一歩ずつキアリスが迫り来る。リーファは本能的に身を引いた。キアリスを見つめたまま後方へ逃れようとして架台に阻まれる。架台にぶつかった瞬間に生母の形見の腕環がその存在を主張するように音を立てた。けれどもその時にリーファが見ていたのは、腕環ではなく架台に横たわる幼い弟の亡骸だった。
――私が死ねば、アルターが生き返る?
それが本当なら、それでもいいような気がした。義母の裏切り――いや、もしかしたら初めから愛されてなどいなかったのかも知れない。そう思わせるようなキアリスの冷酷な眼光がリーファの心から抵抗する気力を根刮ぎ奪い取っていた。
リーファは弟の事が何物にも代え難いくらい大切だった。その弟を失って、これからの生に何の意味があるのだろうか。父には遠ざけられ、生母は疾うにおらず、義母からは死を願われる。何も意味など無いだろう。ならばいっそ此処でこの命を捧げ、愛する弟が蘇り幸せに暮らす為の人柱になる方が余程素晴らしいのではなかろうか。
刃が煌めく。義母が笑う。リーファは肩越しに弟の顔を見つめ――、
「―――相変わらず、身勝手な女」
冷たく冴えて徹る、だが声質そのものは柔らかな印象を持つ少年の軽蔑が聞こえた。次いで、強烈な風弾が刃を振り翳すキアリスの腕を打ち、その手から短剣が飛ぶ。
短剣が床に落ちた音の残響が続く。打たれた腕を押さえたキアリスが邪魔が入った事に対する怒りを露わにして、声の主を探して顔を彼方此方に向ける。
「誰!?」
それまで一言も発さずにその場に控えていたイレーナが剣を抜き、周囲に視線を巡らす。リーファは誰もいなかった筈の空間に、影が落ちるようにして一人の少年が現れるのを見た。
魔術が起こした風の名残に黒い髪と同色の軍服の裾が揺れる。怒り、唖然、警戒。三者三様に彼を見つめるリーファ達を見返して、紫苑と銀の瞳が哀れみ混じりの蔑みに細められていた。




