陸斗専務、今夜はお帰りになりますか?
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この作品は、冷酷な夫に尽くし疲れた主人公が、隠して溜め込んだ千億の資産を手にスカッと離婚&大逆転するお話です。
ストレスフリーで爽快なストーリーをお届けしますので、ぜひ楽しんでいってください!
夜が深まっていく。
六本木の会員制高級サロン『クラウン』。
薄暗い個室の静寂の中に、かすかなウッドとスモーキーな香水の香りが漂っていた。
神城陸斗はソファに深く腰掛け、黒いシャツの第2ボタンまで外していた。手首に光るパテック・フィリップが、控えめな照明を受けて冷たい金属光沢を放っている。
彼はもともと、こうした賑やかな接待の場を好まない。
今夜、珍しく最後まで残っているのは――ただ隣に座る女性の存在があったからだ。
「陸斗、久しぶりね。全然変わっていないわ」
橘晩晴はグラスを手に、彼の方へわずかに身を寄せた。
黒のキャミソールドレスを纏った彼女の肩から豊かな黒髪が零れ落ち、白い鎖骨が覗いている。
話しながら、彼女の指先が陸斗の手にそっと触れた。
陸斗は目を落としたが、避けることはしなかった。
「そうか?」
その声は低く、感情の波は見えない。
晩晴は微笑んだ。
「ええ。昔、大学のゼミにいた頃も、あなたは自分のパーソナルスペースに他人が入るのを嫌がっていたわ」
そう言いながら、彼女はわざとグラスを彼の唇へと差し出した。
「一口どう? それとも、今のあなたは私の差し出すお酒すら飲んでくれないの?」
陸斗は目を上げた。
涼しげで知的な目元は、普段はどこか冷ややかだ。しかし、彼が誰かをじっと見つめる時、誰もが「自分だけが特別に扱われている」という錯覚に陥ってしまう。
「晩晴」
彼は突然、彼女の名を呼んだ。
「何?」
「いつからそんなやり方で案件の交渉をするようになった?」
晩晴の笑みが一瞬固まった。
だがすぐに、彼女は手を伸ばし、彼の少し折れたシャツの襟元を整えた。
「もし……仕事のためじゃないと言ったら?」
彼女の指先が首元にとどまる。喉仏まであと数センチの距離。
陸斗は何も言わなかった。
ただ手を挙げ、彼女の手首を掴んだ。
力は込められていないが、それ以上進むことはできない。
「晩晴、弁えろ」
たった四文字。淡々とした声だった。
晩晴は彼を見つめ、瞳の奥に不満の色を走らせた。
「三年経っても、私にはそんなに冷たいのね」
陸斗は手を離した。
「冗談にしていいことと、そうでないことがある」
その時、テーブルの上のスマホが光った。
画面にLINEの通知が届く。
【由夜:今夜はおうちで夕食召し上がりますか?】
送信時刻:18:32。
陸斗は一瞥した。
返信はしない。
晩晴は彼の視線を追い、画面に表示された名前を目に留めた。
グラスを傾け、雑談のように軽く尋ねる。
「由夜さん?」
陸斗はスマホを伏せた。
「ああ」
「結婚して三年だっけ?」
「三年だ」
「仲が良いのね。彼女、ずっとあなたの身の回りのことをよくサポートしているって聞いたわ」
陸斗は答えなかった。
晩晴は静かに赤ワインを揺らした。
「正直、彼女が少し羨ましいわ」
「何がだ?」
「あなたを手に入れられたこと」
陸斗は口元だけに笑みを浮かべた。
だが、その瞳に笑意は宿っていない。
「考えすぎだ」
一方、都内一等地に構える神城家の邸宅。
由夜は、一向に「既読」すらつかない画面を見つめたまま、ダイニングテーブルの前に静かに座っていた。
テーブルには丁寧に作られた3品のおかずとスープが並んでいる。
中央には、小さなデコレーションケーキ。
そこにはチョコプレートで文字が添えられていた。
――結婚三周年おめでとう。
壁の時計はすでに夜の十時を指している。
料理は二度温め直した。
彼女はスマホを持ち上げ、そして静かに置いた。
最後に、小さく息を吐いた。
「奥様、先にお召し上がりになりますか?」
お手伝いの女性が、見るに見かねて声をかけた。
由夜は微かに笑った。
「大丈夫ですよ。先に休んでくださいね」
「旦那様は今日、社運を賭けたプロジェクトでお忙しいのかもしれません。あまり無理なさらないでくださいね」
「ええ」
由夜は否定も弁明もしなかった。
本当は、とっくに慣れていたのだ。
陸斗は忙しい。
専務としての取締役会、出張、神城グループの山のような案件をこなすのに忙しい。
結婚して三年の間、彼は彼女の誕生日を忘れて欠席し、二人の結婚記念日をすっぽかし、彼女が高熱を出した夜にも緊急会議を理由に朝まで戻らなかった。
最初の頃、彼女は傷ついた。
だがやがて、彼女は「期待しないこと」を覚えた。
由夜は立ち上がり、ケーキを冷蔵庫にしまおうとした。
玄関を通りかかった時、今日陸斗が脱ぎ捨てていったスーツの上着が目に入った。
まだクリーニングに出されていないものだ。
ポケットからキーケースを取り出そうと手を伸ばした時、内ポケットの中で硬い紙の感触に触れた。
取り出すと、一枚の写真だった。
桜の木の下で、明るく笑う女性の写真。
白いワンピースを着て、風に長い髪をなびかせ、首には真珠のネックレスをしている。
写真の裏には、手書きの小さな文字があった。
『陸斗へ、待っているわ。 晩晴』
日付は、三年前。
由夜の視線は、長い間そこに留まった。
写真の女性に見覚えがあった。
橘晩晴。
陸斗の大学時代のゼミ仲間であり、この数年間、ビジネスの場でも時折彼の口から出ていた名前だ。
かつて一度だけ尋ねたことがあった。
陸斗はその時、素っ気なくこう言ったのだ。
「ビジネスパートナーの一人だ。深い意味はない」と。
今、その写真が、彼のスーツの胸ポケットに大切に収められている。
由夜は思わずクスッと笑ってしまった。
おかしかったからではない。
自分自身が、この三年の婚姻生活をこんなにも冷めた目で見つめ直したのが、久しぶりだったからだ。
三年前、彼女は十分な愛情と歩み寄りさえあれば、いつか神城陸斗の本当の妻になれると信じていた。
その後、彼女は彼の書斎で決算書の読み方を学び、投資案件の分析を覚え、複雑なIRレポートから巨大な市場チャンスを見つけ出す術を身につけた。
かつては、すべて彼に追いつき、彼の世界を理解するためだと思っていた。
だが今思えば、そうではなかったのかもしれない。
少なくとも、彼女にはすでに「自分自身の足で立つ道」が出来上がっていたのだから。
スマホの画面が再び点灯した。
陸斗からのショートメッセージだった。
【今夜は会食が長引く。戻らない。】
理由の言い訳もない。
「記念日」の一言すらもない。
由夜はその文字列を数秒間見つめた。
そして、アドレス帳を開き、懇意にしている弁護士の番号をタップした。
通話が繋がる。
「夜分遅くに申し訳ありません、先生」
テーブルの上の、カットされることのなかったケーキを見つめながら、彼女の声はどこまでも穏やかだった。
「以前作成をお願いしていた離婚協議書、明日の朝一番で私の個人アドレスに送っていただけますか」
電話の向こうが一瞬静まり返る。
「……本当によろしいのですか、由夜様」
由夜は静かに、けれどはっきりと返事をした。
「ええ。決定事項です」
電話を切ると、彼女はダイニングテーブルに戻り、
ケーキに立てたロウソクの火を、そっと吹き消した。
三年前、彼女は「妻」としての期待を抱いてこの家に入った。
三年後、彼女は「独立した個人」として、ここを去ることを決めたのだ。
その頃、六本木の『クラウン』では。
陸斗が会食を終えたところだった。
晩晴が彼の傍らに立ち、上着を手渡す。
「陸斗、今夜は自宅に帰るの?」
男はジャケットを受け取り、淡々と言った。
「帰る」
晩晴の笑みが一瞬凍りついた。
「彼女が……待っているの?」
陸斗は答えなかった。
その時、スマホが振動した。
由夜からのメッセージだった。
【神城陸斗様。私達、離婚しましょう。手続きの書類は追って弁護士より送らせます。】
彼は画面を凝視し、眉間をかすかに寄せた。
数秒後、すぐに彼女に電話をかけた。
――お呼び出しましたが、お出になりません。
彼は苛立ちを隠さず、メッセージを打ち打ち送った。
【由夜、くだらないワガママはよせ。】
画面の上部に表示される:送信完了。
しかし、それ以上返信が来ることは二度となかった。
陸斗は時間を確認し、ネクタイを緩めた。
彼はまだ気づいていなかった。
今回ばかりは、自分を三年追い続け、静かに待ち続けたあの人が、二度と戻ってくる気がないということに。




