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第10話 ITバブル崩壊の余波と翔太の涙

「……おい翔太。マジで大丈夫なのかよ……?」


2002年、9月下旬の金曜日。

残暑の残る新宿のガード沿い、油とタバコの匂いが染みついた大衆居酒屋の奥角。

冷えた生ビールのジョッキから滴る水滴を眺めながら、俺――佐藤拓也(中身は2000年生まれのZ世代、身体は1980年生まれの22歳)は、向かいに座る親友・井上翔太の顔を覗き込んだ。


社会人になって、半年。

紙の伝票、お辞儀ハンコ、FAXの送信エラー音と確認電話の連発――。昭和の残り香を残す平成14年の「老獣」のようなオフィス文化に揉まれながらも、俺は泥臭く営業の現場に食らいついていた。


だが、同じく春からITベンチャーで働き始めた翔太の変貌ぶりは、この数ヶ月で痛々しいほど顕著になっていた。

春先は「これからはWebの時代だ!」と誰よりも生き生きと胸を張っていたあのお調子者の面影はない。

連日の残業や対応とストレスで頬はすっかり削げ落ち、目の下には消えない重々しいクマが定着していた。


「大丈夫、大丈夫だって! ちょっと最近、案件の納期が重なっててさ……」


翔太はそう言って乾いた笑いを浮かべたが、伸ばした手は力なくグラスを掴んでいた。

翔太が就職したのは、2000年代初頭のネットブームの波に乗って設立された、渋谷にある新興のITベンチャー企業だ。

学生時代、就活も後回しにして「これからはITとインターネットの時代だ!」と目を輝かせていた翔太。まだ世間がISDNからADSLへ移り変わる過渡期に、ネットや新しいテクノロジーの可能性に誰よりも本気で夢を見て、ワクワクしていた男だった。


だが――そんな翔太の弱々しい強がりを遮るように、隣に座る木村健太がバンと自分の膝を叩いた。

健太もまた、メーカーの新人営業として半年間、現場の洗礼を受けながら泥臭く踏ん張ってきた男だ。


「強がるなよ翔太! お前、初夏の頃までは『仕事は忙しいけど面白い』って言ってたろ! なのに……なんでこの数ヶ月でそんなに激ヤセしてんだよ! 隠すなよ!」


「健太……やめろって……」


「黙ってられるかよ! 拓也、知ってるか!? 翔太の会社、夏のボーナスどころか、先月からついに給料の遅配まで始まってんだぞ! それだけじゃない……あいつが学生時代からバイト代を削って買ってたIT関連の株も、長引く市場の冷え込みで評価額が底なしに下がり続けて……手元の生活費までギリギリなんだよ!」


「……っ!?」


俺は息をのんだ。

『ITバブル崩壊』――。

2000年春頃に絶頂を迎えた新興ネット企業への過剰な期待と株価の急上昇。それが一転、過熱感が冷めるとともに株価は下落に転じ、市場全体の冷え込みと不況がダラダラと長引いていた。

令和の時代、2000年生まれの俺にとって、それは歴史教科書やWikipediaの数行の記述でしかなかった。

だが、2000年のピークが過ぎ去った後も残るその冷酷な余波のなかで、じわじわと追い詰められ、ついに心が折れかけている親友の姿は、教科書の記述などではないリアルな苦境だった。



【説明しよう!】

西暦2000年〜2002年にかけて起きた『ITバブル(ドットコムバブル)崩壊』の現実!

1990年代末、インターネットの普及とともに「.com(ドットコム)」を冠するIT関連企業の株価が異常な高騰を見せた!

しかし2000年春頃をピークにバブルは弾け、株価は下落へ転じた。その後も長引く市場の低迷や冷え込みのなかで、実体経済を伴わない新興企業の資金繰り悪化や事業縮小が相次ぎ、未来を信じて投資した若者や新興IT企業の現場で働く人々へ、じわじわと厳しい影響を及ぼしていたのである!



「……拓也、覚えてるか?」


翔太が、消え入るような低い声でぽつりと呟いた。

焼き鳥の煙が燻る狭い居酒屋で、彼の声だけがやけにリアルに響く。


「俺さ、2000年の冬に……お前のアパートでテレホタイムまで待ってネット繋いでさ。『これからはITだ、インターネットが世界を変えるんだ』って、朝まで大騒ぎしただろ」


「……ああ、覚えてるよ。お前、誰よりも目を輝かせてた」


「あの時、本当にワクワクしたんだよ。紙と電話の時代が終わって、世界中がネットで繋がって、俺たちみたいな何もない若い奴でも、アイデア一つで世界を変えられるんじゃないかって……本気で夢見てたんだ」


翔太はジョッキの縁を見つめたまま、指先を白くさせるほど強く握りしめた。


「だけどさ……うちの会社に入って待ってたのは、厳しい現実だった。夏過ぎから出資者が資金を引き揚げて、取引先も連鎖倒産してさ。社長は毎日資金繰りで走り回ってて……俺たち新人も毎日『すいません、お給料は来週には必ず……』って、年上の社員さんや外注さんに頭を下げて……」


ポタリ、と。

ジョッキの結露に混ざって、翔太の目から大粒の涙が落ちた。


「株だってさ……『ここから巻き返す』ってアナリストの言葉を信じて、学生時代のバイト代から少しずつ買ってきたのに……画面開くたびに含み損が膨らんでさ。給料も遅れてて家賃の支払いも怪しくて……俺が信じた未来は……俺がワクワクしたITの可能性は……全部、俺の勘違いだったのかな……っ!?」


翔太は両手で顔を覆い、激しく肩を震わせた。

居酒屋の喧騒の中で、その小さなすすり泣きが、俺の胸を刃物のように刺した。

令和から来た俺の記憶の中にも、ネットやITが社会の当たり前なインフラとなって普及していく未来の空気感はかすかに残っている。翔太が思い描いた「ネットが世界を面白くする」という直感そのものは、決して間違っていなかったはずだ。

だが、具体的な企業の明暗や株価のゆくえまで見通せるわけではない。

過渡期の荒波、市場の過熱と冷却。その歪みのシワ寄せが、今、未来を夢見た一番純粋な若者の肩に重くのしかかっている。


(クソッ……! 何が『未来の知識』だ……! 何が『タイパ』や『効率』だ……!)


俺の脳裏に、令和の知識で要領よく立ち回ろうとしていた自分への嫌悪感が激しく渦巻いた。

未来の感覚をうっすら知っていても、今この瞬間に目の前で流れる親友の涙を止める具体的な魔法なんて、俺は持っていない。市場の動向も、企業の資金難も、個人の力でどうにかできるものじゃないんだ。


だけど――。

半年間必死に耐えて、絶望に打ちひしがれている親友に、寄り添うことならできるはずだ。

俺は拳を強く握りしめ、座敷のテーブルをドォンと叩いて立ち上がった。


「翔太!!」


「……拓也……?」


涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにした翔太が、驚いたように顔を上げた。

俺は彼の両肩をしっかりと掴み、その目を真っ直ぐに見つめた。


「お前が信じたITやネットの可能性は、絶対に間違いなんかじゃない!! お前がワクワクしたその情熱は、1ミリも偽物なんかじゃないんだよ!!」


「でも……現実はお金もなくて、会社も厳しくて……俺のやってきたことは全部……」


「今は時代の波が荒れてて、世の中が追いついてないだけだ! 会社や市場のことで倒れそうな時は……一人で抱え込まずに俺たちを頼れよ!!」


俺は自分の胸を強く叩いた。


「俺の会社なんてな、未だにパソコン1台でハンコとお辞儀マナーとFAXだぞ!? 効率なんて最悪で、毎日泥臭いことの連続だ! だけどな……俺の会社の現場のおっちゃんたちは今日も汗流して働いて、泥臭くたって確実に『自分たちのメシ』を稼いでんだ!」


「拓也……」


「会社や投資のことで行き詰まったなら、一回その泥臭い現場に足つけて立ち止まればいい! 俺の手取りだって少ないけどさ、健太だって泥臭く現場で踏ん張ってんだ! お前が食えなくなったら、俺と健太で酒代でも飯代でもいくらでも奢ってやる! だから……お前が抱いた夢や情熱まで『間違いだった』なんて言うなよ!!」


「そうだぞ翔太!」


健太も身を乗り出し、翔太の背中をバシッと力強く叩いた。


「俺たちの前でカッコつけるな! 奢られるのが悔しかったら、またいつか立ち直った時に倍返ししろ! それまでは俺たちに甘えとけ!」


「拓也……健太……っ」


翔太は袖口で何度も何度も涙を拭い、しゃくりあげながら大きく頷いた。


「……ありがとう……っ。俺……負けないよ……。今の会社の仕事の後処理もちゃんと向き合って……また一から、泥臭くやり直すよ……っ!」


「おう! それが井上翔太だろ!」


居酒屋の狭い座敷に、3人の乾杯の音が力強く響いた。

冷えた生ビールが、今夜は不思議と温かく感じられた。


◆

深夜1時過ぎ。居酒屋を出ると、初秋の少し涼しい夜風が火照った頬を撫でた。

酔いと疲労でフラフラになりながらも、どこか吹っ切れた顔をした翔太をタクシーに乗せ、俺と健太は見送った。


「……拓也。お前、今日はやけに熱かったな」


健太がポケットからマイルドセブンを取り出し、ライターの火をつけた。紫煙が夜の街灯に溶けていく。


「……カッコつけただけだよ。本当は、何もしてやれないのが悔しかったんだ」


俺はポケットの中で、分厚いガラケーを強く握りしめた。

令和の時代、画面のタップ一つで情報が手に入り、効率やタイパが持て囃される世界から来た俺。

だけど、この平成の暗闇を生きていくために本当に必要なのは、スマートな知識なんかじゃない。

半年、1年と傷つきながらも、地に足をつけて泥をかぶり、泥臭く現金を稼ぎ、大切な仲間と肩を寄せ合って生き抜く泥臭さなんだ。


(翔太……お前が信じたあの熱い情熱は、絶対に消させやしない。だから今は、泥臭く一緒に生き残ろうぜ)


「よし……明日もまた、お辞儀ハンコ押してFAX送りまくるぞ……!」


「ハハッ、お前も大変だな! 俺も明日は取引先に謝罪電話ラッシュだ!」


俺たちは顔を見合わせて笑い、それぞれの帰路についた。

時代の荒波は容赦なく押し寄せる。だけど、俺たちの絆がある限り、この氷河期を絶対に生き抜いてみせる。


【次回予告!】

ITバブル崩壊の試練を、仲間の絆で乗り越えようとする拓也たち!

しかし、社会人3年目を迎えた2004年、世間を揺るがす「ライブドア狂騒曲」と「ヒルズ族」のフィーバーが到来する!

華やかなIT長者たちの陰で、城ヶ崎先輩が授ける「手取りと固定費を見よ」という冷徹な防衛術とは……!?

次回、第11話『ライブドア狂騒曲とヒルズ族』!


君は、理不尽な組織の歪みを見る――!

(つづく)

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