陸斗、さようなら
夜の十一時。
神城家の屋敷では、明かりがひとつ、またひとつと消えていった。
由夜は書斎に座っていた。パソコンの画面には、弁護士から届いたばかりの離婚協議書のメールが開いたままになっている。
しばらく画面を見つめてから、机の上の眼鏡に手を伸ばした。
プリンターが小さな音を立てて動き出す。
協議書は二部、数ページ。すぐに印刷が終わった。
由夜は万年筆を取り、女性側の署名欄に自分の名前を書いた。
神城由夜。
四文字。迷いのない、きれいな筆跡だった。
書き終えると、ペンを筆立てに戻し、もう一度協議書の内容に目を通す。
不動産、車、神城グループの株式、それから婚姻期間中に発生しうるその他の財産分与。
彼女は、そのすべてを放棄していた。
それらの価値を知らないわけではない。
むしろ、誰よりもよく知っている。
陸斗名義の物件ひとつとっても、普通の人なら一生かけて働いても届かない。まして、神城家が長年かけて築いてきた事業の資産は言うまでもない。
それでも、彼女は何ひとつ欲しくなかった。
三年前、神城家に嫁いできたとき、陸斗にこう聞かれたことがある。
「由夜、君はこの結婚に何を望む?」
あのとき、彼女は彼の向かいに座って、長いこと考えた。
そして最後に、ひと言だけ答えた。
「ちゃんと、暮らしていきたい」
陸斗は表情ひとつ変えず、淡々と言った。
「その言葉、守ってもらうぞ」
今思えば、彼女は確かに守った。
ただ、彼は一度も考えなかったのだろう。結婚は二人でするものだということを。
由夜は協議書をファイルに入れ、立ち上がって寝室へ向かった。
ウォークインクローゼットは明るく照らされていた。
二列に並んだクローゼットの中身は、ほとんどが陸斗の手配で届いた服だ。
毎シーズン、神城家専属のスタイリストが新作を届けにくる。バッグも、靴も、ジュエリーも、普段使う香水さえ、陸斗の好みで選ばれたものだった。
以前の彼女は、それを悪くないと思っていた。
少なくとも、彼が時々は自分の好みを覚えていてくれる証拠だと。
今となっては、持っていく必要もないと思えた。
一番下の引き出しを開け、黒いスーツケースを取り出す。
二十インチ。
大学を卒業してすぐに買ったもので、長年使い込んだせいでキャスターもすり減っている。
ケースを開き、普段着を数枚、パジャマを二着、それに生活用品を少し詰めた。
ジュエリーには、もう目もくれなかった。
荷造りの途中で、ふと手が止まった。
クローゼットの奥に、濃いグレーの男物のコートが掛かっている。
去年の冬、陸斗が彼女の部屋に置き忘れたものだ。
あの夜、彼は出張から戻り、夜中に酒の匂いをさせて帰ってきた。
彼女は上着を脱がせ、酔い覚ましの薬と白湯を用意した。
よほど疲れていたのだろう。ベッドの端に座ると、彼はふいに彼女の手首をつかんだ。
「由夜」
「うん?」
「どうして、まだ寝てないんだ」
彼女は笑って答えた。
「あなたの帰りを待ってたの」
陸斗は何も言わず、ただ彼女を一瞥した。
その夜、彼は珍しく書斎へ行かず、寝室に残った。
翌朝、彼女が目を覚ましたときには、もう彼の姿はなかった。
それからずっと、あれが二人の関係が少し和らいだ始まりなのだと思っていた。
今思えば、自分が勝手に期待しすぎていただけだ。
由夜はコートを取り、クローゼットに戻した。
彼のものは、何ひとつ持っていくつもりはない。
思い出も含めて。
スーツケースの内側のポケットには、分厚いノートが何冊か入っていた。
彼女はそれを一冊ずつ取り出して確かめ、スーツケースの一番底に収めた。
表紙はすり切れ、角が丸まってしまっているものもある。
一番古いノートの最初のページには、日付が書いてあった。
三年前。
あの頃の由夜は、ビジネスのことなどほとんど何も知らなかった。
初めて陸斗が誰かと投資の話をしているのを聞いたときは、専門用語の意味すらわからなかった。
一次市場、バリュエーションモデル、割引キャッシュフロー、それに聞いたこともないリスクヘッジ。
こっそり、その言葉の意味を検索したこともある。
でも、そのうち思った。言葉の意味を知っただけで、何になるのだろう、と。
そこで彼女は、本を読み、決算書を読み、神城グループが公開している投資案件を調べ始めた。
最初は、陸斗との間に少しでも共通の話題が欲しかっただけだった。
ある日、陸斗が帰宅したとき、彼女は書斎で上場企業の年次報告書を読んでいた。
彼はパソコンの画面にちらりと目をやった。
「読めるのか?」
由夜は少し恥ずかしそうにパソコンを閉じた。
「少しだけ」
陸斗は何ページかめくり、ある財務データを指さした。
「ここに気づかなかったのか?」
彼女は身を乗り出して覗き込む。
「どこ?」
男は彼女を見下ろし、どこかおかしそうな顔をした。
「キャッシュフローすら整理できていないのに、投資を研究しようなんて」
その夜、陸斗は一時間近くかけて講義をしてくれた。
由夜は真剣に聞き入り、ペンでノートにまとめた。
あとで気づいたことだが、陸斗が他人にこんなことを教えるのは、ほとんどなかった。
彼女はそれが嬉しくて、しばらく浮かれていた。
けれど彼女は知らなかった。あの頃の嬉しかった小さな出来事が、のちに自分が自立して生きていく力になるなんて。
ノートのページが、一枚ずつめくられていく。
最初の基礎的な用語の整理から、業界分析、企業評価、そして自分で組み上げた投資モデルまで。
どのページにも日付がある。
十回以上書き直した箇所もあった。
最初から決算書がすべて読めたわけではない。
投資がすべてうまくいったわけでもない。
初期には、判断を誤って損失を出したこともある。
そのときは、何日も眠れない夜が続いた。
陸斗に「具合でも悪いのか」と聞かれ、
「最近ちょっと眠れなくて」とだけ答えた。
彼はそれ以上、追及しなかった。
そのころから、彼女は少しずつ気づき始めた。投資と結婚には、似ているところがあると。
真剣に研究し、何度も検証し、結果のために多くを注ぎ込むことはできる。
けれど、その努力が必ず報われると保証してくれる人は、誰もいない。
由夜は最後のノートを閉じた。
彼女は机に向かい、普段ほとんど使わないパソコンを開いた。
デスクトップには余計なファイルがひとつもない。
パスワードを入力すると、画面が独立したアカウントのページに切り替わった。
【由夜キャピタル】
トップページには、数行の数字が並んでいる。
傘下ファンドの運用規模、保有株式の評価額、利用可能資金、そして最近の投資案件の収益状況。
由夜は、ちらりと目を向けた。
総資産評価額、一兆二千八百億円。
トラックパッドの上で、指が一瞬止まる。
三年前、自分で貯めたわずかなお金で投資を始めたとき、まさかここまで来るとは思ってもみなかった。
途中には、何度か市場の大荒れもあったし、判断を誤ったこともある。
ポートフォリオ全体を組み直さなければならない時期さえあった。
それでも、諦めなかったおかげで、今がある。
この数年、彼女は自分の身元を公にしてこなかった。傘下の投資会社の日常運営も、専門チームに任せている。
陸斗は、彼女がときどき経済ニュースを見ていることは知っていた。
けれど、彼女がこの分野にどれほどの心血を注いできたかは、まったく知らない。
さらに、神城グループがかつて見逃したあるテック企業が、今や彼女の投資ポートフォリオで最も重要な資産のひとつになっていることも、知るはずがなかった。
由夜はパソコンの電源を落とした。
特に高揚感はなかった。
ただ、「やっと隠れなくてもよくなる」と思っただけだった。
スマホが、ぶるりと鳴った。
画面を見ると、陸斗からだった。
【今夜は帰らない】
相変わらず、これ以上ないほど短い。
そのメッセージを見つめながら、彼女はふと、今日が何の日かを思い出した。
結婚三周年。
数秒眺めたあと、スマホをマナーモードにした。
実のところ、これまで怒ったことがなかったわけではない。
初めての誕生日を忘れられたときは、ひとりでケーキを食べ、夜明け近くまで起きて待っていた。
二度目の結婚記念日には、彼が急に出張で地方へ行ってしまい、用意していたプレゼントも渡せなかった。
去年の冬、三十九度の熱を出して、二度電話をかけたが、つながらなかった。
翌日、帰ってきた彼に「どうして言わなかった」と聞かれた。
「仕事の邪魔をしたくなくて」と、彼女は答えた。
彼はそのときも、ただうなずいただけだった。
あとから知ったことだが、あの夜、彼は大事な取引先の接待をしていた。
彼女は彼を責めなかった。
少なくともあのころは、理解してあげなければと思っていた。
でも、人を理解することが、どうして自分を犠牲にすることとセットなのだろう。
由夜はスマホを机に置き、スーツケースのファスナーを閉めた。
ハンドルを引き出す音が、静まり返った部屋にやけに大きく響く。
彼女は最後に、三年間暮らしたこの寝室を見渡した。
ベッドサイドのチェストには、二人の結婚写真がまだ置いてある。
写真の中の陸斗は黒いスーツ姿で、感情の読めない顔をしている。
隣に立つ彼女は、満面の笑みだった。
あの頃の彼女は、本当に彼のことが好きだった。
由夜は写真立てを手に取った。
少し迷ってから、元の場所に戻した。
過去をすべて否定する必要はない。
ただ、これから先は、もう二度とない。
階下に降りると、ちょうど田中さんが厨房から出てきたところだった。
スーツケースを引く彼女を見て、田中さんは固まった。
「奥様?」
由夜は足を止めた。
「まだ起きてたの?」
田中さんは彼女の後ろのスーツケースを見て、それから彼女の顔を見た。
「お出かけ……ですか?」
「ええ」
「こんな遅くに、どうして急に? 旦那様がまた奥様を怒らせたんですか?」
由夜は答えなかった。
田中さんは神城家に長年勤めていて、彼女が嫁いできたときからずっと見てきた。
この三年間、ずっと彼女によくしてくれた。
陸斗が不在のときは話し相手になってくれたし、彼女の好物も覚えていてくれた。
由夜は、彼女を困らせたくなかった。
「田中さん、私、陸斗さんと離婚することにしたの」
田中さんは、手にしていたコップを危うく落としそうになった。
「り、離婚……?」
まさかそんな結末になるとは、思ってもみなかったのだろう。「奥様、旦那様とお喧嘩されたんですか? 夫婦で揉めない家なんてありません、どうか早まらないでください。今日は仕事がお忙しかっただけでしょう。お戻りになったら、私から旦那様にきちんとお話しするようお伝えしますから」
由夜は首を横に振った。
「今日のことじゃないの」
小さく笑って、静かな声で言う。
「もうずっと、考えてきたことなの」
田中さんの目が、みるみる赤くなった。
「でも、旦那様はもうすぐお帰りに……」
「いいの」
由夜は彼女の手をそっと握った。
「田中さん、これからは、私のためにお料理を温め直さなくていいからね」
田中さんは言葉を失った。
何か言いたいのに、何も出てこない。
しばらくして、小さな声で聞いた。
「それで、これからどちらへ? 車をお呼びしましょうか?」
「もう手配してあるから」
由夜は微笑んだ。
「早く休んでね。私のことは心配しないで」
彼女はスーツケースを引いて玄関へ向かった。
靴箱の上には、男物の革靴が置いてある。先週、陸斗が買ったばかりのものだ。
その隣には、彼女がいつも履いているスリッパ。
靴を履き替えようと身をかがめたとき、靴箱の上にギフトボックスがあるのに気づいた。
数日前に、陸斗に贈ろうと買ったネクタイピンだ。
今日、渡すつもりだった。
箱は、まだ開けられていない。
しばらく見つめたあと、結局、彼女は手に取らなかった。
ドアを開けると、夜風が正面から吹きつけた。
玄関先に立って、ふり返る。
「田中さん、さようなら」
ドアが、ゆっくりと閉まった。
神城家の明かりが、背後で遮られる。
由夜は、ふり返らなかった。
――
午前一時七分。
黒いマイバッハが、神城家の屋敷の敷地に入ってきた。
陸斗は後部座席に座り、目を閉じたまま、指で眉間を揉んでいた。
今夜の接待は、あまり愉快なものではなかった。
橘晩晴が突然帰国して、予定していた提携の段取りが狂い、数人の取締役が古い案件の件を口実に彼に圧力をかけてきたのだ。
こんなに遅く帰宅するのは、久しぶりだった。
運転手が降りてドアを開ける。
「専務、到着しました」
陸斗は「ああ」と応じた。
降りる前に、スマホに目をやる。
由夜からのメッセージは、もうなかった。
あの離婚の一文が、トーク画面にぽつんと残っている。
何度かかけた電話も、ずっとつながらないままだ。
男の眉間に、わずかに皺が寄った。
今回は、ずいぶんと意地を張っているな。
陸斗はスマホをポケットに戻し、屋敷に入った。
リビングは真っ暗だった。
手を伸ばして、明かりをつける。
「由夜?」
返事はない。
陸斗は上着を脱いで、ソファに放り投げた。
いつもなら、この時間、由夜はたとえ寝ていても、リビングの明かりをひとつ残しておいてくれる。
彼の帰りが遅い日は、寝室から出てきて、夕食は食べたかと聞いてくれることもあった。
今夜は、やけに静かだ。
ダイニングに目をやる。
テーブルはきれいに片付けられていた。
残っているのは、六インチのケーキがひとつと、その横に手をつけられていない二人分の食器だけ。
ケーキのクリームは、すでに少し溶けていた。
その上の「結婚三周年おめでとう」の文字だけは、まだはっきり読める。
陸斗の足が止まった。
そこで初めて、今日が結婚三周年だったことを思い出した。
スマホを取り出し、カレンダーを開く。
確かに、その日だった。
数秒後、彼はスマホをしまった。表情には、何の変化も出さない。
視線が、ケーキの横のファイルに落ちた。
近づいて、中の書類を引き抜く。
一番上の文字が、目に飛び込んできた。
離婚協議書。
陸斗の顔色が、ついに曇った。
一ページ目をめくる。
男性側、神城陸斗。
女性側、神城由夜。
その下には、双方の財産の取り扱いが書かれている。
最後のページ、女性側の署名欄を見たとき、彼の指が止まった。
神城由夜、という四文字は、とても美しい字で書かれていた。
署名日時は、今夜の十一時三分。
さらに下へ目を滑らせる。
女性側は、神城家名義の不動産、車両およびその他の関連権益を自発的に放棄し、男性側に追加の補償を求めない。
身ひとつでの離婚。
陸斗はその四文字をじっと見つめ、ふいに笑った。
「面白いじゃないか」
彼は協議書をテーブルに戻し、スマホを取り出して由夜に電話をかけた。
電源が切られている。
もう一度かけた。
やはり、電源が切られている。
彼は階段のほうへ顔を向けた。
「田中さん」
しばらくして、田中さんが部屋から出てきた。
彼の手にある書類を見て、明らかに気まずそうな顔をする。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「由夜はどこだ?」
田中さんはうつむいた。
「奥様は、もう出ていかれました」
「どこへ?」
「それは……おっしゃいませんでした」
陸斗は彼女を一瞥した。
「いつ出た?」
「十一時ごろです」
「ひとりでか?」
「はい。奥様は、スーツケースをひとつだけお持ちでした」
陸斗は何も言わなかった。
ダイニングテーブルのほうへ振り向く。
指輪が、離婚協議書のすぐ横に置かれていた。
三年前、彼が自分で選んだ結婚指輪だった。
結婚式の日、それを彼女の指にはめたとき、由夜は笑って聞いてきた。
「ずっとつけていてくれる?」
彼はあのとき、「ああ」と答えた。
そのあと、彼は確かにしばらくつけていた。
けれど、ある出張のときに指輪を外して、ジュエリーボックスにしまった。
それからは、思い出すことも少なくなった。
陸斗は指輪を拾い上げ、指の間で二度、くるりと回した。
「彼女は、何か言っていたか?」
田中さんは少しためらった。
「奥様は、これからはもうお料理を温め直さなくていい、と」
陸斗が顔を上げる。
「どういう意味だ?」
田中さんは、答えられなかった。
男の顔色が、少しずつ冷えていく。
「彼女が言ったのは、それだけか?」
「あとは……旦那様に、お体を大事にしてくださいと」
陸斗は数秒、黙り込んだ。
ふいに、指輪をテーブルに戻す。
「もういい。休んでくれ」
田中さんが去ると、リビングはまた静まり返った。
陸斗は協議書を手に取り、最後のページをめくる。
由夜の署名の横には、余計な文字は一文字もなかった。
責める言葉もなければ、恨み言もなく、言い訳のひとつもない。
彼女は、こうして黙って出ていった。
彼はふと、今夜六本木の会員制サロンで橘晩晴に聞かれた言葉を思い出した。
「あの人は、あなたを待っているの?」
あのとき、彼は答えなかった。
今にして思えば、あの女は、本当にもう待つつもりがなかったのだろう。
陸斗は椅子の背にもたれ、スマホを手に取って、秘書に電話をかけた。
何度か呼び出し音が鳴って、ようやくつながる。
「専務?」
「由夜が今どこにいるか、調べてくれ」
秘書は、明らかに驚いた様子だった。
「奥様に、何かあったのですか?」
「家出した」
陸斗の口調は落ち着いていて、ごく普通の業務連絡のようだった。
「わかったら、すぐ知らせろ」
「かしこまりました」
電話を切ると、彼はもう一度、あの協議書に目を落とした。
身ひとつでの離婚。
三年間、神城家で暮らし、普段は買い物ひとつにも彼の意見を聞くような女が、突然、要らないと言い出した。
陸斗は、信じていなかった。
彼は由夜をよく知っている。
おとなしくて、聞き分けがよくて、たまに少し拗ねることはある。
けれど、彼が少し態度を和らげれば、すぐにもとに戻る。
この三年間、ずっとそうだった。
彼はすでに、明日会ったときにどう切り出すかまで考えていた。
もう騒ぐのはやめろ、と言えばいい。
離婚協議書のほうは……
もちろん、サインなどするつもりはない。
陸斗はスマホを手に取り、二人のトーク履歴を開き直した。
最後のメッセージは、彼女からのものだった。
【陸斗、離婚しましょう】
しばらく眺めたあと、彼は一行、打ち込んだ。
【由夜、明日、家に帰ってこい】
送信。
返信はない。
数分待ってみる。
やはり、何もない。
陸斗はスマホをテーブルに置き、ネクタイを緩めた。
そのとき、画面がふいに光った。
由夜の返信かと思って、彼は手を伸ばす。
だが、それは仕事のメールだった。
神城グループ投資部からだ。
ざっと目を通して、何気なく閉じた。
顔を上げたときには、ダイニングテーブルの上のケーキは、すっかり形を失っていた。
クリームが縁をゆっくりと伝い落ちていく。
まるで、もう取り戻しようのない何かのように。
ただ、このときの陸斗はまだ知らなかった。
由夜は、彼が頭を下げるのを待っていたのではない。
ただ、もう待つのをやめたのだ。




