第23話 コロナ禍と激動の時代を越えて
「……おい拓也、ニュース見ろよ。マジで街から人が消えてるぞ……」
西暦2020年、4月中旬。
自宅であるUR団地のリビングで、ノートPCの画面越しにWeb会議ツールを繋いだ木村健太が、固い表情で画面の向こうの俺――佐藤拓也(40歳・社会人19年目)に語りかけていた。
画面の端には、画面共有されたニュース映像が映し出されている。
昼間だというのに、人影が途絶え静まり返った新宿や渋谷の交差点。
『緊急事態宣言、全国に拡大――』『外出自粛・イベント中止・店舗休業要請』『世界の株式市場、歴史的な急落……』
未知のウイルス――新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的感染拡大。
4月16日には緊急事態宣言の対象が全国へと拡大され、世界全体が突如として漆黒の暗黒と強い不安の渦に呑み込まれていた。
「俺の会社も完全在宅勤務になったよ。……営業なのに客先にも行けねぇ。街の店舗や飲食店も休業だらけだ。世界がこの先どうなっちまうのか……マジで先が見えねぇよ……」
画面の向こうで、健太が力なく頭を抱える。
同じ画面の別のウィンドウでは、フリーランスのエンジニアとして在宅ワークを続ける井上翔太も、引きつったような苦笑いを浮かべていた。
「僕のところも、クライアントの新規Webプロジェクトがバタバタと凍結されてる……。それに……拓也、見たろ? 証券アプリの画面」
「……ああ。見てるよ」
俺は手元のスマホの画面を見つめた。
2018年10月31日、妻の美咲と、当時4歳だった長女の未来の小さな指を重ねて押し、コツコツと毎月積み立ててきた『eMAXIS Slim 全世界株式』――通称オルカン。
画面に表示されているのは、見るも無惨な「マイナス」の赤い数字。
2020年2月から3月にかけて襲った、いわゆる『コロナ・ショック』だ。
わずか数週間のうちに、世界中の株式相場が雪崩を打って暴落し、オルカンの資産評価額も急速に含み損を抱え込んでいた。
【説明しよう!】
2020年春の『コロナ・ショック』と市場の激震!
未知のウイルスの出現により、世界中の経済活動が突如停止! 株式市場は恐怖に包まれ、主要国の株価指数はわずか1ヶ月余りで30%〜40%近くも急落するという、歴史的な大暴落を記録した!
「全世界株式」であっても、世界中の株に投資している以上、組入資産の価格変動の影響を受けるため、こうした世界規模の暴落からは当然無傷ではいられない!
市場には「世界恐慌の再来か」「このまま世界の終わりが来るのではないか」という強い不安が蔓延していたのだ!
「拓也……大丈夫なのかよ?」健太が心配そうに画面を覗き込んでくる。
「せっかく一昨年から『未来のために』って夫婦で積立ボタン押したのに……オルカンだってこんなに暴落しちまって。解約したり、積立止めたりしないのか……?」
画面の向こうで、健太と翔太がハラハラしながら俺の答えを待っていた。
「……解約? 積立を止める?」
俺はゆっくりと首を横に振った。
その時、リビングの奥から、トントンと軽やかな足音とともに、エプロン姿の美咲(40歳・信用金庫勤務)が温かいマグカップを二つ持って歩いてきた。
登園自粛で保育園がお休みになり、奥の部屋でお絵描きをやっていた5歳になった長女の未来が、「パパー、おやつまだー?」と顔を覗かせる。
美咲は俺の隣にすっと腰掛け、画面の中の健太と翔太に向かって、いつもの凛とした、あたたかな笑顔を向けた。
「健太くん、翔太くん。我が家のCFOとして言わせてもらうけど、積立を止めるなんて1ミリも考えてないよ?」
「ええっ!? 美咲ちゃん、だって資産が目減りしてるんだぞ!?」
美咲は静かにほうじ茶を一口含み、優しく目を細めた。
「あのね、健太くん。私たちが信じて積立ボタンを押したのは、この金融商品が『絶対暴落しない魔法の宝箱』だからじゃないの。暴落したからって恐怖で慌てて全部売り払ったり、自分たちで決めた長期の計画を、短期的な恐怖だけで投げ出したりしない。……だって、私たちは知ってるでしょ?」
美咲の言葉に、俺は胸の奥が熱く高鳴るのを感じていた。
そうだ。
2000年、手書きハガキ100枚の就職氷河期から始まった俺たちの歩み。
圧迫面接、手取り12万円の基本給の罠、1食80円の激安パスタ、ライブドア・ショック、リーマン・ショック、日経平均6,994円のどん底、超円高75円、そして東日本大震災の震える夜、保育園の落選通知……。
俺たちは、何度も何度も「世界が終わるような暗黒」をくぐり抜けてきた。
世間がどれだけ荒れ狂おうと、俺たちが本当に信じてきたものは、画面の向こうの株価チャートでも、金融商品という記号でもない。
これまで美咲と一緒に泥をかぶり、知恵を絞り、UR賃貸で固定費を守り、お互いの手を握りしめて暗黒を乗り越えてきた「自分たちの歴史」と「家族の絆」そのものだったんだ。
投資は、その大切で愛おしい家族と生活を守るために選んだ、ただの「手段」にすぎない。
「……健太、翔太」
俺はPCのカメラに向かって、静かに、だが肚の底から絞り出すような力強い声で語りかけた。
「世界がどうなろうと、俺たちの信じる心は手放さない!」
画面の向こうのふたりが、息をのんだ。
「オルカンだって無傷じゃないさ。世界が荒れれば当然下落する。だけどな、俺たちが信じているのはオルカンでも市場でもない。これまで20年間、どんな暗黒だって一緒に二人で、そして仲間とくぐり抜けてきた自分自身と、この家族の絆なんだ」
俺は手元のスマホを握りしめた。
「短期的な市場の暴落や恐怖で、二人で積み上げてきた未来の計画まで自分から壊していたまるかよ。何があっても動じない。慌てて売らない、投げ出さない。自分たちが決めた長期の計画を、短期的な恐怖だけで感情的に壊さないんだ。世界が荒れたって、俺たちは今まで通り、粛々と自分たちの人生を生きて、積立ボタンを押し続けるだけだ!」
俺が笑うと、隣の美咲もふわりと優しく微笑み、俺の手に自分の手を重ねてくれた。
「そうだよ。世界が荒れても、私たちがこれまで積み上げてきたものは、1ミリだって暴落しないんだから♪」
画面の向こうで、健太が目を見開き、やがて「ハ……ハハッ!」と大声をあげて笑い出した。
「参ったな……! クソっ、相変わらずお前らは強いよ! 就職氷河期の修羅場を全部越えてきた夫婦の言葉は、重みが違うぜ……!」
翔太も涙ぐみながら、晴れやかな笑顔を見せた。
「そうだね、拓也、美咲ちゃん。僕もライブドアやリーマンで『恐怖で投げ出すこと』が一番ダメなんだって学んだはずだった。画面の数字に怯えて自分たちの未来を信じられなくなったら、それこそ負けだよね」
「おう! 世界がどうなろうと、俺たちは倒れないぞ!」
◆
それから数ヶ月。
激動の2020年が過ぎ、時代はリモートワークや新しい生活様式へと順応しながら、ゆっくりと、だが確実に前へ動き出していった。
市場のパニックが落ち着くとともに、各国の金融・財政政策なども支えとなり、世界の株式市場は徐々に回復へ向かっていった。そしてオルカンの資産評価額も再び息を吹き返し、かつての暴落を乗り越えていくこととなる。
だが、俺たちにとってそんな数字の増減は、おまけのようなものだった。
休日。あたたかな日差しが差し込むUR団地のリビング。
5歳になった未来が、ダイニングテーブルで楽しそうにお絵描きをしている。
その隣で、美咲がドラッグストアの特売チラシとPCの画面を交互に見比べながら、「拓也ー、今週末は業スーでまとめ買いハックだよ♪」と楽しそうに笑っている。
俺は温かいコーヒーを飲みながら、その愛おしい光景を目を細めて眺めていた。
楽な未来なんてどこにもなかった。
予知能力も、一発逆転のチートもなかった。
だけど、泥にまみれ、不器用に助け合いながら二人で積み上げてきたこの20年間は、どんな金銀財宝よりも誇らしく、愛おしい。
(見てろよ、どんな時代が来ようと……俺たちはこの手と絆を絶対に放さずに、泥臭く最高に幸せな人生を歩んでやる……!)
激動の時代を越えて、俺たちの足元には、揺るぎない確かな未来の光が満ちていた。
【次回予告!】
コロナ禍という未曾有の嵐を、22年培った揺るぎない絆で乗り越えた拓也たち!
時代は流れ、西暦2026年――。
平成の泥臭い就活から激動の時代を駆け抜け、拓也は温かな日常の中にいた。
隣には優しく微笑む妻の美咲と、すくすくと成長した子供たちの声。
手に入れたのは、何物にも代えがたい「今」の幸せ。
次回、ついに最終話!『転生(?)したら就職氷河期でしたが、最高に泥臭く愛おしい人生でした』!
――僕たちが手に入れた幸せを、見てください!
(つづく・最終話へ)




