第11話 ライブドア狂騒曲とヒルズ族
「……おい拓也。この『デフレ削減コスト目標』の未達分、今月中にサービス残業で帳尻合わせといてくれ。会社の上層部からは『人件費を削れ、だが成果は倍出せ』の一点張りなんだよ……」
2004年、秋。
都内下町にある『東洋物流資材』の営業部フロア。
教育係の谷口先輩が、疲れ果てた顔で俺――佐藤拓也(24歳・社会人3年目)のデスクに分厚い手書き伝票の山を置いた。
社会人になって3年目。俺を待ち受けていたのは、デフレ社会の深まりとともに加速する「理不尽な組織の歪み」だった。
会社は「IT化」や「効率化」を口にするものの、フロアの共有パソコンは相変わらず1台のまま。新しい機器の導入予算はすべて「コスト削減」の名目で削られ、そのしわ寄せはすべて現場社員の泥臭いサービス残業とお辞儀ハンコ、画面にへばりつくような伝票処理、そして伸び悩む給料として跳ね返ってきていた。
(第6話で)内定をもらった時の求人票通り、毎月の額面給料は基本給12万円に職務手当5万円、住宅手当3万円、固定残業代2万円を合わせた『22万円』だ。そこから健康保険や厚生年金などの社会保険料、住民税や所得税が差し引かれる。控除額は合計で毎月3万5千〜4万円程度となり、標準的な手取りは約18万円前後だった。
だが、体調を崩して欠勤すれば「欠勤控除」で支給額が減る。さらに会社側が業績不振を理由に住宅手当などの支給条件を厳しく見直せば、額面そのものが下がることもある。そうした事情が重なれば、手取りが16万円台にまで落ち込む月もあった。しかも、うちの会社では、固定残業代を超える分は「自己研鑽」と処理されて不払いになるのだからたまらない。これが平成16年、デフレ真っ只中を生きる若手社員の生々しいリアルだった。
(効率化のために設備投資はしない……だけど現場の根性でタダ働きして売上を伸ばせ……って、どんな組織の歪みだよ……!!)
【説明しよう!】
平成デフレ下に蔓延した『代わりはいくらでもいる』という強烈な無言の圧力!
当時であっても不払い残業(サービス残業)は明確な労働基準法上の問題であったが、超・就職氷河期を勝ち抜いて入社した若手社員に対し、現場では「文句があるなら辞めてもいい。代わりの若者なんていくらでもいる」という冷酷な空気が支配していた!
当時はハラスメントに対する社会的認知やコンプライアンス意識も現在とは大きく異なり、「雇ってもらえているだけありがたい」という心理的呪縛と黙認の中で、若者たちのサービス労働によって組織が維持されるという歪んだ労働環境が存在していたのである!
そんな職場の理不尽に耐えかねた俺が、気晴らしに大学時代からの親友・井上翔太のいる渋谷の新興IT企業の事務所を訪ねた時のことだ。
「……おいおいおい、マジかよ……! 以前の大幅な株式分割で個人投資家でも買いやすくなってから、一部のネット株への注目がさらに高まって株価がまた跳ね上がってるぞ……!? 時代の主役はネットなんだ! やっぱりITなんだよ!!」
翔太はデスクに置かれた巨大なCRTモニターにしがみつくようにして、興奮の声をあげていた。
画面に映し出されているのは、当時話題を集めていた新興ネット企業の急上昇する株価チャートだ。
ITバブル崩壊の余波で挫折を味わった2年前、翔太は「今の会社の仕事の後処理とちゃんと向き合って、また一からやり直す」と涙を拭って誓っていた。実際、あいつは低賃金とサービス残業に耐えながら、地道に現場の仕事をこなしてきたのだ。
だが、2003年から2004年にかけて一部のネット企業の業績や株価が再び活況を呈し始めると、翔太の心に焦りと情熱が沸き立った。苦しい生活から抜け出したいという切実な想いと、「俺が信じたITの未来はやっぱり間違っていなかったんだ」という純粋な情熱。そして、かつて失った損を取り戻したいという焦りが混ざり合い、翔太を再びネット株への期待へと向かわせていた。
「なぁ拓也! お前も覚えてるだろ? 学生時代、ダイヤルアップで通信費爆死したあの頃! あの時俺たちがワクワクしたネットの未来が、今文字通り現実になってんだよ! 六本木ヒルズに本社を構えて、若いIT社長がポロシャツ姿でメディアを賑わせてる……! 時代が俺たちに追いついたんだ!」
翔太の目は、かつて打ちひしがれていた頃とは違い、熱気とどこか焦りの色を帯びていた。
新興のIT関連企業に就職した翔太もまた、深夜までの過酷な労働と伸び悩む手取りという現実に直面し、「自分の力でこの苦境を打破したい」という一心で給料の大半を話題のネット株へと投じていたのだ。
「翔太……気持ちは分かるけどさ。ちょっとペースが速すぎないか……?」
俺は缶コーヒーを片手に引きつった笑いを浮かべた。
自分たちの泥臭い職場にある歪みと、翔太たちが縋りつく華やかなネット株の熱狂。その対比があまりにも歪で、胸の奥がザワついた。
【説明しよう!】
2004年〜2005年当時の『ライブドア狂騒曲とヒルズ族』!
ライブドアなどの話題企業が1株を100株にするような大幅な株式分割を実施!
株式分割そのものはピザを細かく切り分けるようなもので、企業の価値自体を直接増やすわけではない!
しかし、1株あたりの株価が下がったことで1単元(購入単位)あたりの最低投資金額が大幅に下がり、資金の少ない個人投資家が圧倒的に参入しやすくなった! これにより個人投資家の関心を集め、買い注文が増えるなどして、過熱感が生まれる一因となったのである!
メディアは六本木ヒルズに居を構える若きIT経営者たちを「ヒルズ族」と持てはやし、一部の若者たちの間で「ネット株一発逆転」への関心が大きく高まっていた!
「フッ……相変わらず堅いな拓也は! お前、まだあの城ヶ崎先輩の教えを守って『固定費削減』だの『UR賃貸』だの言ってるんだろ? 時代はスピードなんだよ! 組織の理不尽に耐えてジリ貧になるより、時代の波に乗って資産を増やす方が賢いんだよ!」
翔太はキーボードを叩きながら、画面を指差した。
その姿を見ながら、俺の胸の中には言いようのない胸騒ぎが広がっていた。
頭の中にモヤがかかったように、具体的な日付や企業のニュースなどの詳細なデータは思い出せない。そもそも、2026年の未来からタイムスリップしてきた「2000年生まれのZ世代」という記憶の認識を抱えている俺にとって、2000年代前半の史実なんて「昔ネットの解説動画とかで見た気がする」程度の、おぼろげで抽象的な知識でしかないのだ。
(……嫌な予感がする……)
この急激すぎる熱狂と過熱感。どこか薄氷を踏むような危うさが漂っていた。
◆
その日の夜。
俺は会社帰りに、一学年上の頼れる兄貴分・城ヶ崎賢治先輩と、駅前の赤ちょうちんが揺れる大衆居酒屋で落ち合っていた。
大手スーパー(GMS)に勤める城ヶ崎先輩もまた、本部からの過酷な売上ノルマとコスト削減という組織の圧力の中で、現場のパートさんや部下を守るために泥臭く戦っている中堅社員だ。
「いらっしゃい! はい、生2つね!」
賑やかな店内の棚の上、古びた14インチのブラウン管テレビが、けたたましい音量でワイドショーの映像を映し出していた。
画面の中では、六本木の真新しい超高層ビルを背景に、ノーネクタイに黒いポロシャツ姿の若い社長がマイクの列に囲まれている。テロップには『渦中の若手IT社長! プロ野球球団の買収に名乗り!?』という鮮やかな太字。
この年の夏から秋にかけて連日日本中を揺るがしていた、プロ野球の球界再編騒動の映像だ。新風を吹き込もうと強気な姿勢を見せる若手IT社長の言動は、世間では「お金で買えないものはない」というイメージとともに、大きな話題を集めていた。
テレビの前のサラリーマンたちが「おいおい、またあのIT社長か」「俺たちの給料は下がる一方なのに、世の中どうなってんだ」と溜め息交じりに呟きながら、ビールを喉に流し込んでいる。
「……金で何でも買える、か」
城ヶ崎先輩は棚のブラウン管テレビを冷めた目で見上げると、鼻で短く笑い、ホッピーのグラスをぐっと飲み干した。
「拓也。あんな華やかなニュースや、一朝一夕で手に入る大金に一部の人間が沸き立つ気持ちも分からなくはない。だがな、俺たちが生きている現場の現実はどうだ? 会社に行けば『デフレだから人件費カットだ』と叫ばれ、給料は据え置き、現場にシワ寄せがいき、いつ組織から捨てられるか分からない時代なんだよ」
「……はい。うちの谷口先輩も、上からのコストカット圧力で胃に穴を開けそうになりながらサビ残してます……」
城ヶ崎先輩は静かにグラスをテーブルに置くと、腕を組んでまっすぐに俺を見た。
「そんな歪んだ組織や不透明な時代の中で自分を守れるのはな、テレビの中のIT社長が煽る株の含み益じゃない。『確実な手取りの確保』と『徹底した固定費の防衛』だ」
「確実な手取りと……固定費の防衛……」
「そうだ。いいか拓也。家賃、通信費、保険……毎月のように発生する固定費の重さも、組織の理不尽から抜け出しにくくなる大きな一因なんだ。これを極限まで削ることこそが、どんな時代の荒波にも耐えられる強力な防御陣形なんだよ。特に『住まい』だ。UR賃貸のように、礼金や更新料、保証人の負担を抑えられる住まいもある。周囲の変なトラブルを避けつつ、会社の都合や自分の収入に合わせて、柔軟に住まいと固定費をコントロールできる場所を選ぶんだ。足元を固めた奴が、最後に生き残るんだよ。……もちろん、出る固定費を削るのも大事だが、そもそも入りの給料を勝ち取るために、日々の仕事を現場で泥臭く真面目にこなさなきゃいけないのは言うまでもないがな」
【説明しよう!】
なぜ城ヶ崎先輩の説く『固定費削減』が強力な防御陣形なのか!
2000年代初頭は、商品や条件によっては低金利のローン商品も存在していた時期!
「新築マンションを買うのが正義」という持ち家ブームも起きていたが、過度なローンや将来の修繕費・固定資産税リスクに人生を縛られる若者も多かった!
その点、城ヶ崎先輩の説く「UR賃貸の活用(更新料・礼金・保証人負担の軽減)」は非常に有効な手段であった!
そして後年には、変化する不動産市況(建物の安全性や構造への不信が高まった時期など)を踏まえ、「構造や管理状態のしっかりした築浅中古マンションを見極めて安値で抑え、低金利ローンで住居費を極限まで下げる」という選択肢も考えられるようになっていく!
時代に応じたアプローチの違いはあれど、まずは日々の仕事で泥臭く手取り給料というキャッシュフローを勝ち取り、「人生最大の固定費である住居費を極限まで削って手取りを死守する」という本質こそが、デフレ下における力強い生活防衛策だったのである!
城ヶ崎先輩の重厚な言葉と、その背後にある現実的な合理性が、居酒屋の煙と焼き鳥の香ばしい匂いの中に深く染み渡っていく。
(……待てよ。城ヶ崎先輩の言ってること、めちゃくちゃ正論だし……なんか、もっと先の未来の『答え』に直結してる気がする……!)
俺はホッピーのグラスを握りしめたまま、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
共働き(ダブルインカム)で確実なキャッシュフローを作り出し、住宅ローンや余計な手数料などの固定費を極限まで削る。
すでに制度が始まっていた個人型確定拠出年金などの節税策や、将来登場するような制度を活用しながら、浮いた余剰を……。
なんかパズルのピースのような、そうではないような不思議な感覚が頭を駆け巡る……。
【説明しよう!】
拓也の頭の中を駆け巡る、令和の資産形成における『NISA&iDeCo』の予感!
2001年に確定拠出年金制度が始まり、2002年には個人型(現iDeCo)も導入された! だが当時の名称や認知度は異なり、企業の年金形態等によって一般会社員の加入には厳しい制限が存在していた!
だが未来の令和時代には、制度上の枠内で利益が非課税となる『NISA(少額投資非課税制度)』やiDeCoの拡充、格安の全世界株ファンドなど、投資環境が飛躍的に高度化することになる!
共働きで収入の土台を安定させ、固定費を最小限に抑え、生まれた余剰資金を毎月コツコツ長期積立運用する――これこそが、将来の選択肢を広げ、自分なりの幸せを守るための力強い方法の一つなのだ!
2004年当時はまだそうした環境や制度が十分に整っていなかったが、城ヶ崎先輩の「しっかり稼いで固定費を削り、足元を死守する」という教えこそ、将来のあらゆる選択肢へと繋がる確かな土台(基礎)だったのである!
(『徹底した固定費削減』という守りの哲学……絶対に間違ってない。なぜかは分からないが俺の直感がそう知らせるのだ……!)
胸の奥から湧き上がる強烈な納得感と熱い感銘に、俺は思わず身を乗り出した。
「先輩……! 俺、分かりました。どれだけ組織が理不尽でも、時代が浮ついても、俺は城ヶ崎先輩の教え通り、泥臭く足を地につけて固定費を削り、手取りを守り抜きます! そして……翔太を止めます。あいつ、このままだとまた時代の波に呑まれて傷つく……」
城ヶ崎先輩は一瞬驚いたように目を見開いたが、やがてふっと口元を緩め、俺の肩を力強くぽんと叩いた。
「……フッ、止めて聞くような奴ならいいがな。人間、自分で転んで痛みを知るまで分からないこともある。拓也、お前がその覚悟を持ってるなら安心だ。お前だけは絶対に足元を見失うなよ」
「はい……っ!!」
◆
それから一年余りが過ぎた――西暦2006年、1月16日、夕刻。
居酒屋の14インチのブラウン管テレビから、けたたましい緊急ニュースのチャイムが鳴り響いた。
画面を埋め尽くしたのは、重々しい『ニュース速報』の赤文字と、六本木ヒルズに建つライブドア本社へスーツ姿の捜査員たちが次々と押し入っていく衝撃的な映像だった。
『……速報です。東京地検特捜部は本日夕刻、証券取引法違反の疑いで、ライブドア本社および関連先の強制捜査を開始しました――』
ざわめく店内。サラリーマンたちが一斉にテレビを見上げ、息をのむ。
そして、その衝撃が冷めやらぬわずか一週間後――1月23日夜。
再び画面に『緊急ニュース速報』の文字が躍った。
『……東京地検特捜部は、証券取引法違反の容疑で、ライブドア社長ら幹部4人を先ほど逮捕しました――』
画面には、大勢の報道陣のフラッシュを浴びながら、固い表情で車に乗り込む社長の姿。
【説明しよう!】
なぜ時代の寵児であったライブドア社長は逮捕されたのか!
事態の発端は2006年1月16日、東京地検特捜部によるライブドア本社や社長自宅への突如たる強制捜査!
そして一週間後の1月23日、社長らが証券取引法(現在の金融商品取引法)違反の容疑で逮捕されたのである!
容疑は、関連会社を使った「偽計取引」や「粉飾決算(虚偽の有価証券報告書提出)」、さらには株式交換や売却を巡る不適切な会計操作などであった!
利益を大きく見せかけて株価を吊り上げ、その高くなった自社株を使って買収を繰り返していた疑惑が表面化! 市場の信頼は完全に失墜し、証券取引所の処理能力を超える売り注文が殺到して東証が売買停止に追い込まれるなど、日本経済に激震が走ったのである!
画面の向こうで、新興ネット株の株価チャートが連日のストップ安で真っ逆さまに暴落していく。
(……ウソだろ……っ!?)
俺は手に持ったホッピーのグラスを握りしめたまま、凍りついた。
あの日、「時代はネット株一発逆転だ!」と目を輝かせて全財産を注ぎ込んでいた翔太の顔が、脳裏をよぎる。
時代を象徴していた「ヒルズ族」の崩壊。
熱狂の宴は、あまりにも唐突に、そして残忍な形で終わりを告げたのだ――。
【次回予告!】
ライブドア・ショックの直撃を受け、一発逆転の夢が破れ絶望する翔太。
さらに平成の世は、定率減税の縮小・廃止や社会保険料の増額により「昇給したのに手取りが減る」という地獄の現実を突きつける!
窮地に立たされた拓也たちの元へ、美咲が授ける驚愕の起死回生ハックとは……!?
100均・ドラッグストア・業務スーパーを駆使した「激安トライアングル作戦」が今、爆生する!
次回、第12話『ワーキングプアの足音とデフレ節約術』!
君は、時代の狭間で足掻く若者たちの真実を見る――!
(つづく)




