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威嚇音と一緒に吐き出される生臭い息が顔に触れる。すれすれに引き付けて躱した翼蛇の牙を見送ってヴェインはしゃがんだ体勢のまま、剣で通り過ぎて行く長い胴体を斬り上げた。
弾かれるような手応え。翼蛇の鱗は一枚一枚が小さいながらに硬く、鎧獅程ではないが刃が通り難い部類に入る。不完全な一撃とはいえ、引っ掻き傷程度しか与えられなかったのは痛い。
「この――っ!」
クロアが彼には珍しい大声を発して幾つもの氷の矢を撃ち出した。氷矢は微細な氷の欠片を奔る冷気の尾に散らせて翼蛇目掛けて飛んで行くが、太い蛇尾に打ち払われて儚く霧散する。
縦横無尽に空に躍り上がる翼蛇の背から盗賊の首領の高笑いが聞こえた。完全に遊ばれているようだ。その驕慢さには目に物見せてやりたいところだが、如何せん敵は空を翔ており、思ったようには攻撃を加えられないのが現状だった。
的が大きいのは幸いなようにも思えるが、この場合、敵である翼蛇の大きさは彼方の攻守の能力に直結している。あの大木の幹のような蛇体にまともに打たれでもすれば、まず立ち上がれなくなる事だろう。
次の詠唱を行うクロアの声に少なくない焦りが混じる。まだ冷静さを欠いてはいないがヴェイン自身も形勢の不利は悟っていた。充分な剣撃を叩き込むには翼蛇に地上に降りて来てもらわなければならないが、向こうが下へ降りて来る時はその巨体でヴェイン等を叩き潰そうと攻撃を仕掛けてくる時に他ならない。翼蛇の圧倒的な体躯は回避をするにも大きく動かなければならなく厄介であり、躱して直ぐ様反撃を、という具合にもいかないのだった。
悠々と空を泳ぐ翼蛇。クロアの魔術が完成し、三つ巴に回転する雷球が生じる。連なる雷球は翼蛇の側近くで分かれ、それぞれに敵へと向かって行く。三方向から翼蛇に襲い掛かる雷球は、しかし命中する直前で翼蛇の背から振るわれた鞭に薙がれ、水泡が弾けるみたいに消失してしまった。
「…手強いですね。このままではジリ貧ですよ」
クロアが翻る翼蛇の腹の向こう側を睨む。
「どうにかして地面に引き擦り落とすしかないか」
「どうにかってどうするんです、副長?」
打開策があるのかと期待して尋ねるクロアにヴェインは右肩を軽く竦めてみせた。そんなもの、ある訳が無いだろうとの意を込めて。
「…副長の貴重な冗談、こんな状況でなければ有難く拝聴したんですが…」
あからさまに気落ちした様子でクロアが項垂れる。ヴェインは幾度目かになる急降下の前兆を見せる翼蛇を注視しながら言った。
「戦意が萎えた時点で負けだぞ」
「此処で根性論ですか?気合いでどうにかなる場合と無理な場合があると思うんですが、この場合は後者ですよね」
疲れた口振りで文句を言いながらもクロアは片腕を身体の前に翳す。言葉とは裏腹に奮起したらしいクロアに、此方へ滑り降りて来る翼蛇を見ながらヴェインは膝を少し沈めて身構えた。
「あれが降りて来たら私が背に飛び乗ってあの男を下へ叩き落とす。可能な限りでいい。援護しろ」
翼蛇は強敵とはいえ、真に戦うべきはそれを操るあのルーネスだ。あの男を破る事が出来れば戦況は大きく変わるだろう。
「大分無茶を言っている気がしますけど、副長が本気のようなので自分も善処します」
地に降って来る翼蛇が大きく口を開けた。此方を丸飲みにせんとする翼蛇の顎から逃れてヴェイン等は左右に分かれて跳んだ。着地したばかりの足を踏み切ってヴェインは流れるように飛行する翼蛇の胴に剣を持っていない方の腕で飛び付いた。
滑る鱗の縁に指を引っ掛けて、翼蛇の胴体の端からぶら下がった身体を上へと引き上げようとする。翼蛇は嫌がって暴れたが振り落とされまいとヴェインは手に力を込めた。身を切るような強烈な寒風がヴェインの顔や髪を嬲ったがどうにか食らい付き、その背に這い上る機会を狙って翼蛇が少しでも大人しくなる瞬間を辛抱強く窺う。
「おっと、そうはさせないぜ」
ヴェインの思惑に気付いた男が軽薄に言って、鞭を手にした腕を身体の前面から脇へ回す。其処へ半月のような弧を象った水刃が襲い掛かった。
男は彼の首を落とそうとするように宙を舞う水刃をちらりと見、不安定にうねる翼蛇の上で身を屈め、平地さながらの体で跳ねるように後転して避けてみせる。起き上がり様に、びゅっ、と繰り出された鞭がヴェインの眼前に迫った。
「ちっ!」
惜しくもまだ背に上がり切っていなかったヴェインは仕方が無しに翼蛇の胴から手を離し、跳んだ。地上からはなかなかの高さがあったが、跳ぶ際に翼蛇を蹴って空中で蜻蛉を切り、落下の速度を殺して何とか無事に地面に降り立つ。
「副長!」
「目論見は悪くないんだが、コイツの上はオレの特等席なんだよな。おいそれと他人を上げてやる気はねえのさ」
駆け寄ろうとするクロアを制して短く片手を上げ怪我の無い事を示し、ヴェインは顔を上空へ向けた。翼蛇の背からヴェイン達を見下ろす男の赤い眼が嘲笑し、下を覗き込むその顔が皮肉るように歪む。
「さてと…。もう十二分に時間は稼いでやっただろ。待たせたな、ルテナ。もう食っちまっていいぜ」
名を呼ばれ、翼蛇が頭上に広がる空を取り囲むように長い体躯を波打たせる。顎が外れるのではと思う程の大口が開き、赤い口の中が露わになり、その奥からは闇が顔を覗かせていた。
迫り来る赤い闇が視界を埋めるようだった。離れた場所に立つクロアが危険を叫んでいるのが聞こえたがヴェインは無視してその場を動かず、切っ先を僅かに下げつつ長剣を横に構えた。
幾ら鱗が硬くとも、流石に口腔内なら柔らかいのは生物の常だ。丸飲みにされる危険と隣り合わせではあるが、試してみる価値はある。失敗してもただ死ぬだけだ。特に困る事もあるまい。
翼蛇の頭が突撃してくる。クロアが後方で地面を蹴ったようだった。来るなと言うにはもう時間が無いので放っておく。今制止したところで、これでヴェインが仕損じればクロアは一人で残される事になるのだ。そうなれば、どのみち生きてこの場から逃れられる確率は低い。
翼蛇の酷く細い虹彩がヴェインを見ていた。返すヴェインの視線は冷然。死を意識していない訳ではないが、この一撃に賭けるつもりでいるので心が浮つく事も無い。
一つ二つ呼吸をする程度の僅かな時間。翼蛇の息が濃密に掛かる程近くなった互いの距離にヴェインは剣の柄を強く握り締め、
「――っ!?」
全く別の方向からの殺気を感じた男が空に向かって鞭を振るう。鞭は遙か上空から放たれたらしき一本の矢を払い飛ばした。男の驚愕を感じ取ってか、翼蛇がヴェインの剣が届く直前で急な反転をする。
距離を開ける翼蛇を見てヴェインの許へと走り寄る速度を緩めたクロアが空に向かって瞠目した。差した羽撃く影にヴェインも首を上に向ける。
「――やけに空が騒がしいと思ったら、まーたお前らか。ったく。こちとらまたやりたくもねえ運び屋なんかやらされて疲れてるってのに…」
地に投影される力強い羽撃き。その首根に跨がる彼は眼下を一望して鬱陶しげに溜め息をついた。会いたくもない顔に会ってしまったと雄弁にその表情が物語り、赤い瞳が剥れ気味に眇められる。
「こんな事ならまた大回りして帰ればよかったかもな」
テンドは愛竜の背から上体を乗り出して弓に矢を番えた。迷惑な厄介事に出会したとでも言いたげな口調ではあるが、こういう場面に遭遇してしまった以上はと一応参戦する気はあるようだ。無駄の無い動作で弓を構える姿勢は凛々しく、緋色の民族衣装と相俟ってさながらルーネスの戦士を描いた一幅の絵画の登場人物を思わせる佇まいである。
「テンドさん、どうして此処に?」
上空のテンドに届くようにクロアが目一杯に声を張り上げて尋ねる。テンドは羽織った軍服を大きくはためかせながら、むすっとした顔をして弦を引き絞った。
「使いっ走りの帰りだよ。…何処かで見たような顔だと思ったら、族長のところのシームじゃねえか。十二年前に死んだと思ってたけど、生きてたんだな」
狙いを翼蛇の上のルーネスに定めてテンドが言う。盗賊の首領――シームは口の片端だけを不敵に吊り上げ、更なる上空から冷たい眼で彼を見下ろすテンドをぎらつく眼で睨め上げた。
「誰かと思えば銀の皇子の腰巾着かあ。相も変わらず皇子様に顎で使われてんのかい?」
「誰が腰巾着だ、阿呆!俺の方が面倒見てやってたんだよ!ふざけた事抜かしてんじゃねえ。そのスッカスカの脳天今すぐぶち抜いてやろうか」
同じくルーネスの出であるからか、二人は旧知の間柄であるらしい。交わされる言葉は売り言葉に買い言葉の応酬めいているが其処に表された殺気は紛れもない本物であり、テンドとシームという男の間の決して打ち解けようの無い隔意が推して知れた。
「おい、お守り役。此奴が例のお前等への襲撃を企てたっていう野郎か?」
「恐らくな。知り合いか?」
シームと翼蛇の方へ向き直りながらのヴェインの問いに、弓を引き絞るテンドの手に力が籠もった。
「こんなクソ野郎知らねえ、って言いたいところだけどな。この間話しただろ?掟を破って出て行った連中がいるってよ。此奴はその屑共の、多分生き残りだ」
腹の底で煮え滾る怒りを声に湛えてテンドの両眼が赤く光る。苛烈な怒りの炎をそのまま宿したような双眸が番えられた矢よりも逸早くシームを射抜いていたが、シームは意に介さず薄ら笑いを浮かべてさも困った風を装って戯けた。
「おいおい。随分な言い方するなあ。オレ達はただ、手柄を立てて故郷に錦を飾りたかっただけなんだぜ?それを屑だの掟破りだの、あんまりじゃないか」
「よくもまあそんな口が叩けるもんだな。エルダバート様からの恩義を泥塗れの足で踏み躙るような真似しやがって。一族の面汚しが。十二年前の時は悪運強く生き長らえたみたいだけどな、恥の上塗りしてルーネスの誇りをこれ以上汚す前に今度はこの俺がきっちり引導渡してやるから覚悟しろよ」
会話の中に過去の因縁を匂わせるルーネス二人は、散った火花から凄まじい炎が爆ぜるような一触即発の空気を睨み合う互いの間に漂わせていた。
話に出てくる十二年前とは、現皇帝フェルキースの即位に先立ち、先帝の後継者を巡って皇族内で起こった血を血で洗う争いの事を指しているのだろう。当時ヴェインは帝都から遠く離れた地に暮らしていたが、噂くらいは耳にした事がある。
先帝の喪が明ける前に始まった諍いは当初は日陰の内に展開され、最終的には表立っての内戦めいた様相にまで発展したと聞いている。その際に不戦を宣言していた筈のルーネス一族の中から、帝国軍の獣騎、竜騎の両兵団に属していた一部の者達が一族と長の意向に背き、独断で最有力であった先帝の第一皇子に付いたのだという。とするとシームは当時の戦いで全滅したと聞くその者達の生き残りなのだろう。
凛然と啖呵を切るテンドだったが、対するシームは何故か腹を抱えて笑い出した。眉を顰めるテンドにシームは収まらぬ笑いに目許の涙を拭いつつ吐き捨てる。
「引導ねえ?やれるもんならやってくれよ、腰巾着。あの時からオレはもう、死んでるのと大して変わらねぇんだからよ」
シームが履いている薄っぺらい皮のサンダルの底で翼蛇を軽く踏み付けるように足で叩く。命令を受けて翼蛇が浮上し、その巨体が空高くへ舞い上がる。
「抜かせ、勘違い野郎。――おい、テメー等!乗るんならさっさと乗れ!」
テンドの叫びに合わせてディルカが一旦の急降下を見せ、ヴェインとクロアの間を滑るように飛んだ。ヴェインは跳躍してディルカの背に飛び乗った。一瞬そのまま見送り掛け置いて行かれそうになったクロアがはっとして腕を伸ばしたので、その手を掴んで引っ張り上げてやる。
飛竜の翼が盛大に宙を叩き、空を目指して飛翔を開始する。地面はぐんぐんと遠退き、遙か空で蜷局を巻く翼蛇の姿がその鱗の一枚までが目視出来る距離になる。
シームの居座る翼蛇の頭の上へと向かって、翼を広げたディルカが旋回する。テンドが先制の一矢を放つが、矢はシームに届く前に翼蛇の振るった尾に易々と叩き落とされた。
「くそっ。ルテナの奴、いつの間にあんなバカでかくなったんだよ」
彼処まで尽くすなんて、大バカ野郎のシームには勿体無いくらいの健気さだぜ。テンドの洩らした独り言にディルカが高く鳴く。それが同意なのか、将又何かしらの文句の類なのかはヴェインには判らない。テンドはディルカの臙脂の竜鱗に覆われた首筋をぞんざいに撫で、後ろにいるヴェイン等を振り向いた。
「乗ったって事は殺る気あるんだよな?」
「テンドさん、言い方が少々剣呑なんですが」
「無ければ乗らないな」
「副長までそういう事を…まあ、そうでしょうけども」
上を仰いで額を押さえるクロアを脇にテンドは矢筒から数本の矢を取り出しながら、ディルカに飛ぶ方向を教える。
「いいか?見た通りシームの野郎はルテナの頭の真後ろにいる。けど普通に近寄ろうとしたって身体のでかいルテナに払い退けられるだけだ。ディルカにルテナの側ぎりぎりを飛ばせるから、そうしたらお前等ルテナの上に飛び移れ」
「…まさか本気で言ってるんですか?」
飛竜の背の縁から一歩外へ踏み出せば、其処は強風荒ぶ天空である。クロアが恐る恐る下を覗く顔を蒼白にしてテンドへと問うが、答えるテンドは飄々と頷いた。
「ちゃんと掠める間際まで行ってやるから安心しろよ」
「〝安心〟という言葉の意味、理解してますか?掛け値無しに危険過ぎますよ」
「つべこべ言ってんじゃねえよ。肝っ玉の小せぇ男だな」
「肝っ玉とかそういう問題じゃないと思いますが。それから一言断っておきますが、自分は高所恐怖症の気があるのでそういった離れ業は不可能です。此処にいるだけで限界ですから」
「……堂々と言う事かよ、それ」
挙手して真っ正直に弱点を告白するクロアをテンドが露骨に白い目で見る。そういえば先程までクロアは絶対に下を見ないようにしていたような気がする。ディルカに乗る際に微かに躊躇のようなものがあったのもそれが原因なのかも知れない。
「ならば私だけで行く。お前にとって彼奴は仇敵のようだが、私が仕留めてしまっても構わないな?」
ヴェインはディルカの肩先から前方の空に蠢く翼蛇を睨み、テンドへ言った。尋ねる口調でありながら気遣いなどは微塵も含んではいない。ヴェインの言葉にテンドは怫然としながら手にした矢を三本一遍に番えた。
「仕方ねえだろ。あの大バカ屑野郎をぶちのめすにはルテナの動きを牽制する必要がある。それには自由に空を飛び回れるディルカと俺が適任だ。その代わり、絶っっっ対に、仕損じるなよ!―――行くぞ!!」
気合いの籠もったテンドの号令に一声鳴き返してディルカが翼を後ろへ流して滑空する。翼蛇へ飛び込んで行くその姿は遠目には碧空を翔る臙脂色の帚星のようにも映るだろう。向かい風を切り裂いて進むディルカの背で、瞬きの間にぐんぐんと近付く翼蛇をヴェインは両の眼で確と捉える。
飛び込んで来るディルカを翼蛇が尾を鞭のように振って追い払おうとする。尾が振るわれる寸前でディルカは首を上げて急上昇すると蛇尾の一振りを避けてから再び下降し、翼蛇の背に飛び込んで行くようにその真上を飛ぶ。
「行け!」
翼蛇の眼の辺りを狙って番えた矢を一息に放ったテンドが叫ぶ。指示に従ってヴェインは迷わずディルカの背から飛び降りた。翼蛇の胴体の弾力のある感触が長靴の靴底に伝わる。瞬時に巡らせた目線でシームの位置を確認し、ヴェインは駆け出した。
主以外がその背に乗った事に気付いた翼蛇が大きく身をくねらせて暴れる。その所為で足場は上下左右に揺れたが、ヴェインは上手く均衡を保ち、一度も足を止めずに頭の方へ向かって走り続けた。
暴れる翼蛇の眼前で小爆発が起こる。クロアの魔術だ。大した痛手は与えられていないようだが、突然の衝撃と炎の爆ぜる匂いに怯んだらしく翼蛇の動きが少し大人しくなる。この機を逃さずヴェインは一気にシームの許へと駆けた。
其方へ飛び込むヴェインを迎え撃とうとシームが鞭を撓ませる。踏み込もうとしたその足先と首筋、心臓の付近へ間を置かずに次々と矢が射掛けられ、逃れて小さく後ろへ跳んだシームは忌々しげに上空を旋回するテンドを睨んだ。
「…っの、くそガキっ!!」
「同い年だろうが、バーカ!!」
命の遣り取りをするこの場に於いて子供の喧嘩染みた悪口を言い合う双方の年齢はテンドの言葉からすると共に二十六歳。あれで年上なのかとヴェインは状況にそぐわない呆れを思考の端で抱いた。
テンドに気を取られていたシームはヴェインが彼を剣の間合いに入れた事を近くに迫った殺気から感じ取り、即座に応じて構える動作無しに鞭を振るった。命中すれば易々と肉を切り裂く金属刺の付いた鞭をヴェインは態と籠手で受けて逆に絡め取り、シームの鼻先に潜り込んだ。
瞬間的に交じり合った視線は抜き身の刃の危うさ。地獄をその目にした者だけが持つ狂気に赤の双眸がぎらりと光る。
斬撃を見舞った腕に肉を斬り裂く手応えが返ってくる。長剣を振り抜いた軌道をなぞるように血飛沫が迸った。
「……は…ははっ…」
仰け反るように倒れ込みながらシームは何故か満足げな笑いを零した。遠くを覗き込んでいるかのような焦点の定まらない瞳の先に映る何かに手を伸ばし、彼は囁く。
――復讐を。仲間の仇を、頼んだぜ。
もう声にならない声で囁かれた言葉は、唇の動く形からそう読み取れた。その最期の一瞬に〝お姫さん〟と付け足されたような気がしてヴェインは訝しんだ。
――姫?誰の事だ。
先刻の外套の女とシームの会話を思い返してみれば、恐らくリーファの事ではないだろう。ならば誰を指すのか。思わず考え込み掛けたヴェインの思考を突如足下で起こった強烈な揺れが中断させた。
立っていられずその場に片膝を突いてしゃがみ込んだヴェインの鼓膜を、辺りを取り巻く激しい風が震わせる。
「乗れ!」
目にも止まらぬ速さで飛来したディルカの肩口から差し出された腕を掴む。テンドによって飛竜の背へと引き上げられながら、ヴェインは背後を振り返った。
空中で翼蛇の巨躯がのた打っていた。嘆いているのだ。激しく身を捩る翼蛇の姿に直感的にそう感じた。
翼蛇は遙か地上へと物のように落下してゆくシームの亡骸を追って飛んで行く。麦粒のようにしかもう見えなくなってしまった遠ざかる主の姿を追い掛けて、まるで泣き叫んでいるかのように、速度を上げて大地へと突進する。
眼下に続く山稜の一角へ翼蛇は速度を緩める事も無く突っ込んで行く。翼蛇が山に衝突する凄まじい地響きのような音が重く響いた。大地を揺るがすような衝突の余韻が収まった頃には翼蛇の巨躯はだらりと力を失っており、その様子から命尽きた事が見て取れる。
「…主人の後を、追ったんでしょうか」
翼蛇の見せた主人への愛情と忠心に高所からの景色に感じる恐怖さえ忘れてクロアが声に憐憫を湛え、土煙の静かになった地上を見つめる。自ら大地に激突して自害した翼蛇の遺骸。息絶え動かなくなった翼蛇に黙祷を捧げるようにテンドが少しの間瞑目した。
彼等の間に如何程の絆があったのか。それを知る術は無い。だが主に殉じた魔物の最期はヴェインに尊敬にも近い、強い感慨を抱かせた。
やがて緩やかに下降してゆくディルカに地上が近付き、翼蛇の巨大な遺骸は山向こうの陰に消えた。
「――とにかく。シームの野郎は討ったし、俺はこれで帰るぜ」
ヴェインとクロアを元いた山中へ降ろしたテンドはしんみりとした空気を振り払うかのように素っ気なく別れを告げ、早々に立ち去ろうとする。クロアが角度の綺麗なお辞儀を披露してテンドに助勢への感謝を述べるが、ヴェインはそれを途中で遮りテンドに話し掛けた。
「待て。少し訊きたい事がある」
「何だよ?」
ディルカを飛ばそうとしていたテンドが怪訝な顔をする。
「初めに使い走りの帰りだと言っていたが、何の仕事だ?」
問われてテンドはばつが悪そうに頭を掻いた。言おうか言うまいか悩むような素振りからすると、口止めでもされているのだろうか。だとしたら誰の言い付けで動いた帰りなのか、簡単に推察出来る。
「――ゼラか?」
ヴェインがその名を出すと、テンドは「あーっ」と喚いて砂色の髪を両手で乱暴に掻き回した。誤魔化しや葛藤からの叫びというよりはどうやらもう関わるのが嫌なので言いたくないという風情であるが、ヴェインにも聞かねばならない訳がある。仮にテンドが黙秘を決め込んだとしても、引き下がれはしなかった。
テンドは口を噤んで大きく他方を向く。事情の呑み込めていないクロアがヴェイン等が間に漂わせる駆け引きめいた沈黙に気不味そうな表情で代わる代わる両者を窺う。
どうしたものかと悩むような雰囲気で暫くの間しらを切り通そうとしていたテンドだったが、ヴェインに全く引き下がる気が無いのを見てか、溜め息をついて前髪を掻き上げつつ、漸く重い口を割った。
「…まあな。ゼラの野郎に頼まれて例のお嬢ちゃんを運んだんだよ。序でに言えばお嬢ちゃんの運び先を彼奴に教えるっつうのも頼まれた。もう連絡済みだよ」
「なっ!?ど、どういう事ですか、テンドさん!?」
俄に色めき立ってクロアが声を荒らげる。テンドの言葉からリーファが城塞都市から逃亡したのが実はゼラの手引きによるものだったと知って終始生真面目なその表情に動揺が走った。
けれどもヴェインはその事については驚きはしなかった。大体予想していた事柄だ。ヴェインが問題にしているのはそんな事ではない。
詰め寄ろうとするクロアを制し、ヴェインはテンドを見据えて言った。
「私を其処に連れて行け。放っておけば恐らく、かなり危険な事になる」
「どういう事ですか、副長?」
「言葉通りの意味だ」
クロアは訳が解らないようだったが、テンドには意味が通じたようだった。今やっとその事に思い至ったようで、ちっ、と舌打ちを吐き捨てる。テンドは苛立たしげにヴェインに頭をしゃくってディルカに乗るよう言った。
「言っておくけどな、俺は連れて行くだけだからな。その後の事はお前の役目だって聞いてる」
「ああ」
頷き、ディルカに乗ろうとして、ヴェインは困惑するクロアの視線が自分に注がれているのに足を止めた。
「お前は一先ずアークスに戻っていろ。これは副長命令だ」
何か言おうとするクロアに先んじて、普段は使わない己の立場を利用して命令を下す。これから行かねばならない場所にクロアを伴うのは懸命な判断とは言えまい。連れて行かずに置いて行く方が無難だ。
此方に覚えは無いがヴェインの事を知っているのならば、あの外套の女はアルトナージュに縁のある人間乃至アルトナージュ出身である可能性が高い。それに加えてシームが最期に呟いた〝お姫さん〟という語。そして、聖骸を盗んだ賊である隣国の姫をゼラがヴェイン等に隠れて手ずから逃がした事。これ等の事を踏まえて考えれば、此処でゼラを追わなければ考えられる想定の中でも最悪の事態に発展し得る恐れがあった。
そんな危険極まりない所へ詳しい事情を知らぬクロアを連れて行けば足手纏いは疎か、無駄な犠牲を増やす事にもなり兼ねない。そう説明してもいいのだが、ヴェインは敢えて言葉ではなくクロアへ向けた視線にその意思を込めた。言葉で言っただけでは口達者なクロアはきっと反論を講じるだけだと判断したからだ。
暫しの無言。少しして、ヴェインの瞳から彼女の強固な意思を汲んだように、小さく肩を落としてクロアは了承の言葉を口にした。
「解りました。副長、テンドさん。どうぞお気を付けて」
ヴェイン等がこれから行く先に同行出来るだけの力が自らに無いのを噛み締めるような、悔しげな溜め息が洩れる。そんなクロアの敬礼を受けてヴェインはディルカの背に飛び乗った。テンドが出発の合図に口笛を吹くとディルカが翼をはためかせ、空へ飛び立つ。
間に合えばいいが。ヴェインは一人で行動を起こしたゼラの、別れ際に見た素知らぬ横顔を思い出した。彼が何か考えている風であるのはあの時から勘付いていたのだから、尋ねてもどうせ答えないだろうと放置せず、それでも思惑を問い質しておくべきだったのかも知れない。今更後悔しても無意味だが、ついそう考えずにはいられなかった。
ディルカは一陣の突風となって南の空へ突き進んで行く。徒歩では越え難い山脈もその翼に掛かれば大した障害にもならない。ひたすらに強風を分けて進む飛竜の背で、ヴェインはふと遠くの空を眺め遣る。
酷く短い冬の陽は、早くも西の彼方へ傾き始めていた。東の空には霞むような白い月が茫漠と、だが確かに昇り始めている。




