↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/3

陸斗、さようなら

夜の十一時。


神城家の屋敷では、明かりがひとつ、またひとつと消えていった。


由夜は書斎に座っていた。パソコンの画面には、弁護士から届いたばかりの離婚協議書のメールが開いたままになっている。


しばらく画面を見つめてから、机の上の眼鏡に手を伸ばした。


プリンターが小さな音を立てて動き出す。


協議書は二部、数ページ。すぐに印刷が終わった。


由夜は万年筆を取り、女性側の署名欄に自分の名前を書いた。


神城由夜。


四文字。迷いのない、きれいな筆跡だった。


書き終えると、ペンを筆立てに戻し、もう一度協議書の内容に目を通す。


不動産、車、神城グループの株式、それから婚姻期間中に発生しうるその他の財産分与。


彼女は、そのすべてを放棄していた。


それらの価値を知らないわけではない。


むしろ、誰よりもよく知っている。


陸斗名義の物件ひとつとっても、普通の人なら一生かけて働いても届かない。まして、神城家が長年かけて築いてきた事業の資産は言うまでもない。


それでも、彼女は何ひとつ欲しくなかった。


三年前、神城家に嫁いできたとき、陸斗にこう聞かれたことがある。


「由夜、君はこの結婚に何を望む?」


あのとき、彼女は彼の向かいに座って、長いこと考えた。


そして最後に、ひと言だけ答えた。


「ちゃんと、暮らしていきたい」


陸斗は表情ひとつ変えず、淡々と言った。


「その言葉、守ってもらうぞ」


今思えば、彼女は確かに守った。


ただ、彼は一度も考えなかったのだろう。結婚は二人でするものだということを。


由夜は協議書をファイルに入れ、立ち上がって寝室へ向かった。


ウォークインクローゼットは明るく照らされていた。


二列に並んだクローゼットの中身は、ほとんどが陸斗の手配で届いた服だ。


毎シーズン、神城家専属のスタイリストが新作を届けにくる。バッグも、靴も、ジュエリーも、普段使う香水さえ、陸斗の好みで選ばれたものだった。


以前の彼女は、それを悪くないと思っていた。


少なくとも、彼が時々は自分の好みを覚えていてくれる証拠だと。


今となっては、持っていく必要もないと思えた。


一番下の引き出しを開け、黒いスーツケースを取り出す。


二十インチ。


大学を卒業してすぐに買ったもので、長年使い込んだせいでキャスターもすり減っている。


ケースを開き、普段着を数枚、パジャマを二着、それに生活用品を少し詰めた。


ジュエリーには、もう目もくれなかった。


荷造りの途中で、ふと手が止まった。


クローゼットの奥に、濃いグレーの男物のコートが掛かっている。


去年の冬、陸斗が彼女の部屋に置き忘れたものだ。


あの夜、彼は出張から戻り、夜中に酒の匂いをさせて帰ってきた。


彼女は上着を脱がせ、酔い覚ましの薬と白湯を用意した。


よほど疲れていたのだろう。ベッドの端に座ると、彼はふいに彼女の手首をつかんだ。


「由夜」


「うん?」


「どうして、まだ寝てないんだ」


彼女は笑って答えた。


「あなたの帰りを待ってたの」


陸斗は何も言わず、ただ彼女を一瞥した。


その夜、彼は珍しく書斎へ行かず、寝室に残った。


翌朝、彼女が目を覚ましたときには、もう彼の姿はなかった。


それからずっと、あれが二人の関係が少し和らいだ始まりなのだと思っていた。


今思えば、自分が勝手に期待しすぎていただけだ。


由夜はコートを取り、クローゼットに戻した。


彼のものは、何ひとつ持っていくつもりはない。


思い出も含めて。


スーツケースの内側のポケットには、分厚いノートが何冊か入っていた。


彼女はそれを一冊ずつ取り出して確かめ、スーツケースの一番底に収めた。


表紙はすり切れ、角が丸まってしまっているものもある。


一番古いノートの最初のページには、日付が書いてあった。


三年前。


あの頃の由夜は、ビジネスのことなどほとんど何も知らなかった。


初めて陸斗が誰かと投資の話をしているのを聞いたときは、専門用語の意味すらわからなかった。


一次市場、バリュエーションモデル、割引キャッシュフロー、それに聞いたこともないリスクヘッジ。


こっそり、その言葉の意味を検索したこともある。


でも、そのうち思った。言葉の意味を知っただけで、何になるのだろう、と。


そこで彼女は、本を読み、決算書を読み、神城グループが公開している投資案件を調べ始めた。


最初は、陸斗との間に少しでも共通の話題が欲しかっただけだった。


ある日、陸斗が帰宅したとき、彼女は書斎で上場企業の年次報告書を読んでいた。


彼はパソコンの画面にちらりと目をやった。


「読めるのか?」


由夜は少し恥ずかしそうにパソコンを閉じた。


「少しだけ」


陸斗は何ページかめくり、ある財務データを指さした。


「ここに気づかなかったのか?」


彼女は身を乗り出して覗き込む。


「どこ?」


男は彼女を見下ろし、どこかおかしそうな顔をした。


「キャッシュフローすら整理できていないのに、投資を研究しようなんて」


その夜、陸斗は一時間近くかけて講義をしてくれた。


由夜は真剣に聞き入り、ペンでノートにまとめた。


あとで気づいたことだが、陸斗が他人にこんなことを教えるのは、ほとんどなかった。


彼女はそれが嬉しくて、しばらく浮かれていた。


けれど彼女は知らなかった。あの頃の嬉しかった小さな出来事が、のちに自分が自立して生きていく力になるなんて。


ノートのページが、一枚ずつめくられていく。


最初の基礎的な用語の整理から、業界分析、企業評価、そして自分で組み上げた投資モデルまで。


どのページにも日付がある。


十回以上書き直した箇所もあった。


最初から決算書がすべて読めたわけではない。


投資がすべてうまくいったわけでもない。


初期には、判断を誤って損失を出したこともある。


そのときは、何日も眠れない夜が続いた。


陸斗に「具合でも悪いのか」と聞かれ、


「最近ちょっと眠れなくて」とだけ答えた。


彼はそれ以上、追及しなかった。


そのころから、彼女は少しずつ気づき始めた。投資と結婚には、似ているところがあると。


真剣に研究し、何度も検証し、結果のために多くを注ぎ込むことはできる。


けれど、その努力が必ず報われると保証してくれる人は、誰もいない。


由夜は最後のノートを閉じた。


彼女は机に向かい、普段ほとんど使わないパソコンを開いた。


デスクトップには余計なファイルがひとつもない。


パスワードを入力すると、画面が独立したアカウントのページに切り替わった。


【由夜キャピタル】


トップページには、数行の数字が並んでいる。


傘下ファンドの運用規模、保有株式の評価額、利用可能資金、そして最近の投資案件の収益状況。


由夜は、ちらりと目を向けた。


総資産評価額、一兆二千八百億円。


トラックパッドの上で、指が一瞬止まる。


三年前、自分で貯めたわずかなお金で投資を始めたとき、まさかここまで来るとは思ってもみなかった。


途中には、何度か市場の大荒れもあったし、判断を誤ったこともある。


ポートフォリオ全体を組み直さなければならない時期さえあった。


それでも、諦めなかったおかげで、今がある。


この数年、彼女は自分の身元を公にしてこなかった。傘下の投資会社の日常運営も、専門チームに任せている。


陸斗は、彼女がときどき経済ニュースを見ていることは知っていた。


けれど、彼女がこの分野にどれほどの心血を注いできたかは、まったく知らない。


さらに、神城グループがかつて見逃したあるテック企業が、今や彼女の投資ポートフォリオで最も重要な資産のひとつになっていることも、知るはずがなかった。


由夜はパソコンの電源を落とした。


特に高揚感はなかった。


ただ、「やっと隠れなくてもよくなる」と思っただけだった。


スマホが、ぶるりと鳴った。


画面を見ると、陸斗からだった。


【今夜は帰らない】


相変わらず、これ以上ないほど短い。


そのメッセージを見つめながら、彼女はふと、今日が何の日かを思い出した。


結婚三周年。


数秒眺めたあと、スマホをマナーモードにした。


実のところ、これまで怒ったことがなかったわけではない。


初めての誕生日を忘れられたときは、ひとりでケーキを食べ、夜明け近くまで起きて待っていた。


二度目の結婚記念日には、彼が急に出張で地方へ行ってしまい、用意していたプレゼントも渡せなかった。


去年の冬、三十九度の熱を出して、二度電話をかけたが、つながらなかった。


翌日、帰ってきた彼に「どうして言わなかった」と聞かれた。


「仕事の邪魔をしたくなくて」と、彼女は答えた。


彼はそのときも、ただうなずいただけだった。


あとから知ったことだが、あの夜、彼は大事な取引先の接待をしていた。


彼女は彼を責めなかった。


少なくともあのころは、理解してあげなければと思っていた。


でも、人を理解することが、どうして自分を犠牲にすることとセットなのだろう。


由夜はスマホを机に置き、スーツケースのファスナーを閉めた。


ハンドルを引き出す音が、静まり返った部屋にやけに大きく響く。


彼女は最後に、三年間暮らしたこの寝室を見渡した。


ベッドサイドのチェストには、二人の結婚写真がまだ置いてある。


写真の中の陸斗は黒いスーツ姿で、感情の読めない顔をしている。


隣に立つ彼女は、満面の笑みだった。


あの頃の彼女は、本当に彼のことが好きだった。


由夜は写真立てを手に取った。


少し迷ってから、元の場所に戻した。


過去をすべて否定する必要はない。


ただ、これから先は、もう二度とない。


階下に降りると、ちょうど田中さんが厨房から出てきたところだった。


スーツケースを引く彼女を見て、田中さんは固まった。


「奥様?」


由夜は足を止めた。


「まだ起きてたの?」


田中さんは彼女の後ろのスーツケースを見て、それから彼女の顔を見た。


「お出かけ……ですか?」


「ええ」


「こんな遅くに、どうして急に? 旦那様がまた奥様を怒らせたんですか?」


由夜は答えなかった。


田中さんは神城家に長年勤めていて、彼女が嫁いできたときからずっと見てきた。


この三年間、ずっと彼女によくしてくれた。


陸斗が不在のときは話し相手になってくれたし、彼女の好物も覚えていてくれた。


由夜は、彼女を困らせたくなかった。


「田中さん、私、陸斗さんと離婚することにしたの」


田中さんは、手にしていたコップを危うく落としそうになった。


「り、離婚……?」


まさかそんな結末になるとは、思ってもみなかったのだろう。「奥様、旦那様とお喧嘩されたんですか? 夫婦で揉めない家なんてありません、どうか早まらないでください。今日は仕事がお忙しかっただけでしょう。お戻りになったら、私から旦那様にきちんとお話しするようお伝えしますから」


由夜は首を横に振った。


「今日のことじゃないの」


小さく笑って、静かな声で言う。


「もうずっと、考えてきたことなの」


田中さんの目が、みるみる赤くなった。


「でも、旦那様はもうすぐお帰りに……」


「いいの」


由夜は彼女の手をそっと握った。


「田中さん、これからは、私のためにお料理を温め直さなくていいからね」


田中さんは言葉を失った。


何か言いたいのに、何も出てこない。


しばらくして、小さな声で聞いた。


「それで、これからどちらへ? 車をお呼びしましょうか?」


「もう手配してあるから」


由夜は微笑んだ。


「早く休んでね。私のことは心配しないで」


彼女はスーツケースを引いて玄関へ向かった。


靴箱の上には、男物の革靴が置いてある。先週、陸斗が買ったばかりのものだ。


その隣には、彼女がいつも履いているスリッパ。


靴を履き替えようと身をかがめたとき、靴箱の上にギフトボックスがあるのに気づいた。


数日前に、陸斗に贈ろうと買ったネクタイピンだ。


今日、渡すつもりだった。


箱は、まだ開けられていない。


しばらく見つめたあと、結局、彼女は手に取らなかった。


ドアを開けると、夜風が正面から吹きつけた。


玄関先に立って、ふり返る。


「田中さん、さようなら」


ドアが、ゆっくりと閉まった。


神城家の明かりが、背後で遮られる。


由夜は、ふり返らなかった。


――


午前一時七分。


黒いマイバッハが、神城家の屋敷の敷地に入ってきた。


陸斗は後部座席に座り、目を閉じたまま、指で眉間を揉んでいた。


今夜の接待は、あまり愉快なものではなかった。


橘晩晴が突然帰国して、予定していた提携の段取りが狂い、数人の取締役が古い案件の件を口実に彼に圧力をかけてきたのだ。


こんなに遅く帰宅するのは、久しぶりだった。


運転手が降りてドアを開ける。


「専務、到着しました」


陸斗は「ああ」と応じた。


降りる前に、スマホに目をやる。


由夜からのメッセージは、もうなかった。


あの離婚の一文が、トーク画面にぽつんと残っている。


何度かかけた電話も、ずっとつながらないままだ。


男の眉間に、わずかに皺が寄った。


今回は、ずいぶんと意地を張っているな。


陸斗はスマホをポケットに戻し、屋敷に入った。


リビングは真っ暗だった。


手を伸ばして、明かりをつける。


「由夜?」


返事はない。


陸斗は上着を脱いで、ソファに放り投げた。


いつもなら、この時間、由夜はたとえ寝ていても、リビングの明かりをひとつ残しておいてくれる。


彼の帰りが遅い日は、寝室から出てきて、夕食は食べたかと聞いてくれることもあった。


今夜は、やけに静かだ。


ダイニングに目をやる。


テーブルはきれいに片付けられていた。


残っているのは、六インチのケーキがひとつと、その横に手をつけられていない二人分の食器だけ。


ケーキのクリームは、すでに少し溶けていた。


その上の「結婚三周年おめでとう」の文字だけは、まだはっきり読める。


陸斗の足が止まった。


そこで初めて、今日が結婚三周年だったことを思い出した。


スマホを取り出し、カレンダーを開く。


確かに、その日だった。


数秒後、彼はスマホをしまった。表情には、何の変化も出さない。


視線が、ケーキの横のファイルに落ちた。


近づいて、中の書類を引き抜く。


一番上の文字が、目に飛び込んできた。


離婚協議書。


陸斗の顔色が、ついに曇った。


一ページ目をめくる。


男性側、神城陸斗。


女性側、神城由夜。


その下には、双方の財産の取り扱いが書かれている。


最後のページ、女性側の署名欄を見たとき、彼の指が止まった。


神城由夜、という四文字は、とても美しい字で書かれていた。


署名日時は、今夜の十一時三分。


さらに下へ目を滑らせる。


女性側は、神城家名義の不動産、車両およびその他の関連権益を自発的に放棄し、男性側に追加の補償を求めない。


身ひとつでの離婚。


陸斗はその四文字をじっと見つめ、ふいに笑った。


「面白いじゃないか」


彼は協議書をテーブルに戻し、スマホを取り出して由夜に電話をかけた。


電源が切られている。


もう一度かけた。


やはり、電源が切られている。


彼は階段のほうへ顔を向けた。


「田中さん」


しばらくして、田中さんが部屋から出てきた。


彼の手にある書類を見て、明らかに気まずそうな顔をする。


「旦那様、お帰りなさいませ」


「由夜はどこだ?」


田中さんはうつむいた。


「奥様は、もう出ていかれました」


「どこへ?」


「それは……おっしゃいませんでした」


陸斗は彼女を一瞥した。


「いつ出た?」


「十一時ごろです」


「ひとりでか?」


「はい。奥様は、スーツケースをひとつだけお持ちでした」


陸斗は何も言わなかった。


ダイニングテーブルのほうへ振り向く。


指輪が、離婚協議書のすぐ横に置かれていた。


三年前、彼が自分で選んだ結婚指輪だった。


結婚式の日、それを彼女の指にはめたとき、由夜は笑って聞いてきた。


「ずっとつけていてくれる?」


彼はあのとき、「ああ」と答えた。


そのあと、彼は確かにしばらくつけていた。


けれど、ある出張のときに指輪を外して、ジュエリーボックスにしまった。


それからは、思い出すことも少なくなった。


陸斗は指輪を拾い上げ、指の間で二度、くるりと回した。


「彼女は、何か言っていたか?」


田中さんは少しためらった。


「奥様は、これからはもうお料理を温め直さなくていい、と」


陸斗が顔を上げる。


「どういう意味だ?」


田中さんは、答えられなかった。


男の顔色が、少しずつ冷えていく。


「彼女が言ったのは、それだけか?」


「あとは……旦那様に、お体を大事にしてくださいと」


陸斗は数秒、黙り込んだ。


ふいに、指輪をテーブルに戻す。


「もういい。休んでくれ」


田中さんが去ると、リビングはまた静まり返った。


陸斗は協議書を手に取り、最後のページをめくる。


由夜の署名の横には、余計な文字は一文字もなかった。


責める言葉もなければ、恨み言もなく、言い訳のひとつもない。


彼女は、こうして黙って出ていった。


彼はふと、今夜六本木の会員制サロンで橘晩晴に聞かれた言葉を思い出した。


「あの人は、あなたを待っているの?」


あのとき、彼は答えなかった。


今にして思えば、あの女は、本当にもう待つつもりがなかったのだろう。


陸斗は椅子の背にもたれ、スマホを手に取って、秘書に電話をかけた。


何度か呼び出し音が鳴って、ようやくつながる。


「専務?」


「由夜が今どこにいるか、調べてくれ」


秘書は、明らかに驚いた様子だった。


「奥様に、何かあったのですか?」


「家出した」


陸斗の口調は落ち着いていて、ごく普通の業務連絡のようだった。


「わかったら、すぐ知らせろ」


「かしこまりました」


電話を切ると、彼はもう一度、あの協議書に目を落とした。


身ひとつでの離婚。


三年間、神城家で暮らし、普段は買い物ひとつにも彼の意見を聞くような女が、突然、要らないと言い出した。


陸斗は、信じていなかった。


彼は由夜をよく知っている。


おとなしくて、聞き分けがよくて、たまに少し拗ねることはある。


けれど、彼が少し態度を和らげれば、すぐにもとに戻る。


この三年間、ずっとそうだった。


彼はすでに、明日会ったときにどう切り出すかまで考えていた。


もう騒ぐのはやめろ、と言えばいい。


離婚協議書のほうは……


もちろん、サインなどするつもりはない。


陸斗はスマホを手に取り、二人のトーク履歴を開き直した。


最後のメッセージは、彼女からのものだった。


【陸斗、離婚しましょう】


しばらく眺めたあと、彼は一行、打ち込んだ。


【由夜、明日、家に帰ってこい】


送信。


返信はない。


数分待ってみる。


やはり、何もない。


陸斗はスマホをテーブルに置き、ネクタイを緩めた。


そのとき、画面がふいに光った。


由夜の返信かと思って、彼は手を伸ばす。


だが、それは仕事のメールだった。


神城グループ投資部からだ。


ざっと目を通して、何気なく閉じた。


顔を上げたときには、ダイニングテーブルの上のケーキは、すっかり形を失っていた。


クリームが縁をゆっくりと伝い落ちていく。


まるで、もう取り戻しようのない何かのように。


ただ、このときの陸斗はまだ知らなかった。


由夜は、彼が頭を下げるのを待っていたのではない。


ただ、もう待つのをやめたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。