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第8話 最初の壁を越えて

「うわぁ……! 見て拓也、海がすっごく綺麗……!」


2002年、2月下旬。

国道135号線の緩やかなカーブを抜けると、目の前が一気に開け、太平洋の雄大な水平線と、夕日に照らされてキラキラと輝く相模湾が視界いっぱいに広がった。

潮の香りを乗せた冷たい浜風が、心地よく頬を撫でていく。


車を降りた小林美咲は、弾むような足取りで白い波打ち際へと駆け寄っていった。

風にふわりと揺れるショートボブと、すっかり柔らかくなった横顔。

その姿を、俺――佐藤拓也は、少し後ろから眩しそうに見つめていた。


「おい拓也! 何ボーッとしてんだよ、早く来いって! ほら、大学生協の割引使って最安で借りたこのマーチ、俺が運転してやったんだからな! 感謝しろよ!」


「たく、健太は運転荒いんだよ! 伊豆のクネクネした海岸線をあんな勢いで飛ばされたら、横に乗ってて生きた心地がしなかったっつの……!」


後ろの駐車場から大声を張り上げる木村健太と、連続するカーブと荒い運転にやられて少し顔を青くしている井上翔太。

手書きハガキ100枚の資料請求から始まり、通信費爆死、圧迫面接、手取りの罠、内定拘束の恐怖……数々の「平成就職氷河期ダンジョン」を泥臭く支え合い、共に生き抜いてきたかけがえのない仲間たちだ。



【説明しよう!】

令和の時代には当たり前となった、中古車や既存のガソリンスタンドを活用した「12時間2,525円〜」のような超低価格レンタカーの仕組みは、2002年当時まだ一般的ではなかった!

こうした格安ビジネスが広く定着していくのは、2008年のリーマンショック以降のことである。当時の学生にとっての定番ドライブといえば、大手レンタカー会社の生協割引などを駆使してコンパクトカーを借り、ガソリン代や高速代をみんなで割り勘にするスタイルだったのだ!



「よし、酔い冷ましに冷たい水でもかぶってろ!」


「わっ! やめろ健太、靴濡れるだろ! つーか冷たっ!!」


車酔いでグロッキーだったはずの翔太が、健太に波打ち際で容赦なく冷たい海水を引っかけられ、一瞬で跳ね起きた。

さっきまでの顔色の悪さはどこへ行ったのやら、濡れたスニーカーを気にしながら、二人して小学生みたいに笑い合って砂浜を追いかけっこし始めている。


「ふふっ、みんな本当に楽しそう。……ねえ拓也、覚えてる? 1年前の冬」


美咲がはしゃぐ二人を見てクスッと笑い、波打ち際から振り返って静かな眼差しで俺を見つめた。


「1年前の冬……? 2001年の始め頃か?」


「うん。あの頃、拓也は全財産1,550円になっちゃって、ジョナサンでドリンクバーのスープ何杯もお代わりして……『タイパが〜』とか変なこと言ってバタバタ倒れてたじゃない?」


「うぐっ……! か、からかうなよ! あの頃の俺は、世の中の常識を完全になめてたんだよ……」


俺は苦笑いしながら、胸のポケットから愛用のガラケーを取り出した。

アンテナが頭からニョキッと伸びた、シルバーの折りたたみケータイ。

バイト代を貯めて卒業前に買い換えた、J-PHONEの写メール対応モデル「J-SH07」だ。



【説明しよう!】

2000年代初頭、日本のコミュニケーション文化を根底から激変させたのが、J-PHONE(現SoftBank)の「写メール」である!

当時、日常の写真撮影といえばフジカラーの「写ルンです」に代表される使い捨てカメラやフィルムカメラが主流! 旅行やイベントの後にカメラ屋さんへ出し、現像とプリント代を払って仕上がりを数日待つことも珍しくなかった時代である。

そんな中、カメラ付き携帯電話は「撮ったその場で画面で確認でき、メールで誰かに送れる」という衝撃的な体験をもたらした! 2001年から2002年にかけて街中でパシャパシャ撮り合う社会現象となり、ライバルのドコモやauも追随せざるを得なくなったのだ!




「あ、拓也! そのケータイ、カメラがついたやつだろ!? ついに買ったのかよ!」


水掛け合いを終えた翔太と健太が、目を輝かせて息を弾ませながら走ってきた。


「おう! 時代は写メだからな」


「すげえええ! 画面に撮った写真が映ってる!! 拓也、ちょっとそれ全員で撮ろうぜ!」


「おう、任せろ! ……よし、みんな集まって!」


俺はケータイを開いて腕をぐっと伸ばした。

画面は自分から見えないため、レンズ横についた豆粒みたいな小さなミラーにみんなの顔が写っているかを頼りに、カンでカメラを向ける。


「全員入ってるか〜? いくぞー!」


『カシャッ!』

電子音が鳴り、パッと画面を確認すると、少し構図のズレた荒いドットの画面の中に俺たちの最高の笑顔が収まっていた。


(スマホも、Wi-Fiも、高画質な動画もない……。だけど……なんだろうな。この一瞬一瞬が、胸が痛くなるくらい温かくて愛おしい……)


令和の時代、俺は画面上の効率ばかりを追い求め、誰かと泥臭く笑い合ったり、挫折を分かち合ったりするプロセスを切り捨てるのが当たり前だと思っていた。

だけど、この過酷な氷河期で彼らと手を取り合ってあがいてきた時間は、どんな投資や成功体験よりも価値のある、俺の人生の宝物になっていた。


◆

陽が大きく傾き、海岸沿いの古びた木製ベンチと砂浜を、茜色のグラデーションが優しく包み込んでいた。

静かに打ち寄せる波の音が、どこか心地よく響いている。

俺と美咲は並んでベンチに座り、水平線の向こうへゆっくりと沈んでいく夕日を眺めていた。

離れた砂浜では、健太と翔太が駄菓子屋で買ってきた手持ち花火のセットを広げ、「夜になったら打ち上げようぜ!」と少年のように騒いでいる。


「……拓也」


美咲が膝の上で小さく手を重ね、ぽつりと静かな声でつぶやいた。


「私ね……4月から社会人になるの、本当はすごく怖いんだ」


「美咲ちゃん……」


「内定はもらったけど……入社する会社もすごく大変そうだし、テレビのニュースを見れば『デフレ』とか『リストラ』とか暗いニュースばかりでしょ? ちゃんとやっていけるのかなって……時々、夜一人になると不安で胸がキュッてなるの」


美咲の横顔には、堅実派の彼女がずっと一人で抱え込んしてきた、2002年の春を生きる若者としてのリアルな不安が滲み出ていた。

俺は、ポケットの中でぎゅっと拳を握りしめた。

正解の未来なんて、俺にはわからない。これからこの国がどうなっていくのか、具体的な歴史や経済のデータなんて何一つ覚えていない。

だけど、決して甘い時代じゃないことだけは、この1年で皮膚感覚として叩き込まれていた。

だからこそ――今の俺には、確信を持って言える言葉がある。


「大丈夫だよ、美咲ちゃん」


俺はまっすぐに美咲の目を見つめた。


「拓也……?」


「この1年、俺たちどれだけの壁を越えてきたと思ってんのさ。ハガキ100枚手書きして、手取りと基本給の罠に戦慄して、圧迫面接で煙に巻かれて……それでも俺たち、泥臭く足を使って、自分の頭で考えて、ここまで生き残ってきたじゃんか」


俺はファミレスで美咲が教えてくれたノートや、城ヶ崎先輩の言葉を思い浮かべながら、優しく微笑んだ。


「社会に出たら、もっと理不尽なことや厳しい壁がたくさんあると思う。だけどさ……俺が絶対に美咲ちゃんの味方でいるから。健太も、翔太もいる。何があっても、一緒に泥をかぶって、一緒に立ち上がればいいんだよ」


美咲は目を見開き、じっと俺の顔を見つめた。

やがて、その瞳にじんわりと温かな光が宿り、ポロリと一粒の涙が頬を伝った。


「……うんっ! ……うん……! ありがとう、拓也……!」


美咲は照れくさそうに袖で涙を拭うと、花が咲いたような最高の笑顔を見せた。


「私ね、拓也が隣にいてくれて……本当によかった。拓也のその変な前向きさと、いざという時の泥臭さ……私、すごく救われてたんだよ?」


「え……あ、いや……俺なんて全然……」


不意打ちの言葉に、俺の顔が一気にカッと熱くなる。

夕日の赤さのせいにして誤魔化そうとしたが、胸の奥がバクバクと早鐘を打っていた。


「おいーっ! 拓也! 美咲! 何ふたりで良い雰囲気になってんだよー!」


「夜飯の金目鯛の煮付け定食、予約の時間が迫ってるぞ! 早く車に戻れー!」


砂浜の遠くから、健太と翔太が手を振りながら大声で野次を飛ばしてくる。


「も〜っ、健太くんたちは空気が読めないんだから!」


美咲はクスッと笑って立ち上がると、俺に向かってスッと手を差し伸べた。


「ほら、拓也! 行こ!」


「……おう!」


俺はその手をしっかりと握り返し、立ち上がった。

手のひらから伝わる、温かくて確かな温もり。

楽なチートも、未来を見通す特別な力もない。

だけど俺たちには、この1年間泥をすすりながら手に入れた「自分の足で立ち、仲間と助け合う強さ」がある。


2002年3月3日。俺は22歳の誕生日を迎え、大学生活に別れを告げる。

目の前に広がっているのは、平成の荒波と、これから始まる社会人という未知のダンジョンだ。


(見てろよ平成……! 令和のZ世代をなめるなよ! どんな理不尽が待ち受けていようと、俺はこの温かな手と仲間たちを絶対に放さずに、泥臭く最高に愛おしい人生を切り拓いてやる……!!)


伊豆の海にゆっくりと陽が落ち、紫色のグラデーションの空に満天の星空が広がり始めていた。

平成の冷たくも確かな風が、俺たちの背中を力強く押していた――。


【第1部・完】

 


【次回予告】

無事に大学を卒業し、ついに始まった2002年4月の社会人生活!

「よーし、新入社員としてバリバリ働くぞ!」と意気込む拓也だったが、入社初日に彼を待ち受けていたのは、平成日本の圧倒的なアナログ空間だった……!?

「えっ……書類の申請にハンコが5個必要……!?」

「フロアで煙草吸っていいんですか!?」

「サービス残業……? 定時退社って概念、この時代に存在しないの!?」

令和のZ世代思考が一切通用しない「平成ブラック職場ダンジョン」!

理不尽な上司の洗礼、手渡しの給与明細、そして美咲たち同期それぞれに訪れる社会人のリアルな壁――。

果たして拓也は、社畜の波に飲み込まれずに自分の足で立ち続けることができるのか!?


次回、第2部・開幕! 第9話「平成社会人ダンジョンへようこそ!」

見てろよ平成……社会人になっても、俺たちの泥臭い反撃は終わらない!!

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