第9話 2002年4月。初出社!コンプラ不在のオフィスと紙と印鑑とFAXの老獣
「……ここが今日から俺の『主戦場』か……」
西暦2002年、4月1日、月曜日。
桜の花びらが冷たい春風に舞う中、俺――佐藤拓也は、都内下町の一角に佇む築年数の経った5階建て自社ビルの前で、新品の黒いリクルートスーツの衿を正していた。
2026年の記憶を持ったまま、2002年の世界で22歳の青年として社会人生活を始める――どういう因果でこんな事になったのかはわからないが、氷河期という過酷な時代を泥臭く駆け抜け、ようやく掴み取った『東洋物流資材株式会社』の正社員というカードだ。
基本給12万円+謎の固定手当という求人票の罠や、内定者懇親会での強引な囲い込みのプレッシャーを冷や汗交じりに潜り抜け、俺が内定を勝ち取った中堅の総合物流資材商社である。
「よし……! 2026年の記憶を持つ俺が、この就職氷河期で勝ち取った社会人生活だ。まずは種銭(元手)を稼ぐために、泥臭く食らいついてやる……!」
意気揚々と自動ドアをくぐり、エレベーターで3階の営業部フロアへ向かった俺を待ち受けていたのは――令和のコンプライアンス感覚やペーパーレスとは大きく異なり、昭和の名残を色濃く残す「平成の老獣」のようなオフィス空間だった。
◆
「おーい! 新人の佐藤くんね! こっちこっち!」
フロアに入った瞬間、俺の鼻を突いたのは、使い込まれたスチールデスクの油の匂いと、タバコの煙、そして熱を持った紙の独特な臭気だった。
声をかけてきたのは、教育係を担当する30代半ばの先輩社員・課長代理の谷口さんだ。腕まくりしたワイシャツの袖から覗く腕には、使い込まれたG-SHOCKが光っている。
「おはようございます! 本日からお世話になります、佐藤拓也です!」
「おう、元気があっていいねぇ! じゃあ早速だけど、佐藤くんのデスクはここね!」
谷口さんが指さした場所を見て、俺は思わず息をのんだ。
デスクの上には、現代のようなスタイリッシュなノートPCどころか、薄型モニタすらない。
置いてあるのは、分厚い黒色のビジネスホン(保留・転送ボタンが20個くらい並んだ多機能電話機)と、巨大な緑色のプラスチック製書類トレイ、そして……巨大な朱肉と木箱に入ったハンコセットだった。
「あの……谷口さん。俺のパソコンは……?」
「パソコン? ああ、フロアの隅に共有の『Word・Excel専用機』が1台あるから、どうしても必要な時は順番待ちの紙に名前書いて使ってね」
「……き、共有で1台……!?」
俺は目を見開いた。フロアには30人以上の社員がひしめき合っているのだ。
【説明しよう!】
2000年代初頭のIT化事情と、当時の現場主義オフィス!
2002年当時、IT先進企業や先進部署では1人1台のPC導入や社内LANの整備が急速に進んでいた。しかし、東洋物流資材のような古風な体質を残す企業では、PCは高価な備品であり、業務の主軸はあくまで「手書き伝票」「紙の書類」「電話」「FAX」というアナログな現場主義が根強く残っていたのだ!
企業や業界によってIT普及のスピードには極端な差があり、こうした共有PC運用も特定の中小・中堅企業では日常の光景だったのである!
「よし、じゃあ佐藤くん! 初仕事だ! この『発注書』50枚に、まず自分の『担当印』を押して。それから課長と部長の承認印をもらって、取引先にFAX送信して!」
谷口さんがドサッと俺のデスクに置いたのは、カーボン紙が挟まれた3枚複写の厚い手書き伝票の山だった。
「ふ、FAX……? メールでPDF添付して送信じゃなくて……?」
「PDF……? なんだそれ、美味しいのか? いいから、ハンコ押すのが先! ほら、上司の席に行く時は『お仕事中失礼します!』って大声で言わないと、課長に怒鳴られるからね!」
「な……!!」
俺は手書き伝票の山を抱え込み、自分のデスクでマイハンコを「ポン、ポン、ポン」と押してから、冷や汗を流して課長デスクへと向かった。
昭和の熱気がそのまま残るオフィスで、俺の「社会人1年目」が唐突に幕を開けたのだ。
◆
「お仕事中失礼します! 課長、新人の佐藤です! 発注書の確認と捺印をお願いします!」
「おう、佐藤か。どれ……」
50代半ばの強面な課長は、差し出した50枚の伝票をパラパラとめくると、俺が押した『佐藤』の印影を見てピタリと手を止めた。
「おい佐藤。なんだこのハンコは」
「……え? 普通に押しましたけど……」
「まっすぐ押してどうするんだ! ハンコは左に少し傾けて、俺や部長の印影に向かって『お辞儀』するように押すんだよ! 上司への敬意を示すための常識だろ!」
「はぁぁぁあ!?」
俺は素で叫びそうになった。
ハンコを傾けて押すのがマナー……!? 意味がわからない! 傾いてたら単なる雑な捺印だろ!!
【説明しよう!】
平成オフィスに存在した謎のマナー『お辞儀ハンコ』!
一部の古風な企業や慣習を重んじる職場において、「上司や担当者の印影に向けて、部下のハンコを左に傾けて押すことで、お辞儀をしているように見せる」というビジネスマナーが存在した!
令和の現代では根拠のない形式主義として疑問視されつつも一部に残存しているが、当時の現場では上司に対する礼儀や社内コミュニケーションの一環として真面目に指導する上司も存在していたのである!
「すみません! 直ちに押し直します……!」
俺は冷や汗をかきながら伝票を受け取り、自分のデスクへ戻った。
朱肉をつけ、慎重に角度を15度ほど左に傾けて「ポン……」。
(なんなんだこのルール……! 令和のZ世代からしたらホラーだよ!!)
なんとかハンコリレーを終わらせ、次に向かったのはフロアの壁際にドカンと鎮座する巨大な複合機――FAX機能付きコピー機だ。
今回送る発注書は全部で50枚。取引先は全国30社に及ぶ。主要な取引先には複数枚まとめて送るため、1社ごとに1枚から3枚ずつ丁寧に仕分けをし、複合機のボタンで30回それぞれ異なる市外局番と電話番号を押し間違えないよう慎重入力して送信しなければならない。
「よし……1社目、送信……」
ジー……ピーヒョロロロロ……ガーガー……。
紙が吸い込まれ、独特の通信音が響く。
紙の読み取りや電話回線の接続待ち、送信待ちでジリジリと時間が過ぎていく。30社分をミスなく送り切るだけでも、確認と送信作業でかなりの時間を奪われていくのだ。
(メールなら一括送信で一瞬なのに……! なんで紙をスキャンして電話線で画像として送ってんだよ……っ!!)
俺がFAXの前でジタバタしていると、隣のデスクで黒いビジネスホンの受話器を首と肩の間に挟みながら、ものすごいスピードで電卓を叩いている先輩がいた。
「ええ! 株式会社〇〇様ですか!? はい! 先ほどFAXでお送りした発注書、無事に届いておりますでしょうか! 印字のかすれ等ございませんでしょうか!?」
(FAX送った後に、わざわざ到着確認の電話までかけてるーーー!? 印字のかすれや通信不着のトラブルを防ぐためとはいえ、個別の確認電話とか二重手間でタイパ崩壊してるだろ!!)
平成のオフィスの「コンプラ不在」「アナログ全盛」の洗礼を受け、俺の頭はオーバーヒート寸前だった。
◆
「ふぅ……お疲れ、佐藤くん」
19時を過ぎた頃。外はすっかり暗くなっていた。
定時を過ぎているが、フロアの誰も帰る気配はない。全員がデスクで電話をかけ、伝票を書き、タバコを吸いながら書類と戦っている。
教育係の谷口さんが、缶コーヒー(ボス デミタス)を俺のデスクにコンと置いた。
「ありがとうございます、谷口さん……」
「ハハッ、初日からぐったりだな。でもな、佐藤くん。うちみたいな泥臭い商社はさ、この紙とFAXと電話で全国の現場を動かしてんだ。不便に見えるかもしれないけど、これが届かないと明日、現場の作業員さんたちが仕事できないんだよ」
谷口さんはそう言って笑うと、缶コーヒーのプルトップをカチッと開けた。
「……現場の作業員さん……」
俺の脳裏に、面接の時に熱弁した、朝7時の物流センターのトラック野郎たちの姿が浮かんだ。
そうだ。俺が今日、不器用にお辞儀ハンコを押し、確認電話をかけながらFAXで送ったこの紙1枚が、明日あの現場で荷物を運ぶおっちゃんたちの『メシの種』になるんだ。
ただ自分の元手を稼ぐためだけだと思っていた仕事。
でも、この不効率で泥臭い作業の向こう側には、生身の人間がいて、誰かの生活と現場が確かに繋がって回っている。
(効率は最悪だ……タイパもコスパも崩壊してる。……だけど、この泥臭い繋がりの中で、俺たちの仕事は生きているんだ……!)
胸の奥が熱くなり、俺は缶コーヒーをぐっと飲み干した。
苦くて甘い液体が、疲れた体にじんわりと染み渡る。
「よし……! 谷口さん、次のFAX送信、俺にやらせてください!」
「おお、頼もしいねぇ! じゃあこの『変更通知書』20枚も追加で頼むわ!」
「へいっ!!」
◆
21時過ぎ。ようやく初日の業務が終わり、俺はヘトヘトになりながら会社を出た。
スーツには、オフィスで吸い込んだタバコの煙と、コピー機のトナーの臭いが染み付いている。
駅前の開けた広場に出ると、冷たい夜風が火照った頬を撫でた。
ポケットから取り出した折りたたみ式ガラケーの画面を開く。
『着信 1件:小林美咲』
美咲ちゃんからの着信履歴だ。
俺は通話ボタンを押し、耳に当てた。
「もしもし、美咲ちゃん!?」
『あ、拓也! お疲れ様! 初日、どうだった……?』
受話器の向こうから聞こえる、馴染み深い美咲ちゃんの声。
今春から都内の大手信用金庫に就職した美咲ちゃんも、きっと今日は激動の初日だったはずだ。
「……もう、めちゃくちゃだよ! パソコンはフロアに1台だし、お辞儀ハンコとかいう謎のルールはあるし、FAXの確認電話で1日が終わったよ! 本当タイパ悪いっていうか……」
『ふふっ、なにそれ! でも拓也らしくて安心した。私もね、今日ずっと手計算の伝票と格闘して、先輩に怒られちゃった』
電話の向こうで、美咲ちゃんが少し疲れたように、でも嬉しそうに笑った。
『……でも拓也、“タイパ”ってなに? コストパフォーマンスの時間版みたいな、拓也のオリジナルの略語? 高校の時からたまに変なカタカナ語作って使ってたよね』
「あ、ああ……そうだっけ……?」
俺は携帯を握りしめたまま、背中にサーッと冷や汗が流れるのを感じた。
(俺の知らない『高校時代の拓也』も……同じような言葉を口走ってたのか……!?)
自分の記憶にはない「平成の高校生活」と、2026年から来た自分の感覚。その奇妙な一致にゾクリとしながらも、俺は慌てて言葉を濁した。
「あー、いや……そう、時間の効率! タイムパフォーマンスの略! 俺のオリジナル!」
『ふふっ、相変わらず拓也は妙な言葉流行らせようとするんだから。でも、時間がもったいないくらい大変だったのは伝わったよ』
『……ねえ拓也。大変だったけど……私、やっと社会人になれたんだなって、ちょっと感動しちゃった』
「……うん。俺も。理不尽で効率悪いけど……ここでしっかり稼いで生き残りつつ、現場の役に立ちたいなって思ったよ」
「また今度、健太や翔太も呼んで、ジョナサンで報告会しようね」と言う美咲ちゃんの言葉に、俺は「おう!」と力強く頷いた。
2002年, 春。
就職氷河期という過酷な荒野に、俺たちはそれぞれの足でしっかりと立ち踏み出したのだ。
しかし――俺はこの時、まだ知らなかった。
この直後、ITという新しい時代に本気で夢を見ていた親友・井上翔太に、ITバブル崩壊の苛烈な余波が、社会人となったその身に容赦なく押し寄せてくることを。
【次回予告!】
社会人としての第一歩を踏み出した拓也たち!
しかし、2000年代初頭を揺るがした「ITバブル崩壊」の冷酷な余波が、新社会人となった翔太の運命を大きく狂わせていく!
インターネットの可能性を信じ、果敢に挑んだ翔太を待ち受ける試練とは……!?
次回、『ITバブル崩壊の余波と翔太の涙』!
君は、夢の終わりと若者の流す涙を見る――!
(つづく)




