第7話 内定者懇親会と強引な囲い込みダンジョン
「……ぐはっ! な、なんだこの地獄の昭和ノスタルジー・ダンジョンは……っ!?」
2001年、10月上旬の金曜日、夜7時。
昼間は秋の気配を感じるものの、夜の新宿の裏通りに佇む創業数十年を誇る老舗寿司屋『魚勝』の周囲は、少し肌寒い風が吹き抜けていた。
だが――きしむ木造階段を上った2階、広々とした畳敷きの座敷個室に足を踏み入れた瞬間、熱気と男たちの煙草の煙、そして独特の格式高さに、俺――佐藤拓也(中身は2026年から来た26歳、身体は1980年生まれの21歳)は圧倒されていた。
そこにあったのは、令和の居酒屋のようなテーブル席でも、掘りごたつでもない。
整然とズラリと並べられた、一人ひとりの「脚付きの漆塗り膳」だ。
お膳の上には、豪華な刺身の盛り合わせと、塗りの器、そして大瓶のキリンラガービールと、常温の日本酒(いわゆる『冷や』だ)が入った徳利が鎮座している。
10月1日の内定式を無事に終え、今日は第6話で泥臭く内定を勝ち取った中堅商社『東洋物流資材』の東京本社・営業部門の内定者懇親会だ。
同期となる内定者は、俺を含めて男子4名、女子2名の計6名。
【説明しよう!】
10月1日の内定式!とは?
1997年の就職協定廃止以降、企業側の申し合わせなどを背景に「10月1日」に正式な内定を出し、内定式を行う慣行が広く定着していた!
10月1日当日に本社に集められた内定者たちは、社長の厳かな訓話を聞き、記念品(高級ボールペンや手帳など)を受け取る。そして「これで内定持ち(内定保持者)になったんだ」という実感を噛み締めながら、夜の懇親会へと連行されるのが当時の定番ルートであったのだ!
「やあ、みんな揃ったね。社長は別の会食があるので、乾杯の挨拶だけして帰られたが、ここからは我々営業部と人事部で君たちを歓迎させてもらうよ」
そう言って上座でニヤリと笑うのは、あの圧迫面接の時の面接官B・営業部長の吉岡だ。その隣には人事担当のベテラン・竹内課長、そして気合の入った若手〜中堅の営業社員たちがずっしりと腰を下ろしている。
(うわぁ……居酒屋じゃなくて老舗寿司屋の2階貸し切り……! お膳が並んでる宴会なんて、昔のドラマでしか見たことないぞ……! お偉いさんたち、絶対に会社の経費でうまい寿司食いたいだけだろこれ!!)
【説明しよう! 】
寿司屋・割烹のお膳スタイル!
当時、歴史のある企業や一部の中堅商社などでは、公式な懇親会や忘年会に割烹や寿司屋の座敷を貸し切る慣行が見られた!
一人ひとりにお膳が用意され、大瓶ビールと徳利で上座の幹部に「お酌回り」をするのが暗黙のマナー。そうした宴席の中には、経費で高級な寿司を味わいながら新人たちに社会人としての教育や指導を施すような場もあったのだ!
「よし! 社長からの乾杯の音頭ももらったことだし、東洋物流資材の男は酒で肝臓を鍛えて一人前だ! ほら佐藤、お前が一番年上なんだから、瓶ビール持って吉岡部長にお酌してこい!」
「は、はいっ! 喜んでっ!」
俺は令和のマナー知識を総動員し、「ビールのラベルを上にして注ぐ」というルールを思い出して一瞬焦りつつも、慎重に吉岡部長のグラスにビールを注いだ。
「ほう、佐藤、注ぎ方知ってるじゃねえか。よし、次は徳利の常温酒だ! 飲み干せ!」
「ぐはっ……! いただきますっ!」
(苦い……! 10月とはいえ締め切った座敷の中は熱気でムシムシするのに、ビールと常温酒の無限ループ……! 昭和・平成カルチャーの洗礼が重すぎる……!!)
最初は豪華なお寿司(ウニやトロが乗った本物の桶だ!)に喜んでいた同期たちだったが、開始から1時間が過ぎる頃には、座敷の空気は一変していた。
お偉いさんたちの説教と、次々と注がれるお酒。
情熱的ではあるが独特の圧を持つ幹部たちと、この畳とお膳が作り出す逃げ場のない格式高い威圧感に、内定者たちは完全に呑まれていた。
「……佐藤くん……僕、もう胃が痛いよ……」
隣のお膳に座る同期の男子学生・鈴木が、顔を青ざめさせながら小声で囁いてきた。都内の私立大に通う真面目な鈴木は、来週、本命だった大手物流会社の最終面接を控えている。向かいに座る他の男子同期2人も、上司たちの顔色をうかがって愛想笑いを浮かべたまま完全に固まっていた。
「今日のこの雰囲気……『他社も受けてます』なんて言える空気じゃないよ……。言ったら一発で内定取り消されそうだし、社会人として失格だって怒鳴られそうだし……」
斜め向かいのお膳に座る女子学生の二人――加藤と渡辺も、上司からの「営業の男たちを支える一般職の心得」という説教に、ぎこちない愛想笑いを浮かべ続けていた。
渡辺は、膝の上で握りしめたハンカチをギュッと絞るように指先を白くしている。地元の地方都市から出てきて一人暮らしをしている彼女は、実家の両親から「早く内定をもらって安心させてほしい」と頼まれていた。一般職として堅実に働き、自立した生活を送る――その選択すら、この就職氷河期においては何十倍もの倍率をくぐり抜けた結果だ。
もう一人の加藤は、上司のグラスが空くたび素早く瓶に手を伸ばしながら、口元だけで微笑んでいる。彼女には、一般職としてこの会社でキャリアを積み、いつか自分の力で専門性を身につけたいという現実的でしなやかな計算があった。
だからこそ、どれほど時代錯誤な言葉を掛けられようと、二人もまた、自分の思い描く将来と生活を守るために、必死でこの場の空気に耐えていたのだ。
氷河期の猛威に晒され、ようやく手に入れた命綱。それを盾にされ、全員が保身と緊張で自分を抑え込んでいた。
(お偉いさんたちは悪気があるわけじゃなく、これまでの厳しい時代を生き抜いてきた彼らなりの経験や感覚で接しているのかもしれない。……でも、買い手市場を背景にしたこのプレッシャーはエグすぎるぞ……!)
その時、人事の竹内課長が、お膳の上の高級な刺身をつまみながら、胸ポケットから角2封筒を取り出した。
「さあさあ、みんな美味しく食べてるかな? ここでちょっと、人事から大事な手続きがありまーす」
竹内課長はお膳と刺身皿を脇に退けると、座敷の中央に書類の束を置いた。
一枚目には黒々とした太字で『内定承諾書』、二枚目には『誓約書』と書かれている。
「ウチもね、何百人もの応募者の中から君たち6人を厳選して内定を出したんだ。わかるよね? だから、ここに『他社の選考をすべて辞退し、東洋物流資材に入社します』って署名捺印してほしいんだ。今、この場で」
「えっ……! 今ですか……!?」
鈴木の喉が引きつった。
「そうだよ? 今日は最高の寿司と酒を用意したんだ。ウチの誠意は伝わっただろ? ほら、サインして。これに書いてくれたら、内定者研修の特別手当も約束するよ。……あ、書いてくれない子は、ウチを第一志望にしてくれてないってことだから、内定も再検討せざるを得ないかなぁ〜?」
【説明しよう!】
平成の強引な囲い込み・内定辞退防止!
コンプライアンスの意識が現在ほど厳しくなかった当時、企業によっては内定辞退を防ごうとして他社の選考辞退を強く迫ったり、懇親会や研修を通じて学生を強く引き留めたりする事例もあった!
こうした書面を出したからといって、学生が必ず入社しなければならないと単純に決まるわけではない。しかし、氷河期の就活生たちにとっては「内定を取り消されるかもしれない」という心理的圧力が極めて大きく、自身の選択肢を狭めてしまうケースもあったのだ!
「っ……!? あ、あの……ぐ……っ」
鈴木の手がガタガタと震え、差し出された赤ペンを受け取ろうと指を伸ばす。
(書いたら本命の最終面接を諦めなきゃいけない。でも書かなかったら、無内定に逆戻りだ……!)
お膳が並ぶ静まり返った座敷。刺身のワサビの匂いと煙草の煙が充満する中、全員が息を殺していた。
(くそっ……! 豪華な寿司で釣って、酒と格式で圧力をかけて逃げ道を塞ぐ……これが平成の『強引な囲い込み』かよ……!!)
俺の脳裏に、先日アパートで健太、美咲、翔太と鍋を突きつつ語り合った言葉が蘇る。
『内定はゴールじゃない。自分が本当に納得できる会社を泥臭く探して、腹を括るんだ』
そうだ。
この会社には泥臭い熱量もあるし、上司たちも彼らなりの仕事の流儀で学生に向き合っているのだろう。だが、こんな形で逃げ道を塞がれ、半ば強制的にサインを迫られるなんて間違ってる!
鈴木が、加藤や渡辺が、仲間たちが自分たちの選択肢をあきらめさせられるのを、黙って見ているわけにはいかない!
俺はガタッと音を立て、お膳の前で勢いよく立ち上がった!
「竹内課長!!」
畳の部屋に、俺の声が響き渡る。
竹内課長が驚いたようにメガネを直し、吉岡部長が寿司をつまむ手を止めた。
「なんだい、佐藤くん? 酔っぱらったか?」
「いいえ! 貴社が私達を評価し、こうして豪華なお席で歓迎してくださったことには、心から感謝しています! ですが――今、ここでその誓約書に判を押すことはできません!!」
「な……っ!?」
お膳を挟んで座る同期たちが息を飲んだ。鈴木が目を見開いて俺を見上げている。加藤も渡辺も、息を呑んでこちらを凝視していた。
竹内課長の目がすっと細くなった。
「……佐藤くん。ウチの内定を蹴るつもりか?」
「違います!」
俺は胸を張り、上座の吉岡部長と竹内課長の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「私は! 貴社の現場を自分の目で見に行って、そこで汗を流して働く社員の皆さんの格好良さに惚れ込んで入社を希望しました! だからこそ――逃げ場を失ったからではなく、自分自身で納得して貴社を選びたいんです!」
「……納得だと?」
「はい! 今、この場のプレッシャーに負けて判を押したら、将来仕事で壁にぶつかった時に後悔してしまう! 私はそんな半端な気持ちで貴社に入りたくありません! 鈴木くんも、他の仲間たちも同じです! 他の選考も自分の手できちんとやり遂げた上で覚悟を持って決めたいんです! だから……誓約書の提出は、本来の期限まで待ってください!!」
俺は、お膳に額がつきそうなほど深く頭を下げた。
背中にジリジリとした冷や汗が流れる。
畳の部屋を、重苦しい沈黙が支配する。
吉岡部長はグラスを手にしたまま、眉間に深いシワを寄せて頭を下げる俺の姿をじっと見つめていた。その表情には苛立ちと、どこか昔の自分や生意気な部下を思い出しているような複雑な影が交錯していた。
吉岡部長はゆっくりとグラスを置くと、隣に座る竹内課長へチラリと視線を送った。竹内課長もまた、焦りから来る自分のやり方が行き過ぎていたことを悟り、気まずそうに目を逸らす。
「……竹内。こいつの言うことにも、一理あるな」
「部長……? ですが、確実な人数を確保しておかないと……」
「形だけの承諾書で縛り付けたところで、途中で腐られたら現場が困るんだよ。泥をすする覚悟もないやつは、うちの営業じゃ使えねえ。……まあ、青くさい理想論だがな」
吉岡部長はフンと鼻を鳴らすと、苦虫をかみつぶしたような顔のまま、どこかあきれたように吐き捨てた。
「……ぶはっ! まったく、相変わらずクソ生意気な言い草だ!」
吉岡部長はお膳を軽く叩いた。
「おい見たか竹内! こいつ、また青くさいこと言ってやがるぞ!『言い訳にしたくない』だあ!?」
「……まったくです。私も少しばかり急ぎすぎましたかね。せっかくの上寿司が台無しですよ」
竹内課長も苦笑いを浮かべると、赤ペンと書類を封筒にしまい直した。
吉岡部長は徳利を掲げると、まだどこか渋い表情を残しながらも俺を指差した。
「いいガッツだけは認めてやるよ、佐藤。寿司屋の座敷で人事のプレッシャー突っぱねるバカがどこにいる。……だがな、お前の言う通り、納得して腹括って入ってこなきゃうちの仕事は務まらねえ。おい全員、グラス持て!」
「「え……?」」
「いいかお前ら! 他に受けてる会社があるなら、最後の選考まで全部受け切ってこい! 他を辞退してうちを選ぶなら死ぬ気で働いてもらうし、他を落ちて腹くくってうちに来るなら容赦なくしごいてやるからな! 今日のところは……佐藤の不躾な度胸に免じて乾杯だ! 飲め!」
「「「か、乾杯……っ!」」」
緊張で張り詰めていた座敷の空気が、少しずつ緩んでいく。
「さ、佐藤くん……っ! ありがとう……っ!」
鈴木がお膳越しに俺の袖を掴み、安堵から目元をぬぐった。
「バカだなあ鈴木、泣くなよ! ほら、せっかくの寿司が乾くぞ、食おうぜ!」
加藤と渡辺も、強張っていた肩の力を抜き、ようやく小さな、しかし確かな意思の宿った笑顔を見せた。
「佐藤くん、びっくりしたけど……ハッキリ言ってくれて助かったよ」と加藤が息をつく。
「うん、自分の足でちゃんと考えて決めなきゃだめだよね」渡辺も静かに頷き、自分の手をぎゅっと握り直した。
威圧感に満ちていた宴席は、吉岡部長の不器用な割り切りと拓也の覚悟によって、徐々に和やかな会話へと戻っていった。
だが、一度提示された「選別」の空気や、これから突きつけられる現実の重みが完全に消え去ったわけではない。学生たちは皆、それぞれが背負う事情とこれからの選択の重みを噛み締めながら、寿司と酒を口に運んでいた。
(苦い……けど、自分の足で踏み止まって飲む酒と寿司の味は、忘れられそうにないな……)
◆
夜11時半。
宴会が解散し、秋風が心地よい新宿駅の雑踏の中。
「佐藤くん!」
改札の手前で、鈴木が走って追いかけてきた。その顔から怯えは消えていた。
「本当にありがとう。僕、佐藤くんが言ってくれなかったら、流されるまま判を押して一生後悔するところだった。……僕、来週の本命の最終面接、逃げずに全力で受けてくるよ!」
「おう! 悔いのないようにやり切ってこいよ! で、もしお互いここに入社することになったら、一番のライバルとしてよろしくな!」
「うん! 絶対負けないからね!」
がっしりと固い握手を交わし、鈴木は表情を引き締めてホームへと走っていった。
一人になった俺は、タバコと酒の匂いが染み付いたリクルートスーツの襟を立てながら、ホームのベンチに深く腰掛けた。
ポケットから取り出したガラケー(学生時代から使っている、少し前の白黒液晶モデルだ!)を開くと、アンテナマークの横に新着メールの通知が光っていた。
『拓也くん、懇親会、無事に終わった? 強引にお酒飲まされたり、変な紙に判押されたりしてない? 心配だから、駅に着いたら電話してね。 美咲』
「ふっ……心配性だな、美咲ちゃんは」
夜の冷たい風が頬を撫でる中、俺は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
強引な引き止めや圧力も時に存在した、理不尽だらけの平成の就活。
だけど、正面から泥臭く本音でぶつかれば、大人たちも受け止めてくれる瞬間もある。そして、一緒にたたかう仲間や、心配して待っててくれる美咲ちゃんがいる。
「さてと……俺も最後の選考、全力で駆け抜けてやるか!」
俺は携帯をパタンと閉じ、夜のホームに滑り込んできた黄色い帯の中央・総武線各駅停車の電車に乗り込んだ。
【次回予告!】
内定者懇親会の難所を乗り越え、ついに学生時代の終わりが見え始めた拓也たち!
2002年春、極寒の氷河期を走り抜けた4人に訪れる卒業の時!
最後の卒業旅行(夜行バス&300万画素のデジカメ!)と、2000年代初頭のエモすぎる日常の思い出!
そして、拓也と美咲の距離が少しだけ近づく……!?
次回、第8話『最初の壁を越えて』!
君は、甘く切ない学生時代の終わりを見届けられるか――!?
(つづく)




