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第12話 ワーキングプアの足音とデフレ節約術

「……うそだろ。手取り、また減ってんじゃねぇか……!」


西暦2006年、10月。秋風が冷たく吹き抜ける夜。

入社5年目、26歳になった俺――佐藤拓也は、薄暗い6畳一間の自室で、ローテーブルの上に広げた紙の給与明細を二度見、三度見していた。


「おかしいだろ! 今年、会社からは『厳しいご時世だが、拓也くんも5年目だからね』って、基本給が5,000円上がったんだぞ!? なのに振込額……手取りの現金が前年より3,000円減って16万7,000円って、どういう怪奇現象だよ……っ! 昇給したのに手取りが減るって、どんな逆転現象だよ……!!」


世間では「いざなみ景気」だの「戦後最長の景気拡大」だのと、テレビのニュースが華やかに煽っている。しかし、そんなバブル気取りの景気感なんて、俺たちが働く現場には1ミリも届いていなかった。

むしろ、上がるのは給料ではなく「引かれる税金と社会保険料」の方だったのだ。



【説明しよう!】

西暦2006年! 1999年に導入された「定率減税」は、前年の税制改正で半減が決まり、この年から所得税や住民税の負担にその影響が表れ始めていた! さらに年金保険料や介護保険料などの社会保険料も段階的に引き上げられていた時期であった!

こうした税や社会保険料の負担増が、働く人々の手取りを圧迫する大きな要因になっていたのだ!

さらにテレビや雑誌では「格差社会」や「ワーキングプア(働く貧困層)」という言葉が連日踊り、どんなに真面目に働いても生活が好転しない若者たちの叫びが、平成の社会表面に浮き彫りになり始めていたのである!



「はぁ……。おかしいな……俺は令和からタイムスリップしてきたはずなのに……。未来じゃ『放置しておくだけで勝手に資産が増えるすごい仕組み』があったはずなんだよ……! なのに、なんて名前だったか思い出せねぇ……! そもそもこの2006年にそんな便利な概念が存在してないから、単語すら頭に浮かんでこないのか……っ!? くそっ、思い出せない未来の投資術より、今夜の飯代が火の車だよ!!」


家賃5万5,000円、電気・ガス・水道・携帯電話代で約2万5,000円、奨学金の返済……。そこから食費や日用品代を引けば、手元に残る自由なお金なんて数千円あるかないかだ。

頭を抱えて畳の上に転がり、頭痛に悶えていると、部屋のドアが「コンコン」と軽やかに叩かれた。


「拓也ー、開けてー。美咲だよー」


ガチャリとドアを開けると、大きめの買い物袋を両手に抱えた美咲が入ってきた。

同じく社会人5年目となった美咲は、落ち着いたオフィスカジュアルを身に纏い、すっかり頼もしい大人の女性の雰囲気を醸し出している。


「ちょっと拓也、また給与明細見ながら体育座りして溜め息ついてたでしょ?」


「……うぐっ。美咲ちゃん、なんで分かったの……」


「そりゃ分かるわよ。私も今月の明細見て『はぁ!?』ってなったもん。だいたい拓也、ゴミ箱見てみなさいよ」


美咲は部屋の隅にある小さなゴミ箱をジロリと睨みつけ、腰に手を当てた。


「コンビニの上げ底弁当の空き容器に、毎朝買ってる150円のペットボトルのお茶、夜食のカップ麺にチョコのレシート……! お昼の弁当とお茶だけじゃなくて、朝の缶コーヒーや夜食までコンビニで済ませてたら、あっという間に1日1,000円以上使っちゃってるでしょ!? それだけで毎月3万円以上の大きな支出よ! 税金が増えて手取りが減ってるのに、そんな『無意識に垂れ流してる日々の出費』を放置してたら、毎月火の車になるに決まってるじゃない!」


「ぐうの音も出ません……っ!」


ギクッと心臓が跳ね上がる。

……この既視感、どこかで……そうだ、入社1年目の時に城ヶ崎先輩から『固定費(通信費や家賃)を削減しろ』と一喝されたあの時の構図と全く同じだ……! 先輩が経営の視点で固定費を指摘したなら、美咲ちゃんは生活の現場から日々の変動費を見抜いてる……!


「だからね、今日は拓也に『デフレ時代の絶対防衛術』を教えに来てあげたの!」


美咲はそう言うと、持ってきたトートバッグから大量の買い物袋を取り出し、ローテーブルの上にドサッと並べた。

そこには、馴染みのあるロゴがズラリと並んでいる。

『ザ・ダイソー』『100円ショップ Can★Do』『マツモトキヨシ』『業務スーパー』


「……100均だけじゃなくて、ドラッグストアに業スーまで? これが防衛術……?」


「そうよ! 今のデフレ時代、単に『ひとつの店で買い物を済ませる』のは一番の愚策なの! 店舗ごとの強みを使い分ける『激安トライアングル作戦』こそが、食費という大きな変動費を限界まで削る防衛ラインなのよ!」



【説明しよう!】

西暦2000年代中盤! デフレの長期化に伴い、庶民の買い物ルートは劇的な進化を遂げていた!

品質が爆発的に向上した『100円ショップ』はもちろんのこと、業務用サイズを一般客向けに開放して話題を集めた『業務スーパー』、そして調味料やカップ麺・冷凍食品をスーパー以上の目玉価格で投入し始めた『ドラッグストア』!

これらの店舗を使い分ける「デフレハック」は、手取りの増えない若手社会人にとって必須の生存戦略となっていたのである!



「いい、拓也? よく聞いてね」


美咲はレシートと商品を交互に指差しながら、テキパキとレクチャーを始めた。


「まず、調味料や洗剤・トイレットペーパーみたいな日用品、それにお茶やジュースは『ドラッグストア』の目玉商品を狙う! 2リットルのペットボトルのお茶はスーパーやコンビニより圧倒的に安くて、100円を切ることもあるの! 拓也が毎日買ってる500mlの150円ペットボトルなんて論外よ!」


「ひぇっ、100円以下……!?」


「勝負どころは『業務スーパー』よ! 1キロ入りの徳用スパゲティは200円以下! そして、週末に格安スーパーの『タイムセール』で鶏むね肉や豚こま切れ肉をジャンボパックでまとめ買いするの! これを100均で買ったフリーザーバッグにラップで1食分ずつ小分けにして冷凍保存! 一度に使い切ろうとするから食費がかさむのよ!」


美咲はテキパキとキッチンに立ち、エプロンをつけながら料理の手を動かし始めた。


「さらにここからが『自炊レシピのハック』よ! 業務スーパーの徳用パスタと激安ツナ缶、そこに100均の塩昆布とめんつゆを和えれば、1食あたりおよそ60円計算で『ツナと塩昆布の和風パスタ』の完成!」


美咲はまな板の上に大根ときゅうりを取り出し、包丁をトン、トンと軽快に鳴らし始めた。


「炭水化物だけじゃ栄養が偏るから、1本80円のバラ売り大根と、3本100円のきゅうりを1本使って千切りにして……100均の刻み海苔とごま油、醤油をサッと和えれば、1食約20円計算で『シャキシャキ大根サラダ』の出来上がり! これなら材料費だけで1食合計約80円! コンビニ弁当1回分の値段で、何回美味しく食べられると思う?」


トントンとリズム良く刻まれていく均一な千切り。美咲の手際鮮やかな包丁さばきと、一切の無駄がない流れるような動き。そしてキッチンから漂ってくる、香ばしい醤油とごま油のたまらない匂い……俺は思わず見惚れてしまっていた。


「こうやって『ドラッグストア』『業務スーパー』『100均』のトライアングル店舗活用に、買いだめ&冷凍小分け、そしてかさ増し自炊レシピを組み合わせれば、拓也の今の買い方なら毎月2万円近く浮かせる余地は十分あるのよ!」


美咲が「はい、召し上がれ!」と目の前に差し出してきたのは、湯気とともに食欲をそそる香りを放つ和風パスタと、みずみずしい大根サラダだった。

箸を取ってパスタを一口口に運ぶ。

……激ウマだ。ツナの旨味と塩昆布の出汁が絶妙に絡み合い、シンプルな材料とは思えないほど奥深い味わいが口いっぱいに広がる。続けてサラダをシャキシャキと頬張ると、胡麻油と海苔の風味がさっぱりと口の中をリセットしてくれて、箸が止まらない。


「……うまっ!! なにこれ、めちゃくちゃ美味いんだけど……!!」


「ふふん、でしょ? デフレだからって惨めな思いをする必要なんてないの。知恵を使えば、安くたってこんなに美味しくて豊かなご飯が食べられるんだから!」


満足そうに微笑む美咲の横顔を、俺は夢中で箸を動かしながらじっと見つめていた。


(……城ヶ崎先輩が会社経営の視点で固定費を説いたなら、美咲ちゃんは生活の現場から日々の出費をハックして見せた……。同じだ。たくましさの次元が違う……!)


平成の世の中は理不尽で、手取りは減る一方だし、未来の便利な投資術なんて何ひとつ使えない。だけど、目の前で腕をまくり、このタフな時代を知恵と笑顔でたくましく生き抜こうとしている美咲ちゃんが、とてつもなく眩しく、愛おしく見えた。

高級レストランのディナーなんかじゃない。6畳一間のアパートで、業スーのパスタと100均の調味料、80円の大根から生み出された「1食約80円の最高にエモいごちそう」。そして、俺の胃袋と心を完璧に掴んで離さない、最高にたくましいパートナー。


(エモすぎるだろ、美咲ちゃん……っ! 一発逆転のバブルなんかより、俺はこういう泥臭い暖かさの中で生きられる方が、よっぽど幸せかもしれない……)


「拓也? 顔を赤くしてどうしたの? パスタ熱かった?」


「へ!? あ、いや! 美味しすぎたのと、美咲ちゃんが凄すぎて感動してただけ!!」


慌てて誤魔化す俺の元へ、ドタバタという重い足音とともに健太と翔太が部屋に駆け込んできた。

……だが、翔太の顔はまるで幽霊のように蒼白だった。


「おい拓也! 美咲! 翔太を乗せてきたぞ……!」


健太が苦々しい顔で叫ぶ。


「えっ……翔太!? どうしたんだよその顔……!」


翔太はフラフラと畳の上に崩れ落ちるように座り込み、テレビの方を指差した。


「……見たろ……? 今年の春……保釈されたあのライブドアの社長……髪を短く丸刈りにして、カメラのフラッシュの中で頭下げてたニュースの映像……」


「あ……ああ。あの保釈の時の映像か……衝撃的だったよな……」


「僕……この前、拓也にも威張ったよな……『時代はネット株だ、一発逆転だ』ってさ……。給料のほとんど、貯金のほぼ全額をライブドアや新興ネット株にぶち込んでたんだ……。それが1月の強制捜査から連日のストップ安……っ! 売りたくても売れなくて、あっという間に紙くず同然になっちゃったんだよ……!!」


翔太は床に額を擦り付けんばかりにして震えていた。

「テレビで丸刈りの社長を見た瞬間、血の気が引いたよ……。それだけじゃないんだ。あの事件の後、ネット企業を見る世間の目が厳しくなってさ……うちの会社も案件がバタバタ凍結。夏のボーナスは大幅カット……。一発逆転どころか大損して借金寸前まで追い詰められて……同期も『この業界に未来はない』って先月辞めていった……っ!」


「……あの時、拓也が『ペースが速すぎないか』って止めてくれたのに……僕、調子に乗って城ヶ崎先輩の言う『固定費削減』や『地道なキャッシュフロー』をバカにしてた……。自業自得だよ……っ!」


溢れ出す悔し涙と、全身を包む敗北感。翔太は膝に顔をうずめ、絞り出すような声でずっと自分を責め続けていた。

健太が黙ってその肩を力強く抱きしめ、俺はゆっくりと翔太の前にしゃがみ込んで肩を叩いた。


「翔太。株で大損したって、ボーナスが減ったって、お前のエンジニアとしてのスキルや、俺たちの絆まで紙くずになったわけじゃないだろ? 一発逆転なんて狙わなくていいんだよ。ここから泥臭くやり直せばいい」


美咲がフライパンに残った温かいパスタとお皿のサラダを盛り付け、翔太の前に置いた。

「そうよ翔太くん! 株で損した分は、これから私たちが教える『激安ハック作戦』で日々の出費を削って取り戻すの! ドラッグストアと業スーと100均を使い倒して、買いだめと冷凍保存をマスターすれば、毎月2万円近く浮く余地はあるんだから!」


健太が「そうだぞ」と頷きながら、拓也のキッチン棚を勝手にガサゴソとあさり始めた。


「炭水化物とツナ缶、根菜なら我が家に腐るほどストックしてあるんだから、飢え死になんてさせねぇよ!」


すかさず拓也と美咲が声を揃えて突っ込む。


「……いや、ここ『俺の家』だし! 相変わらず空気読まないな健太!」


健太は悪びれもせずニカッと笑った。


「なんだよ、俺たちの溜まり場なんだから実質我が家だろ! 俺は俺スタイルだからな!」


くだらないやり取りに、緊張がすっと和らぐ。美咲はくすっと笑い、翔太に優しく声をかけた。


「ほら翔太くん、まずは温かいもの食べて、少し話そう?」


美咲に差し出された箸を受け取り、翔太はおそるおそるパスタを一口口に運んだ。

あたたかい湯気と、口いっぱいに広がる優しい出汁の旨味。ずっと一人で絶望と戦っていた翔太の喉が、くくっと小さく鳴る。


「……うまい……。なにこれ、すごく温かいや……」


涙で濡れた目を擦りながら、二口、三口とパスタを夢中で頬張る翔太。その強張っていた表情が、湯気の中でほんの少しだけ柔らかく解けていった。


「ハハっ……ツナパスタで生活立て直しなんて、どんな泥臭い投資術だよ……」


照れくさそうに小さく笑った翔太に、俺は笑って拳を突き出した。


「泥臭くて最高だろ? 時代が冷え込もうが、ライブドアが弾けようが、俺たちは今日を必死に生きてる。激安ハックの知恵を寄せ合って美味い飯食って笑い合ってる俺たちは、絶対に『負け組』なんかじゃない!」


健太がドン・キホーテの激安ウーロン茶をドカンとテーブルに置いた。


「よし! 今日はまずしっかり美味いもん食って、翔太の話じっくり聞くぞ! それからみんなで再出発の宅飲みだ!」


一発逆転の夢が弾け、痛手を負った翔太。

手取りが減り、格差と不況の足音すら忍び寄る平成の現実。

時代は決して優しくない。だけど、失敗しても何度でも立ち上がり、泥臭い知恵と温かいご飯、そして仲間の支えを頼りに歩んでいく。


(未来の便利な投資術なんて知らなくてもいい。転んでも支え合えるこの仲間と、美咲ちゃんのたくましい知恵があれば、俺たちはどんな時代だって生きていける……!)


俺は美咲ちゃんが作ってくれたパスタの温もりを胸に、明日への一歩を踏み出す勇気を噛み締めていた。


【次回予告!】

ライブドア・ショックの傷を乗り越え、激安ハック作戦で立ち上がった翔太と拓也たち!

しかし、平成の激動は世界を呑み込む『漆黒の暗雲』を連れてやってくる!

西暦2008年、世界を揺るがす金融危機――「リーマンショック」が連鎖爆発!

吹き荒れる株価暴落、相次ぐ企業の倒産、そして派遣切りとボーナスカットの暴風雪!

絶望の深淵に立たされた拓也の元へ、城ヶ崎先輩が授ける「UR賃貸・最後の防衛陣形」とは――!?

次回、第13話『リーマンショック襲来!ボーナスカットの嵐』!


――君は、世界の終わりを見る。

(つづく)

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