第6話 初めての内定と「基本給」の罠
「……う、うそだろ……。これ、マジで……?」
2001年、5月中旬。
アパートの四畳半の部屋で、俺――佐藤拓也(中身は2026年から来た26歳、身体は1980年生まれの21歳)は、震える手で書き留めた手帳の文字を穴があくほど見つめたまま、ガタガタと全身を震わせていた。
手帳に記されているのは、先ほど電話口で採用担当者の重々しい声から告げられ、夢中でメモを取った文字だ。
『佐藤拓也様。厳正なる選考の結果、貴殿を内定(採用内定通知書発送)と決定いたしました』
内定――!
あの早期選考3社全滅、面接2分で追い出されたどん底から、煙の充満する圧迫面接を泥臭く乗り越え、俺はついに平成の就職氷河期で「人生最初の内定」を引き寄せたのだ!!
「やった……! やったぞおおおおお!! 氷河期ダンジョン、クリアだああああ!!」
俺は跳ね起き、狭い部屋で一人ガッツポーズを連発した。
令和の時代なら、就活サイトのマイページに「内定のお知らせ」が届いて画面上で確認して終わりだが、この時代は違う。電話で直接告げられたときの、あの耳の奥に残る生々しい感動と興奮。
投資の知識も未来予知も使えなかった俺が、自分の足で物流倉庫を見に行き、泥臭く熱意をぶつけて掴み取った正真正銘の勝利だ。
「フハハハ! 見たか平成の就活!! 社会人5年目の経験は伊達じゃないんだよ! これで俺も晴れて『内定保持者』! 勝ち組仲間入り決定だな!」
喜びのあまり速攻で健太に電話をかけようとガラケーのボタンを押しかけたその時、部屋のドアが「ドンドン!」と激しく叩かれた。
「拓也! 居るんだろ!? 開けろ!」
「拓也くん、入るわよー!」
ドアを開けると、息を切らせた木村健太と小林美咲、そしてお調子者の井上翔太の3人が雪崩込んで訪ねてきた。
「おい拓也! さっき中堅商社の担当者から『佐藤くんに連絡がついた』って城ヶ崎先輩経由で聞いたぞ! マジで内定出たのか!?」
健太が俺の肩を両手で掴んで揺さぶる。
「ふっ……当然だろ! 俺の泥臭いフィールドワークと情熱が、昭和気質の面接官の心を打ち砕いたのさ!」
俺が胸を張ってドヤ顔を決めると、美咲が「よかったね、拓也……!」と安堵の溜め息をつき、翔太が「すげえよ拓也! 氷河期のこの時期に内定獲得第一号かよ!」と自分のことのように目を輝かせた。
だが――。
美咲はふと真顔になると、バッグからクリアファイルを取り出し、俺の前にスッと差し出した。
「でね、拓也。浮かれてるところ申し訳ないんだけど……あなたが受けたその会社の募集要項、大学の就職課で控えをもらって確認しておいたの。条件面、ちゃんと自分で見た?」
「条件面? 条件も何も、募集要項にちゃんと書いてあったぞ! 『初任給:月給22万円』って!」
俺は腕を組み、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
(フフン……見くびってもらっちゃ困るな。俺は社会人を5年もやってたんだぞ? 初任給の相場感も、手取りの厳しさも知り尽くしているんだ。物価や初任給相場と比較しても、平成13年のこの時代に月給22万なら相当良い方だ! 税金やら社会保険料やらで2割くらい引かれたって、手取りで17万〜18万は残る! 毎月カツカツでやりくりしていた俺からすれば、手取り17万あれば余裕で生きていけるね! コスパ最高、完全勝利だ!!)
脳内でイキり全開で「俺様勝利の方程式」を組み立てていると、美咲が呆れたように深々と溜め息をつき、人差し指をピッと立てた。
「拓也……あなた、まさかその『22万円』が丸々手に入ると思って……なんて初歩的な勘違いはしてないでしょうけど、その金額の『内訳』、ちゃんと確認したの?」
「内訳? いやいや美咲ちゃん、いくら俺でもそれくらい分かるって! 額面と手取りは違うんだろ? 税金やら保険料やらで2割引かれて手取り17〜18万になることくらい、そりゃ俺だって社会に出る準備として勉強してるから百も承知だよ!」
慌てて「働いていた記憶」を隠しつつ、完璧な社会人知識を披露したつもりでドヤ顔を作る俺。
しかし、電卓をカチカチ叩いていた翔太が、哀れみすらこもった呆れ顔で俺を見た。
「拓也……お前、なんか『俺は社会の仕組みを分かってるぜ』みたいな顔してるけど、完全にズレてるぞ。手取りが減るなんてのは誰でも知ってる当然の話だろ。問題はそこじゃないんだよ」
「……は? ズレてる……? 手取りの話じゃないのか……?」
「内訳だよ、内訳! ほら見ろ!」
健太が重々しく、美咲が持ってきた募集要項のプリントを指差した。
「ここ見ろ。『基本給:12万円』『職務手当:5万円』『住宅手当:3万円』『固定残業手当:2万円』……合計22万円って書いてあるだろ?」
「……え? 内訳? 合計で22万もらえるなら、名目が何であれ同じじゃないのか? ポケットに入るお金は同じ22万だろ?」
俺がポカンと首を傾げると、美咲が身を乗り出し、バンッ!とテーブルを叩いた。
「全然違うわよ、この大バカ者!!」
「ひえっ!?」
「拓也、この会社の給与規定で賞与や残業代がどう計算されるか、ちゃんと確認したの!?」
【説明しよう!】
基本給+大量の手当構造(基本給抑制型給与体系)の罠!
社会人を経験し「手取り率」や「月々の生活費」ばかり気にしていた拓也は、企業の「基本給+各種手当」という給与構造の内訳を確認することの重要性を見落としていたのだ!
月給の総額が同じ22万円であっても、「基本給」の割合が極端に低い場合、会社の規定によっては将来の待遇に大きな影響が生じる!
① 賞与の算定基準:会社の規定で賞与が「基本給ベース」と定められている場合、基本給が12万円だと求人票に「年間3ヶ月分!」と書かれていても『12万×3=36万円』にしかならず、月給22万円ベース(22万×3=66万円)だと思い込んでいた拓也の計算は大きく狂ってしまう!
② 固定残業手当(みなし残業代)の注意点:手当に含まれる「固定残業手当2万円」が何時間分に相当するのか、そしてその上限を超えて働いた場合に追加支給される規定になっているかを確認しないと、過酷な残業を強いられるリスクがある!
③ 退職金制度の算定基準:将来受け取る退職金制度がある場合も、基本給を基準に計算される規定だと長年の勤続で大きな差が生まれるため、規定の事前確認が不可欠なのだ!
当時の厳しい経営環境下において、企業側も固定費である人件費を適切に管理するため、こうした細かな給与体系を採用するケースが存在したのである!
「ば……もしボーナスが『基本給ベース』の規定だったら……『22万×3ヶ月=66万』じゃなくて……『12万×3ヶ月=36万』にしかならない可能性があるのか……!? 約半分も変わってくるじゃねぇか!!」
俺は自分の頭を抱えて叫んだ。
(くそっ……! 『手取り額』ばかり気にしてたから、基本給と各種手当の内訳や、会社の規定までしっかり確認しなきゃいけないってことを見落としてた……!!)
「それだけじゃないわよ!」
美咲の追撃の言葉が、俺の胸にグサリと突き刺さる。
「基本給だろうと手当だろうと、会社が好き勝手に下げられるわけじゃないわ。でもね、手当には支給条件があるものも多いの。条件を満たさなくなれば支給されなくなることもあるし、制度の変更によって影響を受ける可能性もある。だから、基本給以外の10万円分に頼り切るのは危険なのよ!」
「制度や条件で変わる可能性……っ!?」
さらに翔太がカチカチと電卓を叩き、鋭い指摘を突きつけてくる。
「ちなみに拓也、この『固定残業手当2万円』って何時間分なんだ? もし固定残業の時間数がかなり多くて、実際の労働時間も長かったら、実質的な時給換算で居酒屋のバイト代を下回ることだってあり得るぞ。だから、時間数と超過分の扱いを確認しないとヤバいぜ」
「ぐはっ……! 時給換算……っ! 俺の泥臭い残業が……っ!」
「よし、トドメだ」
健太が腕を組み、冷ややかな視線の先に俺を捉える。
「退職金制度があるのか、あるとしたら何を基準に計算される規定なのかも要確認だ。もし基本給ベースなら、お前が夢見てた『手取りで優雅に一人暮らし』どころか、ボーナスや将来の蓄えをあてにして買い揃えようとしてた家電のローンで破綻するぞ」
「ぎゃあああああああ!! 勘弁してくれええええ!!」
俺は床にひざまずき、頭を擦り付けた。
(なんだよこれ……! 『月給22万! イケてる!』とかイキってた俺が馬鹿だった……! ちょっと社会人経験があるからってタカを括ってたら、額面の数字に惑わされて規定の確認を怠るという初歩的なミスをかましてた……!! 俺の知識、全然役に立たねぇぇぇ!!)
白目を剥いて撃沈する俺を見て、美咲たちは呆れつつも、どこか優しげな顔で見下ろしていた。
「……たく、情けない声出さないでよ」
美咲があきれ顔で、あたたかい缶コーヒーを俺の頭の上にポコンと乗せた。
「でもね拓也。企業側も、この厳しい経営環境の中で、人件費を管理しながら会社を維持しようとしているんだと思う。もちろん、その仕組みが社員にとって納得できるものかどうかは、別の話だけど……この大不況の時代に、あなたに内定が出たこと自体は本当にすごいことなんだから」
「そうそう」翔太も笑いながら俺の肩を叩く。「内訳や規定を知って『失敗した』って絶望するんじゃなくて、内訳や条件(手当の支給要件や固定残業の時間数、賞与の基準)をちゃんと確認した上で『じゃあどう働くか』『もっと納得できる条件の会社を探すか』を選べるようになったんだろ? 内定ゼロのやつらから見たら、めちゃくちゃ贅沢な悩みだぜ」
「……翔太……美咲ちゃん……」
健太が缶コーヒーのプルタブをチキッと開け、俺に手渡してくれた。
「内定はゴールじゃない。これから社会に出て生きていくためのスタートラインだ。拓也、これから届く内定通知書や雇用条件の書類をしっかり確認して、この条件で腹を括って泥臭くやるか、それとも納得いくまで他の会社も受けてみるか……お前はどうしたい?」
俺は受け取った缶コーヒーをゴクリと一口飲み干した。
苦くて、ほんのり甘いコーヒーの味が、敗北感で冷え切った胃袋にじわっと染み渡っていく。
(そうだ……知ったかぶりの知識なんて通用しない。だけど俺には、こうやって現実を突きつけて、一緒に考えてくれる仲間がいる……!)
俺はユニクロの安物ジーンズの膝をバシッと叩き、勢いよく立ち上がった。
「……よし! この内定を大切にしながら、条件や契約内容をしっかり見極めて、自分が本当に納得できる会社を泥臭く探してやる!! もう二度と『見かけの数字』には騙されねぇ!!」
俺の宣言に、健太と翔太が「よっしゃあ!」と笑って拳を突き出し、美咲が頼もしそうに目を細めた。
就職氷河期ダンジョンは、まだまだ続く。
鼻をくじかれ、ここからが本当のスタートだ。
俺はもう、逃げない。
【次回予告!】
初めての内定を得て、次なるステップへと進む拓也たち!
だが秋が近づくにつれ、企業による内定者の拘束――「強引な囲い込み飲み会」という平成特有の拘束ダンジョンが待ち受けていた!
断れない雰囲気、豪華な料理と酒、そして課される謎の課題!
次回、『内定者懇親会と強引な囲い込み飲み会』!
君は、平成の拘束ダンジョンを無事に脱出できるか――!?
(つづく)




